見出し画像

14年いた霞が関を出て独立、最高でなく最愛の会社を選んだ話

ノマド政策家のフィールドノート第4回


2024年9月3日。株式会社Kumanomicsの登記が完了した日の朝、私のGoogleカレンダーは、ほぼ真っ白だった。

霞が関にいた14年間、予定表は15分刻みで埋まっていた。閣議の時間、大臣レク、関係省庁との協議、国会対応。呼ばれる場所があるということは、行く意味があるということだった。

その朝、呼ばれる場所は、どこにもなかった。予定の入っていない平日の手触りを、私はそれまで知らなかった。

これは、「最高の会社」をつくるのをやめて、「最愛の会社」をつくろうと決めた話である。霞が関の最後の数年に考えていたこと、妻のみどりと交わした一つの会話、そして「クマノミ」という名前にたどり着くまでの、少し長い回り道の話を書きたい。

2024年9月3日、創業の日、妻が用意してくれたお祝いのケーキとともに

カレンダーが真っ白になった朝

引っ越したばかりのオフィスの一室に、段ボールが積んであった。私はノートPCを開き、自分のGoogleカレンダーをスクロールした。表示されているのは、退職後の私的な予定と、午前中に自分で入れた「登記完了」のリマインダーが一つ。仕事の予定は、もう、そこにはなかった。

霞が関の予定は、霞が関の端末の中にしかない。役所のPCは退職と同時に手元から離れているし、もとより私用で開ける性質のものではない。だから、その朝、過去14年分の予定密度は、紙の上にも画面の上にもなく、私の記憶の中だけにあった。

ちょうど1年前の9月、私はデジタル庁にいた。15分刻みのカレンダ———閣議の時間、大臣レク、関係省庁との協議、国会対応。あの密度を思い出しながら、目の前の真っ白なGoogleカレンダーに視線を戻す。同じ日付の、まったく違う朝だった。

「予定がない平日」を、私はそれまで14年間、知らなかった気がする。学生時代からすぐに経産省に入り、組織の時計で動いてきた。呼ばれて行き、書いて返し、また呼ばれる。その往復の量こそが、自分の価値の確からしさでもあった。

その日から、呼び出しは来ない。電話も鳴らない。自分で予定を入れない限り、机の前の空白は埋まらない。

第1回で、私は自分の仕事を「名刺に書けない肩書き」と書いた。あのときの感触は、この朝の空白と地続きだ。名刺に書ける肩書きを降りるというのは、呼ばれる場所を自分で作り直すということでもある。

登記完了の通知を見ながら、私は一度、深く息を吐いた。

ここから何を始めるのか。何より、何のために始めるのか

その問いに対する"正解"を、私はまだ持っていなかった。


霞が関を出ると決めるまで — 2019年の帰国から5年

カレンダーが真っ白になった朝に至るまでに、5年の助走があった。

2019年の夏、私はニューヨークから羽田に降り立った。第2回で書いたとおり、パーソンズ美術大学院での2年間と、グアテマラの山奥で織物職人たちと過ごした時間が、スーツケースの中に入っていた。

ただ、帰国してすぐに会社を立ち上げたわけではない。霞が関に戻り、特許庁、そしてデジタル庁で、もう約5年の時間を重ねた。第2回で書いたとおり、特許庁の5年は"序章"だった。「一人ひとりが創造力を発揮したくなる社会」という一文を、組織の背骨に刻み直す仕事。I-OPEN PROJECTで、知財を「独占」から「共感」へと読み替える仕事。どれも自分の骨格をつくる、確かな時間だった。

それでも、"序章"は、いつか本編に接続されなければ意味がない。

私は、序章の外側に出ることが、正直に言えばずっと怖かった。

14年間、自分は「経済産業省の橋本」だった。名刺を出せば、相手は文脈を先回りして理解してくれる。会議に呼ばれる。意見を求められる。その前提の全部が、組織の肩書きの上に乗っていた。そこから降りた瞬間、自分の言葉はどれだけの速度で相手に届くのか。私は、それを試すのが怖かった。

