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観客の集団の性質


観客は作品を構成し、完璧にもでき、スポイルもできる

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作品にとって、観客との関係は重要であり、常に悩ましい。
私は4年ほど前に宝塚の演出を辞めて以来、それまで自作を観てくれるのは主にヅカファンか団体観光客と層が固定化していたところから、それより多様な観客層に出会う機会が増えた。
結果、今もまだ混乱している。

私がこれまでと違うフィールドの俳優たちと仕事をした結果、その俳優たちが彼らの観客層と少し違う私の観客層に出会うことの難しさもあるのかもしれない。
今のところ、客席と舞台上がしっくりくる上演にまだ出会えていない気がする。

ある時、宝塚を辞めた後の私の作品に出てくれたパフォーマーに「今日はちょっと不調だった?」と言ったら、突然泣き出されたことがあった。「お客さんは"上田さんが"何してるか見にきてるだけで、私はただ消費されてるって感じて、やりにくくて…」
つまりは、作品を見ることが目的で観客がくるというアート系のフィールドにいたパフォーマーにとっては、人を見にくる・会いにくる、ということ自体が嫌だと感じるのだろう。
そんなことを言われても困ったけれど、そのパフォーマーが実際に観客を感じ強い影響を受けていたことは事実だ。

どんな作家の作品も、その日の客層によって上演が与える印象は左右される。全く違う作品のようになることもある。
私も、演出家になって毎日のように客席で自作の定点観測をしてみるまでは、観客の集団の性質が作品の印象(=その印象を生じさせる生身の俳優の演技)を毎回変化させるということに、気が付かなかった。
多くの人には演出家経験がなく、観客の集団の性質という作品構成ファクターを考える機会は少ないと思うので、ここに記しておきたい。

ちなみに、私がいたころの宝塚歌劇でよく、皆が最高の演技をすると都市伝説のように言われていたのが「農協の貸切公演」だった。
各地の農協から観光バスでやってくる主に中高年の団体客は、誰かを応援して拍手を大きくしたり、見巧者として欠点に目くじら立てるようなこともなく、ただ物見遊山のニュートラルでポジティブな様子で客席に座り、リピーター観客ではないので、舞台で起こることにナチュラルに驚いたり笑ったりする。内輪ノリで過剰に笑うとかでもない。
シンプルに先入観なく見てくれるので俳優も演技に集中できて、まだ彼らが知らない物語を語っていくやり甲斐があるのだろう。

私はどんな作品でも「新鮮に、稽古場から何百回もやっている場面でも人生で初めて起こることとして正確に反応して」とリクエストするのだが、宝塚のロングラン公演だと100回近くも公演が続いたりするので、これは俳優にとって非常に難しい。
それでも私は、鮮度が落ちてくる公演期間後半ほど口を酸っぱくして「新鮮さを忘れずに」と皆に注意し続けていた。

そんな注意が続いたある日、一人のタカラジェンヌが私に言った。
「でも違うの!前の方に座っているお客さんたちはもう何十回も見てるから、話は知ってるよって感じで、悲しい場面の前にはすでに泣いてて啜り泣く声が聞こえるから、その中じゃ、演じてる側としても、それが初めて起きてることって感じになれないの。だってもう知ってるストーリーにワクワクしてない気持ちが客席から伝わってきちゃうから!」

ぐうの音も出ない。そりゃ確かにやりにくかろう。
そういえば、客席から自身の感動を演者に伝えるべく聞こえるように啜り泣くような、妙な参加型のムードを感じることもあった。
支えてくれているリピーター観客に「毎回新鮮に見てくれ」なんて要求できないし、とりあえず「いやいや、舞台から見えてない奥の方の席とか2階席に初めて観てる人たちが絶対にいるから、その人たちを想像して。後ろの方の席に向かってやって」と言うしかなく、タカラジェンヌもそれに応えて最大の努力をしてくれたが、やっぱりリピーターや俳優ファンが少ない、ただ作品を見にきただけの観客の割合の高い公演の方が、宝塚に限らず国内外問わず、私にとってはライブ的で好感度の高いパフォーマンスになりやすい。
作品を逸脱した観客と舞台上の関係性が生じず、流れが逸れないので、すっと作品そのものが伝わる感じだ。

