黒い金魚は足るを知る
好きな人に呼び出された
ある夏休みの1日。
私は青と水色の空と雲を眺める。雲はゆっくりと西へ向かって流れていく。そして、ひつじの群れのように行儀よく列をなしていた。
背中にタイルのじりじりとした熱が伝わってくる。私は学校のプールサイドで仰向けに寝そべっていた。まだ時間まである。もう少し目を閉じていよう。
今朝、懐かしい夢を見た。
3人で地元の小さな夏祭りに行った時の思い出だ。私とミナトと雫は金魚すくいをしていた。
私は赤い金魚達から離れたところにいる1匹しかいない黒い金魚が欲しかった。
ミナトはそれに気づいて私のために必死に黒い金魚をすくおうとしてくれた。
夢はそこで途切れた。
この出来事は本当にあった事なのだと思うのだが、その先に何が起きたのかすっかり忘れてしまった。
記憶なんて本当にいい加減だ。
「全ての細胞は200日で生まれ変わる」とどっかの本に書いてあった気がする。だとしたら今いる私は本当に過去から続いている正真正銘の私なのだろうか。
それを証明する術が私にはない。
ただ一つの証拠は私を呼ぶ声
「な ぎ さ !」
私の名を呼ぶこの声が私である事を証明してくれている。
「どうしたの。雫。こんな所に呼び出して。」
「どうしたのじゃない。
聞いたよ。県大会辞退したの?」
「うん。そう...って、わわっ。何?つめた!」
仰向けに寝そべっている私に対して雫は立ったまま上から見下ろして話していた。
私が話している途中で、雫は音もなく静かにペットボトルを傾けて、水を私に垂らしてきた。
水はなぜかスローモーションのように、ゆっくりと私の体や顔に降り注いだ。
それはまるでどこかの売出し中のバンドのプロモーションビデオの一場面のようであった。
きらきらしてうつくしい、と思った。
私は雫を静止することなく見つめていた。雫も私を見つめていた。
しばらくして雫は不服そうな表情を浮かべ、どこかへ行ってしまった。
私はそのまま仰向けの姿勢でぼんやりとさっきの雫を思い出していた。
たぶん雫は怒っている。
わかっているけど仕方ないのだ。
水を注ぐならこの乾いた心にも注いで欲しい。
私をびしゃびしゃにしてくれないか。
「おーい。渚さん。何でそんなにびしょ濡れなの。」
この声はミナトだ。ひたっひたっと近づいてくる足音がする。ミナトは私を見下ろして一瞬困ったような顔をして、自分のカバンからタオルを貸してくれた。
私はタオルをつかんで、自分の体を拭きながら起き上がる。服が結構濡れていてミナトが困った顔をした理由がわかった。私はタオルを覆うようにかけて話しかける。
「うーん。雫が怒ってる。」
「県大会の事だろ?もう話したら?辞退した理由。」
「嫌だよ。言えない。去年のやつがひびいて、思うように泳げないからなんて...絶対言いたくない。」
「わかるけどね、それで雫と喧嘩してたらしょうがないじゃんか。僕がそれとなく言っとこうか?」
「うーん。いくらミナトが頭が良くて、人に上手く説明できる人でもそれはだめだ。却下です。」
去年の体育で雫がバレーボール中に後ろ向きに転倒しそうになったのを、近くにいた私が助けた。
その時は体が動物のチーターのように本能的に勝手に動いていた。
気づくと雫は助かったが、私は足を少しひねって腱を痛めてしまった。
私はその痛めた腱の事をミナトには話したが雫に話していない。
その事が少しばかり響いてしまい、勝ち進んだ今年の県大会を辞退した事も言えてない。
泳げない訳ではない。ある程度は治った。しかし、後輩の方が早いタイムを出せる。ただそれだけだ。
こんなに応援してくれている雫が、この事を知ったらきっと悲しむと思う。私は彼女が悲しむ顔を見たくない。好きな人には笑っていて欲しい。
黙る私の横でミナトはいつものように何を話すわけでもなく、ただそばにいてくれた。
