見出し画像

「生成AIで子供は思考しなくなる」と思っている人は、鈴木秀樹先生の授業を見てから同じことを言ってみろ

11月22日(土)、Microsoft品川本社セミナールームにて開催された、東京学芸大学附属小金井小学校主催の「ICTインクルーシブ教育セミナー」に参加してきました。

テーマは「ICTに学びを救われる子はあなたのそばにいる」

このテーマのもと、2つの授業公開と講演等が行われましたが、今回はその中でも私が心の底から打ちのめされ、膝から崩れ落ちそうになった鈴木秀樹先生による公開授業についてレポートします。

1コマ目の授業については、何も申し上げることはございません。

正直に申し上げます。 この授業を見た後、私はしばらくの間、強烈な「劣等感」に苛まれることになりました。 「どうして鈴木先生はあんなに軽やかに、魔法のように子供たちを導けるのに、自分はこんなにも無力なのか」。 その圧倒的な実力差を見せつけられ、羨望を通り越して、自分の教員としての存在意義さえ問い直したくなるような、そんな「絶望」に近い感情を抱いたのです。

それでも、この衝撃が私の中で風化してただの思い出になってしまう前に、震える指でキーボードを叩き、この体験を記録しておこうと思います。

凡人には思いつかない、「生成AI」と「国語」の融合

今回拝見したのは、宮沢賢治の名作『やまなし』を題材にした国語の授業です。 多くの先生方がご存知の通り、『やまなし』は難解です。「クラムボン」とは何なのか、幻灯とは何なのか。我々のような凡百の教員は、どうしても言葉の解釈や比喩の解説に終始しがちです。

しかし、鈴木先生のアプローチは次元が違いました。 学習者用デジタル教科書に加え、生成AIを当たり前のように文房具として子供たちに手渡していたのです。

結論から申し上げます。 「確かな授業力を持つ『本物』の教師がICTとAIを使いこなすと、ここまで残酷なほどに質の高い授業が生まれるのか」

私はICTとAIはそこそこ使いこなしていますが、根本となる授業力が足りません。もう、鈴木先生の授業は憧れです。55歳に憧れられても困ると思いますが。 現在、教育界隈では「インクルーシブ教育」や「個別最適な学び」という言葉が流行語のように飛び交っていますが、鈴木先生の実践は、それらを軽々と具現化した「完成形」であり、現時点における一つの「到達点」であると確信しました。

「選択できる」という救い。思考を深める3つのルート

授業の核となる問いは、「宮沢賢治は『5月』と『12月』を通して何を言いたかったのか?」という、大人でも唸ってしまうような本質的なものでした。

この難問に対し、鈴木先生は子供たちに以下の3つのルートを提示しました。

  1. 自分自身の力で考える

  2. AIからの簡単な質問に答えながら考える

  3. AIに「別の月(6月や8月など)」を創作させながら考える

「どれを選んでもいいよ」 その一言がどれほど子供たちを救っているか、私には痛いほど分かりました。 一斉授業で「はい、全員同じ方法で考えなさい」と強制することがいかに暴力的か。この選択肢の提示こそが、真の意味での「学習の個別化」であり、インクルーシブな環境そのものでした。

鈴木先生は多くを語りません。言葉数は驚くほど少ない。 時折、真顔でボソッと面白いことを言い、子供たちをニヤリとさせる。その独特の空気感。 あのような柔らかな支配力は、私のような年齢ばかり重ねている未熟者が逆立ちしても真似できるものではありません。ただただ、悔しいほどに鮮やかでした。

「楽しい創作」が、計算づくの「しかけ」に変わる瞬間

子供たちの多くが飛びついたのは、やはり3つ目の「AIとの創作活動」でした。 「6月の川の様子をAIに作らせてみよう」「もっと面白い展開にしよう」。 教室は活気に満ち溢れ、子供たちはクリエイターになった気分で画面に向かいます。

私のような浅はかな参観者は、ここで「ああ、楽しそうでいい授業だな」と思ってしまうところです。人によっては、「AIで遊んでいるだけじゃないか」と批判的な目を向けるかもしれません。

しかし、ここからが鈴木先生の恐ろしいところでした。 物語作りが最高潮に達し、子供たちの一部が「ウケ狙い」や「奇想天外なストーリー」に走り始めたその瞬間、先生は静かに、しかし鋭く、最初の問いに立ち返らせたのです。

「で、宮沢賢治は5月と12月で何を言いたかったのかな?」

この一言で、教室の空気が一変しました。 子供たちの思考モードが、「創作(遊び)」から「分析(学び)」へと、音を立てて切り替わったのが見えました。

自分がAIと共に作った「別の月」の物語。それと、教科書の『やまなし』の「5月」「12月」。 この2つを比較し、問いに答えるためには、原作の本文を一言一句、徹底的に読み込まなければならなくなるのです。