一方で、2019年、私はパーソンズで共に学んだ羽端大さん・半谷英里子さんと一緒に、一般社団法人STUDIO POLICY DESIGNを立ち上げていた。政策×デザインという問いを、霞が関の外でも走らせてみるための、3人の器だった。自治体向けの研修や、政策デザインのプロジェクトに、少しずつ関わった。行政の仕事には異動がある。しかし自分で立ち上げた法人なら、同じ現場に、自分の名前で、継続的に関わり続けられる——その手触りを、少しずつ覚えていった。

STUDIO POLICY DESIGNとしての講演・研修活動(2019年)

ただ、霞が関の本業を続けながらの副次的な活動には、どうしても限界があった。誰かに面と向かって言われたわけではない。ただ、自分自身が、自分の動き方を見て「これは片手間の話だ」と感じていた。現場に長く立ち、自分の名前で関係を編みたい——その願いの大きさに対して、副業的な関わり方では、どうしても届かなかった。

2023年の冬、私は妻のみどりに、ぽつりとこう漏らした。

「たぶん、もう、辞めどきなんだと思う」

みどりは、少しだけ黙った。それから、静かにこう言った。

「うまくいかなくても、私も働いているから、大丈夫だよ」

賛成でもなく、反対でもなく、ただ寄り添う言葉だった。みどりは看護師として現場を持っていた。だから、生活の足場を私の挑戦に縛りつけずに済んだ——そのことを、彼女は自然な姿勢として伝えてくれた。

私は、しばらく黙って、その言葉を反芻していた。

肩書きを取り去ったあとに、自分の名前で語れる仕事。自分の名前で呼ばれる関係。自分の名前で立てる足場。それが何なのか、その冬の私は、まだ言葉にできていなかった。みどりの一言は、その答えを急がせる代わりに、答えを探すための時間を、私に黙って渡してくれた一言だった。

その問いは、登記の朝まで、そしてそれ以降も、ずっと私の机の上に置かれ続けている。


SSUでの酷評と、「最高」ではなく「最愛」という転回

同じ2023年の冬、私は渋谷区が主催する渋谷スタートアップユニバーシティ(SSU)の2期生に応募した。起業を考え始めた頃、ウェブで起業家向けのセミナーを片端から探していて、たまたま検索でヒットしたのがSSUだった。渋谷区主催で、平日夜に通える社会人向けプログラム——条件として無理がないことに加えて、行政が運営しているという成り立ちにも、政策出身の自分は引かれた。SSUはその後2期で終了したので、私は最後の期の受講生ということになる。

プログラムの中盤に、中間発表があった。自分の事業アイデアを、審査員と同期の前でピッチする。

私は、「AIを使った、社会的マイノリティの声を代弁するチャットボット」というアイデアを持って、登壇した。霞が関で見てきた支援の"最後の1マイル"の問題を、テクノロジーで解けないかという発想だった。スライドには、生成AIの図版、ユースケース、マーケットサイズ——当時流行していた起業ピッチの型を、自分なりに揃えた。

戻ってきたのは、厳しいフィードバックだった。

「技術の新規性が弱い」「このアイデアでなぜあなたがやるのか、伝わらない」「あなたの身体から出てきた事業に見えない」——プレゼンに対するメンターの言葉は、どれも正しかった。正しかったから、余計にこたえた。

発表の帰り道、渋谷を歩きながら、私は自分にぶつぶつと呟いていた。

慣れないことをしてはいけない。

それが、あの夜に自分の身体に刻んだ一行だった。

自分がやりたかったことは、AIでチャットボットを作ることではなかった。政策と事業のあいだに立つこと、グアテマラの職人たちと向き合った時間の延長線に、日本の現場で同じ作法を走らせること——それだけだった。なのに、ピッチの型に合わせるために、自分の専門性から一番遠いところに背伸びをしていた。自分が見たことのない景色の物差しで、自分の事業を測ろうとしていた。

最終発表までの数週間、私はアイデアを一度すべて降ろした。パーソンズのスケッチブックを開き直し、特許庁でのMVV書き換えのノートを読み返し、自治体研修の現場で出会った職員さんたちの顔を、一人ひとり思い出した。

最終発表で私がピッチしたのは、「政策とビジネスを共創する」という、ほぼ一文に近いコンセプトだった。派手なテック要素はない。しかし、私の14年と、パーソンズと、I-OPENと、自治体研修の現場が、一本の線で繋がった提案だった。

