42歳独身の私、42歳母だった母。「母が背負った重荷」と「私の抱える空白」を比べてみた。
みなさん、こんにちは。
くまよしでございます。
4月となり、新たな門出ですね。
ご実家や地元を離れ、新天地にて生活を始める方。また、転勤や転職で家族と離れて単身赴任される方。
様々な新しい生活が始まるのも、桜が舞い散る4月の景色でもあります。
お花見を楽しむ人々、そこから少し離れた距離から満開の桜を眺め、なぜか昔の生い立ちを遡り懐かしく思いました。
18歳の門出より更に遡ること、10歳の私。
私が過去を思い返す時の基準は、この年齢なのです。
そこでの主人公は、いつも私たち兄弟のことを気にかけてくれた母でした。
私は現在42歳、そして独身。
当時42歳の母は、男3兄弟を育てるシングルマザー。
シングルマザーの理由は、私が10歳(小学4年生)のころに両親が離婚したことです。
離婚の理由は、父の酒癖の悪さと人格にあります。
仕事が終わったらすぐに外出、遅くまで酒を飲んで帰ってくる日々。あまり詳細は話しませんが、映画に出てくるようなダメな人間像をイメージしていただければ、見事に当てはまるでしょう。
それに耐えきれず、母は私を含め男3兄弟を連れて家を出た、これがだいぶ簡略化した経緯となります。
今思うと、母が人生最大で最高に優良な決断をしたことに、心から感謝しています。離婚をしていなければ、失うものが多い人生になったことでしょう。
母は身長が150センチもなく、女性の中でも小柄な方です。
それでも農作業時はパワフルに動き、私がお店でお菓子を万引きした時は思いっきりぶん殴り怒ってくれました。
自転車の後ろに弟を乗せて、前カゴには米五キロを乗せて爆走する母。
運動会の時は、大きなカゴに好物のおかずとおにぎりを作り、遠い距離を歩いて応援に来てくれた母。
シンプルに尊敬する存在です。
今回は、そんな母との思い出をnoteに綴りました。
苦労した内容になりますが、少しでも共感いただければ嬉しく思います。
2026年、私は42歳で母は71歳。
ちなみに健在なのでご安心ください。
母の生い立ち
私の母は鹿児島の奄美大島という離島出身である。
5人兄弟の末っ子でありながら、末っ子として可愛がられた恩恵があったのかは不明だ。
というのも、当時の島は仕事も限られ収入が少ないことから、母より生活は貧しかったと聞いていた。
そのため、母は中学校を卒業後に就職した。
しかし、学ぶ姿勢は崩しておらず、働きながら夜間学校に通い高校卒業と同等の資格を習得した。
本当は、ナース服に憧れており看護師を目指したらしいが、専門学校に通う資金が無くて諦めたと言っていた。
母は大好きだった長女のお姉さんの話をしてくれる。
母には10歳以上に歳が離れた長女がいたが、19歳で病気で亡くなった。
病室で苦しんでいる姿を見て、とても心が痛くなったと話す。
母は、たまにお姉さんの話をする。
あなた達には、もう一人叔母さんがいるんだと伝えたいのだろう。
私が母のお姉さん(叔母)に会うことは叶わなかったが、母から伝わる声色だけで、どれだけ優しい人なのかが伝わる。
実は、母のお姉さんの写真を見たことがない。どこかのタイミングで、母のアルバムを見せてもらうとしよう。
きっと、私のイメージ通りであり、花が似合う人なのだろう。
私にはナース服への憧れがあったと話したが、本心はお姉さんとの別れがあり、命を助けられる仕事に就きたかったのだと思う。
母は40代から病院で働き、看護助手的な仕事をしていた。この時期の母は仕事にやりがいを感じており、とてもいい表情をしていた。
母の決断
私は男三兄弟であり、私の兄は1歳上、弟は4歳年下だ。
両親の離婚当時は、兄は小学5年、私は小学4年、弟は小学1年生になるくらいだったと思う。
母は子供3人を連れて、当時住んでいた父の故郷である島(奄美とは別)から、鹿児島市内にある次女の姉(私からみて叔母)の家を訪ねた。