鳥肌が立ちました。 「物語を作る」という一見寄り道に見える活動が、実は子供たちを本文へと誘い込むための高度な「しかけ」であり、最も有効な「手段」として機能していたのです。 創作活動は、おまけでも蛇足でもありませんでした。それは、国語の本質に迫るための、計算し尽くされた滑走路だったのです。

鉛筆を捨て、脳で「書く」子供たち

授業の終盤、子供たちの口からは「自然の厳しさと優しさ」「生と死の対比」「希望」といった、驚くほど深い言葉が次々と溢れてきました。

この光景を見て、私は自分が普段行っている授業を恥じました。 そして、強く感じたのです。「書くことの再定義」が必要だと。

この授業中、子供たちは鉛筆を握りしめ、紙に黒鉛をこすりつける作業(いわゆる「清書」)を全くしていません。だって、机の上にあるのはパソコンだけなのですから。 しかし、彼らの頭脳はフル回転し、AIと対話し、膨大な量のテキストを構成し、自分だけの言葉を紡ぎ出していました。

「紙に鉛筆の芯をこすりつける物理運動だけが『書く』ことではない」

私たちが普段、「書く指導」と称して子供たちに強いているのは、単なる「指先のトレーニング」だったのではないか。 思考し、表現することの本質を突きつけられ、自分の教育観がガラガラと崩れ落ちる音が聞こえるようでした。

「スタンダード」の呪縛からの解放

おそらく、多くの教育関係者、とりわけ地域の「スタンダード」を重んじる先生方や指導主事の方々は、この授業を見て強い違和感を抱くのではないでしょうか。

「ノート指導はどうなっているのか」 「本時の『めあて』と『まとめ』が黒板に明文化されていない」 「振り返りシートは書かせないのか」

そうした「型」からの逸脱に対し、眉をひそめ、「質問」というオブラートに包んだ否定を投げかけたくなるかもしれません。

しかし、あえて申し上げたいのです。 目の前の子供たちがこれほどまでに脳をフル回転させ、思考を深めている事実よりも、「形式の欠如」を憂いているのだとしたら、それは教育の本質を見失った「古い授業の再生産」に過ぎません。

「書くこと」=「ノートに綺麗に写すこと」。 「まとめ」=「教師が用意した正解に近い言葉を子供達に言わせて、それを書き写すこと」。

もし、そんな形骸化した常識こそが「授業」だと信じ込んでいるのであれば、それは子供たちの未来の可能性を狭めてしまうことになりかねません。 形式を守ることに汲々とし、子供の思考を止めてしまうのではなく、AIという新たな翼をどう活かすか。 この授業は、そうした「思考停止したスタンダード」への静かなる、しかし強烈なアンチテーゼでもあったのです。

凡人にも残された「Gemini」という希望

圧倒的な授業を見せつけられ、私は自分の無力さに打ちひしがれました。 「あんな授業、自分には逆立ちしたって無理だ」 そうやって言い訳をして、逃げ出したくなりました。 しかし、授業を見ながら、ふと手元のスマホを握りしめ、一つの事実に気づいたのです。

「……待てよ? これなら、私の勤務校の環境でもGeminiを使えば、真似事くらいはできるのではないか?」

鈴木先生が使っていたのは、何億円もするスーパーコンピューターではありません。 私たちが普段使っているのと同じ、汎用的な生成AIです。

特別な機器も、特別な予算もいらない。 もし私が、明日からの授業で勇気を出してGeminiを使ってみたら。鈴木先生の足元にも及びませんが、ほんの少しだけ、子供たちの目を輝かせることができるかもしれない。

「特別な学校の特別な魔法」ではなく、明日から私たち凡人でも挑戦できる「再現性の高い実践」。 そこに気づいた時、私の絶望は、わずかな「希望」へと変わりました。

おわりに

今回の授業は、AI活用の可能性だけでなく、国語教育の本質、そして教師としての在り方を改めて問い直される、あまりにも刺激的な体験でした。

一斉指導という名の「管理」から、個に応じた協働的な「探求」へ。 鈴木先生の実践は、私たちが進むべき未来を強烈な光で照らしていました。

なお、鈴木先生の授業は来たる1月31日の公開研究会でも見られるそうです。 「AIなんて」と食わず嫌いをしている先生方、そして「スタンダード」の呪縛に囚われている先生方こそ、ぜひ足を運び、その目で衝撃を受けてきてください。

ああ、国語の授業をしたいなあ

おまけ


いいなと思ったら応援しよう!

前多昌顕 よろしければ応援お願いします。チップをいただいた月はnoteプレミアムに加入して、予約投稿を設定して、確実に投稿します。