このピッチは、審査員賞をいただいた。

SSUの講師陣・同期との記念撮影(出典:SSU公式インスタグラム

賞そのものよりも、あの数週間で自分の中に起きていた小さな転回のほうが、今も大事に残っている。

中間発表のときの私が見ていたのは、「最高」の物差しだった。他人が書いた"良い起業"の型。市場規模、スケーラビリティ、成長曲線。それは社会に必要な物差しでもある。しかし、自分の身体の声ではなかった。

最終発表のときの私が選び直したのは、「最愛」の物差しだった。自分が呼ばれたい場所。自分が長く立っていたい足場。自分の名前で、長く関わっていたい人たち。規模やスピードの話ではなく、関係性の深さと、問いの根の長さの話だ。

「最高の会社」と「最愛の会社」は、似ているようで、まったく別の設計図を要求する。前者は、外から見て評価される順位の話。後者は、自分が毎朝その机に座りたいかどうかの話だ。

私は、後者でしか、続けられない人間だった。その気づきが、カレンダーが真っ白になる9ヶ月前の冬に、訪れた。


なぜ「クマノミとイソギンチャク」だったのか

2024年の初頭、私は創業準備に入った。

毎週、コンセプトシートを書いた。「誰の・どんな課題を・どのようなアプローチで解くのか」を、何度も書き直した。途中から、コンセプトシートだけでは足りないと思い、「未来新聞」を自分で書き始めた。2030年、自分たちが関わった町の記事。2035年、自分たちが作った制度の評価記事。画像生成AIで、紙面の写真を一枚ずつ作っていった。未来新聞は、自分への約束状だった。

スケッチが溜まっていくなかで、一つ、どうしても引っかかっていたことがある。

既存の屋号——スタジオポリシーデザイン——では、これから始めることの射程に対して、言葉が足りなかった。「スタジオ」と「ポリシー」と「デザイン」。間違ってはいない。しかし、政策と事業のあいだに立ち、セクターをまたいで関係を編むという射程を、言葉の姿としてまだ捉えきれていなかった。社団法人の活動は羽端さん・半谷さんと続けていく。その上で、株式会社という新しい器を立てるときには、別の言葉が要る——そう考えた。

新しい社名を考え始めた最初の数日、私は辞書を引いていた。「共生」「共創」「編集」「翻訳」。どれも射程としては正しい。ただ、読んだ瞬間に情景が立ち上がる言葉ではなかった。

そして、あるときふと、海の生き物が頭をよぎった。

クマノミとイソギンチャク。

クマノミは、イソギンチャクの触手の毒に耐性を持ち、その中を棲家にする。代わりに、イソギンチャクにとっての敵を追い払う。どちらか一方が欠けても、この生態系は成立しない。助ける・助けられるの関係ではなく、互いに互いの足場になっている関係である。

それは、私が事業として描きたかった情景そのものだった。

政策を作る行政は、事業の現場という「イソギンチャク」の中で初めて、制度の意味を獲得する。事業者は、政策という「流れの中」にあって初めて、単発の取引を越えた時間軸を持てる。私たちが並走したい相手は、「クマノミ経営」をやろうとする人たちだ——競争社会という外洋を、単独で泳ぎ切る「サメ型経営」の対極に、関係性の中で長く泳ぎ続ける経営のかたちがある。私たちは、その人たちのイソギンチャクでありたい。

社名は「Kumanomics」。クマノミ×エコノミクスの、「ノミ」が2音、重なって一語になる。

特許庁出身として、商標としての特徴性にはこだわりがあった。検索しても競合がほぼ出てこない、独自の音韻を持つ固有名。商標としても、言葉としても、語れる由来を持っている。 これ以上のメタファーを、私は思いつかなかった。他の候補を検討しなかったわけではないが、このメタファーを超えるものは、出てこなかった。

創業前に書き溜めていた未来新聞の一部

そして、この社名を、9月3日に登記することに決めた。9月3日は、語呂合わせで「クマノミの日」。事業を一緒に行うパートナーたちにも、「Kumanomicsが、クマノミの日に産声を上げる」と、何度か繰り返し伝えた。