私はその夜、ベッドで寝転がりながら考え事をしていた。
小さい頃から赤い色は好きじゃなかった。ランドセルの色にも当然違和感を感じた。
「女の子の当たり前」のいくつかのルールは私の存在を否定し、私がまともじゃない事を突きつけてくる。
でも....私はただ昔から一緒にいるミナトと雫が好きなだけだ。
そして、雫の笑顔を見ていたい。
一番近くにいたい。何でも彼女と楽しいを共に経験したい。誰にも触れさせたくない。抱きしめて自分だけのものにしたい...。
私にとっては普通の事だけど、誰かの普通ではないだけだ。
朝の夢の事をあの後ミナトに話した。
「懐かしいね」とミナトは微笑んだ。
私は「そこからどうなったか覚えていないんだ」と話した。
ミナトは少し考えてこう言った。
「自分で思い出してみたら?渚ならきっと思い出せるよ」
私は夢の続きを思い出そうとしていたがまぶたが段々重くなり、再び違う夢の世界へ旅立ってしまった。
何日か経ったある日。
今度はミナトに私は呼び出された。
『夜の7時、学校プールに集合』
LINEにはそう書いてある。夜の7時?また変な時間だなと思いながらも私はいつもミナトのいう事には逆らえない。彼がやる事に間違いはないと長年の付き合いでわかっている。私は素直に従った。
夜の7時と言えども夏場はまだそんなに暗くはならない。蝉時雨の声を聞きながら暑さが残るプールサイドに到着した。
プールには一面に水がはってあった。
私が驚いていると、ミナトが笑顔でひょっこりと現れた。
「今日はサプライズ。
渚様、プール貸切dayです。どうぞご自由にお使い下さい。」
ミナトは執事のようにポーズを決めながら私を見つめた。
「どうやって言いくるめたの?守衛さんにバレない?」
「僕は優等生だからいろんな人脈があるの。気にしないで大丈夫」
「あのねぇ、優等生はこんな事しないんだよ。こういうタイプが政治家になるんだ。一番世の中で悪いやつなんだよ」
私はにやりとしながら、足早にミナトに近づき肩を叩く。
「でも今日は悪いやつに乗っかるよ。ちょっと着替えてくる」
私は部室に行って自分のロッカーから水着を出して着替えた。
戻ってきて好きに泳いだ。
私はバタフライが得意だ。でも他の泳ぎも好きだし、何より水の中にいると自由になれる気がしてた。
水と私をへだてる皮膚の浸透圧が変化して、私は水と同化している。そんな妄想をよくする。
そうすると私の普通ではない心の濃度が薄くなり、黒い色も透明に近づき、雫の事もただの友達として付き合えるかも。そんな妄想もよくする。
「 な ぎ さ 」
雫の事を考えていたら雫の声が聞こえてきた。
私は妄想だけでなく「幻聴が聞こえている」と思っていた。しかし、段々声がクリアに聞こえてくる。
水面に顔を出す。
そこには雫が立っていた。
「本当に悪いやつだよ。おそろしいやつだ」
私はあの日以来会っていないミナトの隣にいる雫の元へゆっくりと近づいた。
気まずい。
私は雫が話すのを待っている。
ふと雫の手元を見るとビニール袋を吊り下げていた。
薄暗いのでよく見えなかったが、徐々に目が慣れてきて、そのビニール袋の中にいる生物が認識できたと同時に驚き、思わずその名を叫んでしまった。
「金魚!…..っていうか、雫.….あの、……その……私」
「いいの!渚!……私が悪かったの。渚はいつも最善の事を考えて行動しているのはわかっていたのに。私が勝手に渚があきらめてしまったんだと思って。それが悲しくて、だっていつも頑張ってきたの見てたから。もう夏が終わっちゃうんだと思うと悲しくて….。」
雫は私の話を遮って一気に話し始めた。
私は泣きそうな雫の手をそっと取って
「うん、わかった。私も勝手に決めてごめんね。」
と耳元でささやいた。
様子を見ていたミナトが私たちに近づいてきて、ある一つの提案をする。
「その黒い金魚と泳いでくれば?