でも日本では俳優や名人や演出家の名前ではなく、作品そのものを見に行くという層は薄い。現代演劇のフェスティバルなんかでは、キュレーションを信頼して出演者に関係なく集まる観客のほとんどが、知識階層だったりアートファンだったりで濃密だが数の少ない固定的なメンバーの集団だ。
人を観に行くのは日本の伝統的な観劇スタイルだし、西洋でも作品至上主義は普遍的ではなく前世紀からのトレンドなので、人を観に行くのが良くないとは私は思っていない。
ただ、人を観に来たにしろ、観る時のスタンス次第で、良い劇場空間を作り、目当ての俳優や名人の良いパフォーマンスを引き出すことを観客はやっていけると思うし、自分もそういう観客になりたい。


ニュートラルでいるのは難しい


いま静岡芸術劇場で上演中の「ハムレット」が一般公開初日を迎えた日、私の演出家人生で最もはっきりと、観客層によっていかに作品が変わるかが実感された。
というのも、この作品は平日は一般公開せず県内の中高生の貸切公演をしていて、一般公開初日の前まではティーンエイジャーに埋め尽くされた客席に対して上演していたのが、一般公開になった途端、ほぼ大人だけの客席になったため、普通では起こり得ない極端な客層の変化と作品の変化を体験したのである。

客層の違いは、子供か大人かだけではなく、演劇を知らず義務参加で来た子供 vs 興味があり有料で訪れた大人、という大きな違いだ。

spac版「ハムレット」は、前半は大胆にメタなコメディ仕立てになっていて、導入部分は観客に話しかけるインタラクティブな作りになっている。後半になるにつれて、だんだんメタから物語そのものに入り込んで、ハムレット本来の印象に近いシリアスなドラマに移行する。

学生たちが観客の時には、前半のコメディパートはとても反応が良くて、後半のシリアスな人間ドラマでは若年層ほど集中力が息切れしがちだ。そうするとパフォーマンスも後半より前半がよく見える。
「長いなあ」と、もぞもぞする客席の空気に連動して、芝居の密度も落ちてくるのは演じる側の問題ではない。空間自体の散漫さの中では、どうしたって良い演技は生じないのだ。(「長いなあ」とならない構成にするのは演出の仕事なので俳優も観客も悪くない)
それでも、SPACもハムレットも上田久美子も知らないで身構えることなくやってくるニュートラルな観客である中高生はかなり安定して、作品として見やすい上演、その作品の本質みたいなものを引き出してくれる。

それとは逆に、さまざまな思惑の客層が入り混じった一般向け公演の初日は、とてもいい演技も飛び出したものの、作品としては本来意図していたものとはかなり違ってチグハグな流れになったように、客席からは感じられた。
学生向け公演とは真逆に、前半のコメディはぎくしゃくし、後半のドラマは盛り上がったが、今作本来の流れは生まれなかったように思う。
コメディには、フライングで笑ってくる層と、そういう雰囲気やベタな笑いに引く層がいて、俳優も見たことのない間合いになったのだが、一般に、作家や俳優に味方して応援してやろうという気持ちが災いして前のめりに反応する観客がいる場合、インタラクティブな作りは客席の影響を受けすぎて危険だ。
後半のドラマ部分になると「やっとハムレットが始まった」といわんばかりに客席は集中したので素晴らしい演技が飛び出したりしたが、全体としてはハムレットはこういうものという先入観や初日でハイテンションな人もいる観客との関係の中で、細部が揺らいで作品として一貫しなくなった印象を私は受けた。
この初日を見て、翌日の学生貸切を見学した友人は、ずいぶん違う感想を持ったようだった。

舞台の上の俳優たちは、客席の「これがほしい」に無意識に反応していくものだと思う。
だから集まる観客層が何を美意識としているかによって、その上演の導かれる方向は変わっていく。観客から影響を受けず自分たちの美意識を貫けば良いじゃないかと思うかもしれないが、映画みたいにすでに録画されたものを毎回流すメディアとは違うライブパフォーマンスの演劇という現象は、舞台上と客席とのコミュニケーションの内にこそ、立ち上がっている。
だから、客席を断絶することはできないし、しては意味がない。
もちろん、その作家や劇団の創る作品が特定の人を引き付けて観客層を生み出していて、俳優たちの集中した演技が集中した観客を生み出すのだから、全ては創り手と観客の相互作用なのだが。