第2回で書いたI-OPENの「独占から共感へ」も、第3回で書いた「三つの椅子を同じテーブルに置く」も、振り返ればどれも同じ構造のバリエーションだ。異なる論理を持つ者同士が、互いの論理を消さずに、同じ場で一つの仕事をする。クマノミとイソギンチャクは、その構造に私がつけた、最初のメタファーだった。メタファーが先にあったから、共感への読み替えも、三つの椅子も、あとから自然に、同じ絵の別の部分として描けたのだと思う。


登記の直後に届いた、一本の呼び声

登記からしばらく、私は自分の机の前に腰を据えていた。

新しい受注が次々と入ってくるわけではない。問い合わせフォームは静かで、電話は全く鳴らない。机の前に座って、メールを一時間おきに開き、同じ画面を見る。朝と昼と夕方で、画面はほとんど変わらない時間帯もあった。

平日の昼、私は散歩に出た。池尻の住宅街を、特に目的もなく歩いた。昼休みのサラリーマンの横を、自分はジャージ姿ですれ違う。ふと、自分はいま、誰の名前で呼ばれているのだろう、と思った。

「最高」の物差しが、頭をよぎる。

もしあのときSSUで、もう少しテック寄りのピッチを磨き切っていたら。もし資金調達を前提にした設計にしていたら。机の前に戻って、一度だけ、そう考えた。

考えて、すぐに、SSUの帰り道に呟いた言葉が戻ってきた。

慣れないことをしてはいけない。

私は「最高」を選ばなかった。「最愛」を選んだ。だから、机の前の空白は、空白のままでよかった。空白を「最高」の物差しで急いで埋めようとしないこと——それが、創業期の自分に課した一つのルールだった。

ただ、空白は、思いのほか早く、別の色に染まり始めていた。

登記の前後から、私には宮城県庁の方々との断続的なやりとりが続いていた。

第2回で書いた特許庁のI-OPEN PROJECTで、宮城県庁と特許庁は事業を共創してきた経緯がある。その流れの延長で、I-OPENとは別の文脈として、「政策に関しても、政策道場のような取り組みができないか」という相談を、宮城県庁の側から私はいただいていた。

ちょうど私が会社を立ち上げると伝えたタイミングと前後して、JR東日本と宮城県庁のあいだに、「政策とビジネスを一緒に作る取り組み」を始める機運が生まれていた。

「橋本さん、ご一緒しませんか?」

その一言が、創業期のKumanomicsに最初に置かれた、名指しの呼び声だった。問い合わせフォーム経由ではなく、肩書きの上に乗ってきた依頼でもない。私の名前と、I-OPENからの仕事の積み重ねを見ていた人が、私の名前で呼んでくれた。最愛の会社の、最初の足場が置かれた瞬間だった。

その後、私たちは宮城県庁・JR東日本とともに、政策とビジネスの接点を探すフィールドワークを始める。石巻、気仙沼、閖上——東北の海辺の町を、何度も歩いた。

宮城県の復興を支えてこられた方々との意見交換(気仙沼市)

そのプロセスの先に最終的にたどり着いたのが、第1回・第3回で書いた宮城県川崎町であり、佐藤清隆町議との出会いも、廃校活用の話も、ここから先の章として始まっていく。

呼んでくれる人がいる現場が、たとえ一箇所でもあること——それが、最愛の会社の、最初の資産だった。

同じ時期、もう一人の名前も、私の頭にあった。

小菅隆太さん。第2回で書いたI-OPEN PROJECTのテーブルで、隣に座っていた人だ。"週1で官僚"、NPO運営、企業CxO——彼の持つ多層性を、私は知っていた。

創業から間もないある日、私たちは大手町のうどん屋で向かい合っていた。

「いつか、何か一緒にできるといいですね」

その日、具体的な役割を約束したわけではない。ただ、お互いができそうなことを、楽しく話し合った——それだけの時間だった。

その「一緒に」は、すぐに形を持つわけではない。創業から3ヶ月後の12月、私たちは虎ノ門ヒルズの「Glass Rock」で、揃って共創コーディネーターとして同じ場に立つことになる。そこで仕事を重ねるうちに、創業から1年ほどが経つ頃、小菅さんはKumanomicsの広報PRも担ってくれる存在になっていった。

最愛の会社は、隣に座ってくれる人と、長い時間をかけて、少しずつ形になる。I-OPENのテーブルから、大手町のうどん屋を経て、Glass Rockの共創拠点へ——その移動の総量が、いま小菅さんとKumanomicsを結んでいる。