忘れていた大切な思い出も、何か思い出すかもよ。」
「えー!だって、金魚は塩素に弱いんじゃない?泳がしちゃって大丈夫?」
「それなら大丈夫。カルキ抜きの錠剤をさっきミナトが入れたから。金魚も泳げるよ。行ってきて、渚」
雫は私を見つめて笑顔で水の中へ送り出そうとしている。
『つくづく、策士だな。こいつ』と私は思いながらミナトを睨みつける。
ミナトは私の視線に気づきながらも、わざとすました顔をしながら、雫から受け取った金魚をプールへ離した。
金魚は広いプールを自由に泳いだ。
私はそれを追いかけるように静かに泳ぎ出す。
ひとかきひとかきするたびに、黒い金魚はゆらゆらと水中を泳ぎ、まるで私との追いかけっこを楽しんでいるようだった。
そして水をかくごとに、私はミナトがさっき言ったように、昔の思い出を取り戻していた。
そうだ。
あの日。
黒い金魚は結局つかまらなかった。
ポイが破れて、気の利かない屋台のおじちゃんは赤い金魚をビニール袋へ入れて私達へ無造作に渡した。
雫は黒い金魚と交換できるようにおじちゃんと交渉しようとしていたが、お客さんがいっぱい待っていたので私がそれを止めたんだ。
帰り道、ミナトのうちへみんなで寄った。
赤い金魚はミナトのうちで飼うことになったからだ。
ミナトの部屋でお祭りのヨーヨーなどの戦利品をお互いにを見せ合いっこしている時に、ミナトがある1冊の絵本を持ってきた。
「スイミー」
と書いてあった。
読んだことのない本だった。
「これを渚に貸すから読んでみて」
ミナトは真剣な眼差しで、その黒いちっぽけな魚の絵が描かれた絵本を渡してきた。
私はミナトのその眼差しを見つめ返しながら、ゆっくりとうなずいてその本を雫と一緒に読んだ。
スイミーは黒い小魚が主役のお話だ。
カラス貝のように黒く素早い小魚。それがスイミー。
マグロが迫ってきても逃げる事ができましたが
赤い魚たちはみんな一飲みにされてしまいました。
ひとりぼっちのスイミーは暗い海の底を漂いました。
こわくてさみしくて孤独を感じます。
しかしスイミーは冒険を続けるうちにステキな面白いものを見つけます。
色は違うけど自分のカタチにそっくりな赤い魚たちに出会います。
「みんなで遊ぼうよ。」スイミーはみんなを誘いましたが
「大きな魚に見つかったら食べられてしまうからだめだよ」
と赤い魚たちは岩陰から出てきません。
本を読み終えた時に雫に言われたことば
「渚は私にとっての黒い魚だよ。スイミーだね!」
そうだ
私は黒い魚
みんなと一緒の赤じゃなくて
特別な人の黒になれればいい
スイミーは自分の体を大きい目に見せかけて
赤い魚たちをまわりに囲ませて
相手の大きい魚よりさらに巨大な魚のフリをして撃退する。
私は私
黒のままでいいって
大事な人がこんな昔に言ってくれていた
私は水面を目指して泳ぐ。
ざばっと顔を上げて振り返る
雫に手を振った。
雫は私に向かって大きく手をふり返す。
ミナトも横で片手をあげて小さく手を振る。
やわらかく気持ちのいい風が後ろから頬をなでる。
大丈夫だって思った。
もう大丈夫。
大きく息を吸い込む。
私は前にすすめる
黒い金魚はゆらめいて
進路のない自由な世界を
小さな小さな体で
いつまでもいつまでも
私の横で
泳ぎ続けていた。
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