やがて1ヶ月ほどして、近くに古いアパートを見つけ、そこで私たちは暮らすことになった。
今の年齢になり分かるが、家を探すことや転入など行政の手続きは本当に手間であり、日々の生活もあり金銭的にも不安要素が募る。
とくにシングルマザーが、小学生3人を育てるなど、並大抵の決心がないと無理であろう。
当時の自分が母と同じ決断をできるだろうか。
母は子供の入学手続きや仕事を探したりと、さぞ苦労をしたことだろう。
そのころの記憶はあまりないが、お腹が空いて1つのカップラーメンを3兄弟で食べたり、電気が止まり蝋燭を灯したことは良き「思い出」として心に残っている。
母には仕事で役にたつスキルは無かったが、あきれるほど人間思いであり、客観的に見てそれが故に損をする場面もあった。
結婚して父の出身地である離島に移住したが、そこでは、女性は農業の手伝うか、ホテルやスーパーの清掃員としてアルバイトをするしか仕事はない。
また、母は車の運転免許がないため、移動手段も1時間に1本あるかのバスに乗り移動していた。よく母と兄弟でバスにゆられ遠くのスーパーまで買い物に行ったものだ。
バスの乗車客は、老人のみ。
30代の母は当然に若く見られ、子供3人を連れてバスに乗る姿は特に目立った。なぜ車を運転しないのかと言われたこともあった。
また、子供が遠足などで弁当が必要な時は、親戚のおばさんが車で母を迎えてに来て、スーパーに通ったものだ。
周りに恵まれている部分もあったが、交通インフラが限られて車も運転できない立場である母にとって、周りの手を借りないと買い物もできない状況は辛い部分もあっただろう。
鹿児島に来て数ヶ月が経ち、母はスーパーでレジや仕入れなどの仕事に就いた。忙しそうではあったが、楽しそうでもあった。
仕事を休んだこともなく、雨の日も体調が悪い日もバスに乗って出勤する小さな後ろ姿を見て、子供ながらに感謝したものだ。
回転寿司の思いで
ある日、母が仕事終わりに商業施設で待ち合わせをしたことがある。食料品を買うので、搬送要員として自転車で来て欲しいとのことだった。
何を買ったのか覚えていないが、久々に母と私だけが過ごす時間。
夜ご飯はお寿司を食べようと言われ、回転寿司に入った。私にとってお寿司など1年に数回しか食べられない、まさにご馳走であった。
当時の私は、小学生とはいえ家庭が貧乏であることは理解していた。
目の前をいくつもの寿司が通過するが、私は母に気を使い一番安いお寿司を4皿しか食べなかった。ガリとお茶を多めに飲むことで、胃袋を埋めていく作戦も実行した。
母との帰宅時、私は満足した表情でお腹いっぱいだと話した。
しかし、食べ盛りの小学生は正直ある。
家に帰宅したが、お寿司4皿では当然にお腹が満たされることも無く、カップラーメンを食べた。
母にバレて「寿司も食べてラーメンも食べるのか」と怒られたのは、我ながら酸っぱい思い出である。
今でも回転寿司に行くと、当時の記憶が蘇る。家族連れで子供が美味しそうに食べる姿が、なぜか羨ましく感じるのだ。弟夫妻の子供(甥っ子)は寿司が好きで、特にいくらの軍艦巻きが好物である。
私は42年生きているが、今だにいくらの軍艦巻きは食べたことがない。
チョコパイの思い出
母がある日、ロッテのチョコパイを買ってきた。
誰もが目にしたことがある、重厚なパイをチョコで包んだお菓子だ。
男3兄弟は秒で母の周りに集まり、甘そうで少し上品なお菓子のパッケージを見つめて喜んだ。
この日、私たち3兄弟は初めてチョコパイという存在を知った。
私は、なぜチョコパイを買ってきたのか気になり、母に質問した。
母は、「今日が自分の誕生日だから、ケーキの代わりなんだよ」と笑いながら私の質問に答えた。
その日、誰も母の誕生日であることを知らなかった。
男3兄弟は、すぐに「おめでとう」と言った。
母はニコリと笑い、「ありがとう」と返す。
チョコパイの味は驚くほど甘く美味しかった。
