感情を発散するのは大事。ただ手段は選ぶべき

どんな感情でも表に出したい。
それ自体に悪いことなどありません。
特に負の感情、これはため込んではいけないものです。
ため込むと自分を壊してしまう、それを防ぐために感情を発散させる、この行動は正しいと思っています。
ため込んではいけない感情、これは発散しないといけません。
そうしないと自分が壊れてしまうから。
感情の発散。
私の経験と、思ったことについてつらつらと語っていきたいと思います。

正の感情は表すと幸せの連鎖、負の感情の喜びは負の連鎖

正の感情。
私はこれを喜びやうれしさ、楽しさなどの感情だと思っています。
正の感情は、SNSで発信しても基本的に他者を不快にすることはないでしょう。
もちろん、一部の人にとっては不快に思うかもうしれません。
しかし、これはあくまで一部です。
大多数の人は同じように正の感情で答えてくれます。
例えばSNSでの結婚報告や出産報告、子供の成長を喜ぶ。
これらを不快に思う人はそう多くない。私はそう信じています。
性善説。
これを信じているわけではありませんが、性悪説より性善説、こちらの信じていきたいことは、間違いではないと思っています。
性善説なら、悪い人は生まれない。
これは違うと思っています。
性善説はあくまで人間には初めから備わっているもので、それが環境や成長とともに善にも悪にもなる。
特に環境。これ次第で人は変わる。
私はそう考えています。
話はそれましたが、本来なら人は他者での幸せでも祝福できる存在である、私はそう思っています。
とくに自分にかかわる人の慶事は祝福すべきです。
ただし、一部を除く、これが前提です。
私の言う一部とは、祝福できない事情を身近な人や他者に与えた人。
これらの人の慶事は素直に喜べません。
なぜなら、身近な人や他者の犠牲の上に幸せを手にしているから。
誰もが幸せになりたい。これは当たり前の感情。
しかし、幸せになる過程がすべてを決めると、私は思います。
そう、身近な人や他者に対し善の心で接してきた人。
また、苦労しながらも幸せを手に入れた人。
このような人の正の感情は祝福するべきであり、温かく見守るべき。
しかし、善性ではなく、道を踏み外したもの。
身近な人や他者を傷つけ貶めたうえで幸せを誇示する人。
このような人は、祝福するに値しない。むしろ今までの報いを受けるべき。
そう考える私は、性格が悪いと思っています。
ですが、踏みにじることに慣れた人の幸福、これを祝福できるのは同類だけ。でも、同類での腹の中ではどう感じているのやら。
他人の幸せは基本的に祝福しますが、その人の歩んだ道を見定めたうえで祝福するべきであり、その感情は連鎖し、ほかの人にも幸福を与えます。
幸福は連鎖します。
喜びの連鎖。これは共有するべき暖かな感情。
しかし、負の感情から得た幸せは偽り。いつかしっぺ返しが来る。
それに気が付かないのは当人だけ。
因果応報、そういいますが私は因果応報は人生の中であると信じています。
正の感情の元の幸せの連鎖、負の感情の元の幸せの連鎖。
あなたならどちらを望みますか。

SNSは諸刃の剣

嬉しい報告をSNSで発信する。
現代では当たり前に行われること。
この行動は過去の発信も同時に閲覧できます。
そのため、まずいと判断した発信を削除し、嬉しい報告をする。
祝福してほしいから、ほかの人より優れていると示したいから、自己顕示欲の表れ。
しかし、幸せの報告だけで終わらないのがSNSの怖いところです。
かつての自分の発信を他者に暴かれる。
これはSNS上でよくみられる光景です。
デジタルタトゥー。
SNSではよくこれにより、今までのことが暴露されます。
そのことも深く感がないで、良いことも悪いことも発信する。
人は考えることができる。
だから発信していいこと、悪いことの区別はつきます。
とくに不特定多数の人が自由に閲覧できるもの、これには細心の注意を払うべきです。
感情の発散の場としてのSNSの活用。この行動自体は正しいでしょう。
しかし、発信する内容は考えるべきもの。
そう、自分のかつての武勇伝。これを語ることを批判する気はありません。
ですが、どのような武勇伝なのか。
この内容はしっかりと確認するべきであり、発信を見た人もこの武勇伝についてどう思うかを真剣に考えるべきものです。
人助けなどの武勇伝、積極的に発信してほしい。
しかし、人助けを無意識に行える人は、たいてい発信しません。
当たり前だから。
当たり前の行動だから、あえて発信しないのです。
しかし、人を傷つけたことを武勇伝のように語る。
これは発信してよいものではありません。
自己の欲求を満たすためだけの発信。
それは時として、人を傷つける諸刃の剣。
その子との認識したうえで発信している人はいるのでしょうか。
私は知りたいです。

