役所の窓口から見える景色と、Googleマップには映らない景色
ノマド政策家のフィールドノート第1回
「橋本さんの仕事は、一言で言うと何ですか?」
ある取材の終盤でそう聞かれて、私は数秒、黙ってしまった。
コンサルタント?半分も合っていない。政策アドバイザー?一面にすぎない。まちづくりプランナー?それも違う。結局、「セクターの間に立って、言葉と仕組みを翻訳している人です」と答えた。我ながら、名刺に書けない肩書きだと思った。
この連載「ノマド政策家のフィールドノート」は、その"名刺に書けない仕事"の現場で、私が日々出会う景色を書き留めていく場にしたい。
霞が関の鳥瞰図
私は元々、経済産業省の官僚だった。14年間、政策を「作る側」にいた。
制度を設計し、予算をつけ、全国に適用する。いわば鳥瞰図の世界である。Googleマップをズームアウトして日本列島を見下ろすような感覚で、人口動態のグラフ、産業統計の表、地域経済のヒートマップを眺める。自分の書いた文書が閣議決定され、何千億円という予算が動く。責任の重さに比例するスケール感があった。
ただ、ずっと小さな違和感を抱えていた。
鳥瞰図はマクロの全体像を捉えるのに優れている。しかし、路地裏で子どもが走る風景や、商店街のシャッターの向こうで誰かが新しい挑戦をはじめている気配は、そこには映らない。決裁ラインは長く、関係省庁との調整に時間がかかる。現場の声が届く頃には、フィルターが何層もかかっている。
その違和感を抱えたまま、私はニューヨークに渡った。国家公務員として初めてパーソンズ美術大学院のMFAに留学し、デザインの方法論を学んだ。
ただし、帰国後すぐに会社を立ち上げたわけではない。霞が関に戻り、特許庁やデジタル庁で「政策×デザイン」という領域の実装に、5年ほどかけた。その一つが、社会課題を知的財産の力で解くI-OPEN PROJECTだ(グッドデザイン賞もいただいた。この話は次回じっくり書きたい)。
デザインを学び、政策の現場で実装してきた5年。その蓄積を抱えて、2024年9月、株式会社Kumanomicsを立ち上げた。クマノミとイソギンチャクの共生関係から名前をもらった、小さな会社である。
川崎町の10日間 — Googleマップには映らない景色
創業してから深く関わっている現場の一つが、宮城県川崎町だ。人口およそ8,000人。仙台から車で40分ほど、蔵王の麓にある町である。
この町には、JRは通っていない。スーパーもない(数年前に撤退した)。一方で、コンビニは複数あり、ドラッグストアもある。霞が関時代の私なら、川崎町はエクセルの一行——人口減少率と高齢化率の数字——として処理されていたはずの場所だ。
きっかけは、JR東日本と宮城県庁から「政策とビジネスを共創するコーディネーションをしてほしい」という依頼をいただいたことだった。気仙沼や閖上(ゆりあげ)など、被災地域を中心にフィールドワークを重ねる中で、「廃校活用に本気で取り組んでいる人がいる」と教えてもらい、川崎町の町議会の佐藤清隆さんに出会った。
清隆さんから「ここで一緒に何かできないか」と声をかけていただいたのが、この1年の伴走の始まりだ。あちこち分散して動くより、一箇所に集中した方が効く——JR東日本のWaaS共創コンソーシアムの会員企業5〜6社とともに、川崎町に継続的に通う体制を組んだ。
そしてある時期、私は家族とともに、町の移住者向け無料滞在施設に10日間住まわせてもらった。

最初の1〜2日、町は正直に言えば「何もない町」に見えた。これはおそらく、多くの来訪者が抱く第一印象だと思う。しかし、10日間という時間は、景色を少しずつ描きかえていった。
国営みちのく公園の、平日
町には国営みちのく公園がある。年間60〜70万人が訪れる、立派な公園だ。家族と平日に訪れたとき、公園そのものは完璧に整っていた。ただ、明らかに「観光の場所」として成り立っていて、「地域の人の場所」ではなかった。平日、地元の子どもが駆け回る姿は乏しい。その風景が、象徴的に見えた。
観光拠点としては成功している。でも、この町に住む人の日常とは接続されていない。そういう施設は、地方にたくさんある。

川遊びで出会った親子
滞在中のある日、子どもを連れて近くの川で遊んでいたら、仙台市から来たという父娘と出くわした。少し話す機会があり、お父さんはこう言った。
「子育てをするなら、仙台市よりこの川崎町のほうがずっといい。川でのびのび遊べますよね。移住も選択肢に入るかな、と思っているんです」