私はスーパーでチョコパイを見るたび、その光景を思い出す。
一袋づつ私たちに配り、みな笑顔で食べた黒くて甘い食べ物。
私にとって思いでのお菓子であるが、当時母が自分の誕生日ケーキとして購入したことを考えると、なんとも言えないほど心が切なくなる。
母の再婚
母が再婚した。
私が中学生の頃だ。
同じ故郷である奄美大島の方で、母より年上だった。
母の兄と同級生で幼馴染でもあり、母の故郷に行った際は何度か釣りに連れて行ってもらったことがある。
とても優しく、父親とは反比例する人格者である。籍を入れると話があった際、兄弟はもちろん歓迎した。
私は中学生のお年頃でもあり、母が再婚することに否定的な考えだったが、母が精神的にも体力的にも重荷が軽くなるのであれば・・・
そう思うと、ありがたく首を縦に頷いた。
今でも二人は仲良く暮らしており、再婚者には本当に感謝の念しかない。
70歳になっても伴侶がいることは、単純に幸せの形が崩れていない証拠だと私は捉えている。
私は未婚であり、結婚生活がどれほどいいものか分からないが、二人のような人生もいいものだと思う。
現在の母
現在、母は再婚者と暮らしている。
私の中で「小さな巨人」であった母であるが、70歳を超えると年相応の巨人となった。
血糖値は昔より高いのだが、骨粗鬆症に近いため骨が脆くここ数年で足の骨折を2回くらいしている。リハビリも頑張っていたが、年齢的に骨の強度を強くする薬は効果がないため、無理のない範囲にて歩く必要があるとのことだった。
それでも、母は仕事を探してハローワークに通っている。生活資金のためでもあるが、週一回でも仕事をしたい思いがあるらしい。
昔から一生懸命に仕事をしてきた人間だ。まだ自分が動けることを、仕事を通して証明したいのであろう。
先日、久しぶりに母の家に伺った。現在仕事をしておらず日中何をしているのか聞いたところ、編み物をしているとのこと。
100円ショップで毛糸を購入し、1時間ほどで幅1メートルほどのマットや、帽子を手作りで作っていた。実物を見たら、そのクオリティが予想を超えて高く驚いた。
母にこんな趣味があったとは。母は手作りのマットを弟家族や仲のいい方々にプレゼントしているらしい。
私も手作りの手編みマットをプレゼントで貰った。
クオリティが良いので、それを1,000円でメルカリで売ろうかと考えている。(カス息子)
おわり
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
「小さな巨人」である私の母について、noteに綴りました。
母は私にとって大切であり特別な存在。
今回、noteに投稿するため自分の記憶を辿ると、母がいかに苦労の連続であり、それに負けない人生だったことが改めて認識できました。
もし、あなたが40代であれば、父母の年齢は70代に近いでしょう。
あと何回親に会えるのか。
一緒に過ごせる残り時間は100時間を切っているかもしれません。
今求められている「本当に貴重な時間」とは。
一度考えてみましょう。
後悔しない人生を歩みたい。
それはあなたの親も同じでしょう。
親は1回でも多くあなたと食事をしたいでしょう。
1時間でも同じ空間で話をしたいでしょう。
ぜひ、今夜は電話をしてみてください。
LINEでもいいでしょう。
元気だよと伝えてください。
さりげなく電話を切る時に「ありがとう」と言えたらステキですね!
さて、私は母を寿司屋にでも連れて行きますか。
いくらの軍艦巻きも食べてみよう。
もち、回る方の寿司ですけどね。
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本当に記事作成のモチベになっております。
また、いただいたチップは参考書購入など大切に使用させていただきます。
これからも情熱と自分の体験談を元に、
あなたの心にしっかりと届く記事をお届けいたします。