感情の発散、いろいろある。

簡単に感情を発散させる方法が、SNS。
私はそう思っています。
幸せなどを共有し、いい意味で感情を発散させることは、積極的に発信してほしいです。
特に暗いニュースにあふれているときは、幸せのおすそ和歌としての発信は、人の心を豊かにします。
ところが、負の感情の発散目的の発信、これは人を不快にし、最悪の場合は事件へと発展します。
その例が他者に対する誹謗中傷であるだろうと考えます。
他者を攻撃することで、自分の欲求を発散する。
これほど迷惑なことはないでしょう。
誹謗中傷するのは楽であり、自分へのリターンが大きすぎます。
一時的に自分の欲求は満たされる、しかしその代償を知ったうえで他者を傷つけるのだろうか。
答えは否です。
中傷する人は、その後のことを考えず、仲間を作り群れてさらに誹謗中傷を繰り返す。
その先に待つのは、法の裁き。
一時の感情がリターンとして降りかかります。
そこで心から悔いるのならいいだろう。
しかし、大半は法の裁きを受けてなお、誹謗中傷を繰り返す。
自分が何をしているのかわかっていないから、そう思います。
たしかに自分の感情は発散されます。
ただ、人を傷つけ、その人の名誉を傷つけてまで自分の感情は発散させるべきではない、そう思います。
行き過ぎた感情の発散は、ときに諸刃の剣となって多くの人を巻き込み、自分の身に降りかかる。
このことを認識したうえで、感情は発散させないといけません。
ストレスとなるものは、発散しないと本人が壊れてしまいます。
しかし、発散方法、手段だけは考えましょう

私の感情の発散。マネしないでほしい。

感情を発散させることは大事です。
ただ、発散方法はよく考えなくてはいけません。
ここで、私の感情の発散方法をご紹介します。
正直に言います。絶対にマネしないでください。
犯罪行為ではありませんので、あしからず。
私は正の感情はよく家族等と共有しています。
正の感情は話すことによって、いい意味で発散されるとともに、気持ちが共有できる喜びも実感できています。
しかし、負の感情。
これの発散だけはどうしても苦手です。
負の感情だけは、どうしてもため込んでしまいます。
その気持ちは蓄積されるだけで、まったく発散できません。
そうなると、どういう行動に出るか。
私は負の感情が高まると、皮膚をかきむしることで落ち着きを取り戻します。
皮膚をかきむしれば、当然血が流れます。
血が流れるまでかきむしることで落ち着きます。
主治医からは一種の自傷行為であるから、なるべくかきむしらないで別の方法を見つけていこうといわれました。
確かに別の方法を見つけるべきだとは思います。
それでも、別の方法が見つからず、結局かきむしることで落ち着いています。
これがなかなか治らない。
困ってはいますが、ほかの方法が見つからないので仕方ない、そう思っています。
いい方法はないものか、今日も考えています。

どんなことでも手段は大事

今回は感情の発散に重きを置いていますが、どんなことをするにしても手段は選ぶべき、私はそう思っています。
自分の選んだ手段によって、傷つく人がいる、それは必ず避けなければならないことです。
何かをする手段、それは人の数だけやり方があるでしょう。
自分だけの手段を見つける、これは重要なことです。
自分に合ったものを選択できたということですから。
しかし、道徳心は忘れてはいけません。
犯罪行為が自分に合っている、そう考えてはいけないと考えます。
なぜかというと、他者を傷つける行為を自分にゆるということは、自分が同じ目にあったとき、だれにも助けてもらえないどころが、自身の行動に対する罰を受ける。
どんな形であれ、人は必ず罰を受けます。
自分の行動が自分に返ってきたとき、適切に対処できないのであればそれは取るべき手段ではないということです。
勉強がいい例かもしれません。
自分に合った勉強方法を見つけ、その通りに実践する。
その結果が点数として、評価として現れます。
ところが、一定数勉強をしないでカンニングに頼る人もいます。
結果として見つかり処罰の対象となります。
仮に見つからなかったとしても、知識として自身に定着しません。
知識がない、つまり中身がないと同じこと。
空っぽの自分自身で満足ですか?
空っぽにならないために、人は手段を選びながらあがいているのです。
そうして苦しむこと、考えることで人は成長し、自然と自分に合った手段を見つけられます。

感情と手段。
一見関連がないように見えて、実は関係があります。
手段を選びながら自分とうまく付き合うこと。
今日も私はあがいています。
自分に合った手段を見つけるために。

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