私は、この言葉をよく覚えている。こういう人は、きっと他にもいる。しかしこの町には、そもそもアパートがほぼない。空き家は山ほどあるのに、空き家バンクに出てくる物件は驚くほど限られる。「知り合いでないと貸さない、売らない」という地方特有の壁が、移住希望者と空き家のあいだに立ちはだかっている。
需要はある。供給も(潜在的には)ある。にもかかわらず、両者が繋がらない。これは鳥瞰図上の「空き家対策」という制度設計だけでは、絶対に見えてこない摩擦だ。
スーパーのない暮らし
「この町にはスーパーがないんです」
と教えてくれたのは、前述の議員さんだった。東京に住んでいるとピンとこない事実だが、暮らしてみると影響は大きい。実際には、ドラッグストアが食料品の一部を担い、車で近隣の町まで行って補う——それでなんとか生活は成立している。
ただ、特にご高齢者にとって「魚が買えない」という課題は切実だ。町営の乗り合いバスに乗って、わざわざ隣町まで魚を買いに行くご高齢の方々がいる。
この事実を知ったとき、私は逆のことを考え始めた。「スーパー」という形式に、もしかしたらこだわる必要はないのかもしれない。ドラッグストア、移動販売、直売、マルシェ——暮らしに必要な機能を、別のかたちで再構築できるのではないか。政策文書に「スーパー誘致」と書いた瞬間、解は狭まる。現場から見ると、もっと広い解空間がある。
点在する魅力が、繋がっていない
10日間住むうちに、もうひとつの景色が見えてきた。
この町のどこかで、地域外からも高く評価されるナチュラルワインを造っている人がいる。薪を徹底して活用し、電気に極力頼らない宿泊施設を営んでいる人々がいる。欧州の大使がわざわざ音楽を聴きに訪れる、音楽家が住んでいる。
魅力は、確かにある。ひとつひとつは、都会から見れば羨ましいほど尖っている。
ただ、それらが互いに繋がっていない。お互いを知らない。観光客にも移住希望者にも、情報として届いていない。「地域の場所」として編集されていない。
これが、10日間滞在しなければ絶対に見えなかった景色だ。Googleマップにも、統計表にも、政策文書にも映らない。鳥の目から虫の目に切り替わるのに、私の場合は10日かかった。
虎ノ門ヒルズのGlass Rockにて — 「最後の1マイル」
もう一つ、最近印象に残っている景色の話をしたい。
私はいま、森ビルが虎ノ門ヒルズで運営する共創拠点「Glass Rock」の共創コーディネーターを務めている。行政官・企業・NPO・大学の研究者が日常的に集まってくる場所だ。
3月下旬、ここで東京大学公共政策大学院(GraSPP)と山梨県の連携イベントが開かれた。私が非常勤講師を務める「公共政策のデザイン」という講義で、東大の学生チームが半年かけて山梨県の「ケアラー支援」——家族の介護を担う人への支援——をテーマに政策提案をまとめ、現地でフィールドワークを重ね、県庁の職員の前でピッチしたのだ。