そしてみどりも、看護師としての現場を続けながら、広報PRの担当として並んで立ってくれた。 2023年の冬に「うまくいかなくても、私も働くから、大丈夫」と背中を押してくれた人が、答えを自分自身も一緒に探す同志として、この会社に立ってくれた。

宮城からの呼び声、小菅さんとのうどん屋での約束、そしてみどりの静かな同行——三つが揃ったとき、私は机の前で、もう一度自分のカレンダーを見直した。

真っ白だったカレンダーが、少しだけ違う色に見え始めていた。

第1回で、私は「まだ歩み始めたばかりだ」と書いた。連載の初回として自然な言葉だと思って書いた、ただの一文だった。しかし、あれは、ほんとうは創業の言葉だった。

最愛の会社を選ぶというのは、永遠に「歩み始めたばかり」であり続ける、という選択でもある。「最高」の物差しを降りた先では、到達点が自分で決められない。呼ばれる場所を、一つずつ、自分の名前で編んでいくしかない。その作業に終わりはない。

カレンダーの空白は、まだ残っている。ただ、空白の意味は、あの朝とは少し違うものに変わっている。


次回は、私が小菅さんと並んで立っている場所——虎ノ門ヒルズの共創拠点「Glass Rock」の話を書きたい。森ビルが運営するこの拠点で、私たちは「政策とビジネスの両輪」をどう設計しているのか。社会課題とビジネスと政策、三つの論理が同じテーブルにつくとき、何が起きているのか。最愛の会社が育っていく現場のひとつとして、書く。


編集後記〜てのひら草子〜

 この回を読んでいて、BGMに『世界に一つだけの花』が流れたのは、私だけではないのでは。。笑 妻のみどりです。今回も、最初の読者としてコメントをさせて下さい。
 私は常々、人生のほとんどの時間を仕事に費やすんだから、好きなことを仕事にしている人って最強だなと思っています。 この『最強』というのには色んな意味合いがあって、例えば私なんかは看護師ですが、絵を描いたり歌うことが好きで、好きなことだからこそ仕事に出来ない、嫌な思いをして嫌いになりたくない、という気持ちがあります。それは根底に自己肯定感の低さや、打たれ弱さがあるからだと思います。
 学生時代に打ち込めることを見つけられずに社会人になって見つかって、今更方向転換できないという人もいるでしょう。また、好きな事へいかに執着できるかというのは才能であって、皆が皆持っている能力ではないと思うからです。
 もちろん『最強』なのが偉いわけではなく、ただ、人生の幸福度としては高いだろうな〜という意味でそう思うのです。 キャリア官僚だった夫が公務員を辞めて会社を興したことを、よく許したね、と言われることが多々あります。私は夫がキャリア官僚だったから結婚したわけでも、収入が安定しているから結婚したわけでもなく、学をひけらかさないどころか腰が低く、かといって人から見下されるでもなく、いい意味で鈍感力が強く、程よくだらしなくて(笑)、とても人間味があっていいと思ったからなんです。夫は決めたことはきちんとやるし、やり通す力を持っているし、特に心配もしていませんでした。
 看護師をしていて、我慢しても好きなことをしても病気になる時はなる、ということを強く感じたので、だったら好きなことをした方が後悔がない(※節度と覚悟は必要/笑)というのが私の人生のモットーで、夫に対してもそれは同じ気持ちなのです。

ノマド政策家の妻 橋本みどり より


橋本 直樹(はしもと なおき)
株式会社Kumanomics 代表取締役/ノマド政策家
東京大学法学部卒業後、経済産業省に入省。国家公務員として初めて美術大学院に留学。米国パーソンズ美術大学にてMFA(美術学修士号)を修了。帰国後、知的財産権により社会課題を解決する「特許庁 I-OPENプロジェクト」の立ち上げなどに携わり、2023年に同プロジェクトでグッドデザイン賞を受賞。2024年、株式会社Kumanomicsを設立。組織の枠を越境する「ノマド政策家」として、企業と行政が共創し、ビジネスと政策を一体でデザインするプロジェクトを多数手がける。その他、虎ノ門ヒルズGlass Rock共創コーディネーター、東京大学公共政策大学院 非常勤講師などを務める。
Web: https://kumanomics.jp/

いいなと思ったら応援しよう!