学生の提案の核は、抽象的に言えば「生活動線のなかに支援の入り口を置く」という発想だった。介護者本人が役所の窓口までたどり着くのを待つのではなく、日々の暮らしの導線のなかに、支援と出会う接点を設計する——そういう考え方である。
提案に対して、山梨県庁の方がこう応えた。
「制度を作ることはできます。でも、それを届ける"最後の1マイル"は、行政だけでは難しい。このご提案は、その最後の1マイルを埋めてくれる。」
行政は制度を作れる。しかし制度を現場の暮らしに届ける経路——最後の1マイル——は、行政だけの手だけでは埋められない。そこを埋めるのは、民間の事業者、地域の住民、当事者のすぐ隣にいる人たちだ。学生の提案は、まさにその1マイルを誰が・どこで・どう埋めるかを描いていた。行政が単独では届けられないからこそ、この提案には意味があった。
この発想を起点に、県庁内では具体化の検討が動き出している。
私はこの場面を見ながら、川崎町の「スーパーがない」問題と同じ構造をここに見た。制度も政策もある。しかし、現場の暮らしに届く経路がない。その"最後の1マイル"こそ、セクターの間で共に設計されなければならない領域だ。
教室の問いから、県庁の動きへーーこの連鎖は、偶然ではなかった。
翻訳の連鎖を「設計」する
学生の言葉を研究者の言葉に。研究者の言葉を行政官の言葉に。行政官の言葉を政策の意思決定に。そしてその政策を、現場の"最後の1マイル"に届けるビジネスの力に。
この連鎖の一段ごとに、文脈が変わり、言語が変わり、意思決定のロジックが変わる。多くの場合、どこかの段階で翻訳が詰まり、対話は一回限りのイベントで終わる。
私がやっているのは、この翻訳の連鎖を「設計」することだと思う。誰がどの段階で関わるか、どの言葉でどの文脈に接続するか。偶然に任せず、意図的に経路を引く。
単に翻訳するだけではない。翻訳が起こる経路そのものを、関わる人たちと共に設計する。翻訳者であり、同時に共設計者(co-designer)。それが「ノマド政策家」という肩書きで、私がやろうとしていることだ。
恩のある元上司の言葉
以前、恩のある元上司と議論していたとき、ふとこんな言葉が出た。
「政策を、行政の独占物だと思い込んでいたこと。それ自体が、誤りだった。ルールを変え、物事を動かすのは、現場のNPOや企業や住民の側だ」
14年間を霞が関で過ごした私にとって、この一言は、自分の前提をひっくり返す言葉だった。政策は行政のものだという無自覚の思い込みが、自分の中に確かにあった。それが崩れた瞬間から、私の仕事の景色は変わった。
政策は、霞が関や県庁の専売特許ではない。現場で課題に向き合う人、技術を持つ企業、当事者の声を代弁するNPO——彼らの知恵と行動が、制度という器に注がれて初めて、政策は血の通ったものになる。
だから私は、いま、一つの組織に属さずにセクターの間を渡り歩いている。ある現場で見た景色を別の現場の言葉に翻訳し、経路そのものを共に設計する。それは上司のあの言葉を、自分の働き方として引き受けることでもある。
あなたの窓口からは、何が見えていますか?
正直に言えば、まだ歩み始めたばかりだ。翻訳がうまくいかないこともある。設計した経路が途中で止まることもある。セクター間の溝は、思っているよりずっと深い。
それでも、川崎町の仙台から来た父娘の声が、空き家と制度を繋ぎ直す仕組みに変わり得ると信じている。東大生の問いが県の動きになる瞬間を、この目で見てきた。
これは、私一人の話ではない。
あなたが企業にいるなら、その技術やサービスはきっと誰かの政策課題を解ける。あなたが行政にいるなら、その制度設計の力は、現場の声と繋がることで何倍も効く。あなたがNPOにいるなら、その現場知は、政策の言葉に翻訳されることで全国にスケールしうる。
あなたが今いる場所の窓口からは、どんな景色が見えていますか?
その景色を、隣のセクターの誰かに話してみてほしい。言葉が通じないことに気づいた瞬間に、もう翻訳は始まっている。
ところで——今回の記事でちらりと触れたI-OPEN PROJECT。「知財」と聞くと「独占」を思い浮かべる人が多いと思う。私もかつてはそうだった。しかし、霞が関で最も「固い」と言われる特許庁のミッションが、ある日、12年ぶりに書き換えられた。「一人ひとりが創造力を発揮したくなる社会を実現する」——その一文が生まれた経緯と、グアテマラの山奥の織物職人との出会いが、実は一本の線でつながっている。次回はその話を。
編集後記〜てのひら草子〜

妻の橋本みどりです。夫の直樹のそばで、この記事を最初に読む者として言葉を添えさせてください。 私はもともと看護師で、「行政」も「政策」も、正直ちょっと遠い世界の話だと感じていました。でも夫の仕事を手伝うようになり、これまでも意外と身近なことだったと気付きました。
看護師時代、残業規制が厳しくなったことで仕事を急かされることが増えました。質の高さを求めたいのに時間が足りない。やりたいことができない上に急かされて、とても辛かったのを覚えています。現状を良くするための政策で、私はかえって苦しくなった。逆に仕事の早い人は、また違った不満があったでしょう。制度を作った人が悪いのではないと思います。
現場の一人ひとりの事情が違うのに同じルールが降りてくる。夫が記事で書いている「最後の1マイルが届かない」という話は、まさに私自身が経験したことで、そういうことは誰しも身近に潜んでいるのではと。
夫はなんだか難しいことを言いますが、根っこにあるのは「隣の人の声をちゃんと聞きたい」という、ごくシンプルな気持ちだと思います。たくさんの人が声を出せて、その声がつながって、何かが少しでも変わる。言うは易し行うは難し、ですが、それを本気で体現しようとしているところなのです。
あの頃の私みたいに、声にならないまま抱えている人は、きっとたくさんいると思います。
そんなたくさんの人に想いの伝わるものにしていきたいので、読んでいて「ここが響いた」「ここは分かりにくい」など、気軽に教えてもらえたら嬉しいです。次回もどうぞよろしくお願いします。
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橋本 直樹(はしもと なおき)
株式会社Kumanomics 代表取締役/ノマド政策家
東京大学法学部卒業後、経済産業省に入省。国家公務員として初めて美術大学院に留学。米国パーソンズ美術大学にてMFA(美術学修士号)を修了。帰国後、知的財産権により社会課題を解決する「特許庁 I-OPENプロジェクト」の立ち上げなどに携わり、2023年に同プロジェクトでグッドデザイン賞を受賞。2024年、株式会社Kumanomicsを設立。組織の枠を越境する「ノマド政策家」として、企業と行政が共創し、ビジネスと政策を一体でデザインするプロジェクトを多数手がける。その他、虎ノ門ヒルズGlass Rock共創コーディネーター、東京大学公共政策大学院 非常勤講師などを務める。
Web: https://kumanomics.jp/