また、観客同士は否応なしに一つの集団を成しているので、その集団に閉塞感があるか(固定ファン的な内輪の集まりだったり、ジャッジを下す評論家たちだったり)、ひらかれて風通しのいいものか、そういったことも空間に影響してくる。
私としては常日頃、いろいろな観客層が入り混じるようにしてみたくて、大衆向けは大衆のみ、アート系は限られた人のみ、と棲み分けている垣根を低くしていくのが今の演劇界の課題だと思っているので、そういうことを前作『寂しさにまつわる宴会』の時から試している。
『ハムレット』でもそんな目標の通り、SPACの固定客層に加えて、東京から上田作品を見に来てくれた人や、アート関係者など、通常よりは多様な客席にはなったけれど、そういう多様な客席にどうコミュニケーションすればいいか、まだ私自身手探りで、迷っている。

劇場の観客の呼吸の一つ一つは、俳優たちが泳ぐプールを水のように満たしている。
そのプールが波一つなく深いオリンピック用の競泳プールになっているか、細かい乱雑な水流の起きた市民プールの浅瀬になっているのか。どんな速さで泳げるかは、観客たちが呼吸で満たしてくれるプールの密度と深さによって違う。
時には、観客が固唾を飲んで見守る初日みたいな、緊張して凍りついた、冷たくて体が動かないプールもある。


そういえばシェークスピアのグローブ座の客層って?


「ハムレット」の戯曲の中に、ハムレットが旅役者たちに向かって、観客に媚びる演技をせず、自然さと適切さを保て、と演技指導?する場面がある。

ハムレット
今やってみせたように、台詞は、すらすらと言ってくれ。そこらの役者がやるように大げさに騒ぐなら、チンドン屋でも連れてきたほうがましだ。こんなふうに手で空を切るのもやめてくれ。穏やかに動かすんだ。感情が高ぶって邀流となり、嵐となり、竜巻となるときこそ、それをよどみなく表現するための抑制がなければならぬ。ああ、かつらをつけた大根役者が熱情をぼろぼろに引き裂いてみせるのはまったく腹に据えかねる。わけのわからぬだんまり芝居かどたばたにしか反応しない平土間の客の耳を劈くぐらいしかできんのだ。鞭打ちの刑に処してやりたいね。回教徒の荒神様ターマガントや暴君へロデもかくやとばかりの荒事ぶりだ。どうか、それだけは避けてくれ。

座長
大丈夫でございます。

ハムレット
だからといって、おとなしすぎるのもいけない。自分自身の判断に従ってくれ。演技を言葉に合わせ、言葉を演技に合わせるのだ。特に厳守してもらいたいのは、自然の節度を超えないこと。何事もやりすぎは、芝居の目的に反する。芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること、つまり、美徳には美徳の様相を、愚には愚のイメージを、時代と風潮にはその形や姿を示すことだ。やりすぎたり、いい加減だったりすれば、一般客は笑っても、目利きの客は悲しむことになる。そうした客一人の意見のほうが、お客全体よりも大切だと思ってほしい。ああ、巷でほめそやされる役者たちの芝居を観に行ったことがあるが、神を冒するつもりはないものの、キリスト教徒の話し方ではなかった。キリスト教徒だって異教徒だっておよそ人間ならあんな歩き方はしない。ふんぞり返って、どなるような大声を出し、神様の見習いが作り損ねた人間かと思うほどひどい演技だった。

座長
私どもは、その点、かなり改めたつもりでございます。

ハムレット
いや、すっかり改めてくれ。それから、道化を演じる者には、決められた台詞以外は喋らせるな。自分から笑い出して、馬鹿な客どもの笑いを誘おうとする奴がいるが、そのあいだ、肝心の芝居の中身が蔑ろにされる。ひどいものだ。そういうことをする道化の野望はあさましいかぎりだ。さあ、準備にかかれ。

新訳ハムレット 河合祥一郎訳 増補改訂版 角川書店


ぎゃー!
「芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること(略)。やりすぎたり、いい加減だったりすれば、一般客は笑っても、目利きの客は悲しむことになる。そうした客一人の意見のほうが、お客全体よりも大切だと思ってほしい」
これはハムレットの口を借りたシェークスピアさんのご意見に違いない。
けっこう言うな!

かなりの上から目線を感じるが、当時リアルタイムにシェークスピアの作品を新作として見ていたグローブ座の観客層ってどんな感じだったんだろうか?

ChatGPT:

グローブ座の観客は、当時のロンドン社会のあらゆる階層から集まっていた。劇場は円形に近い三層構造で、中央の屋根のない広場(ヤード)には一ペニーを払った庶民が立ち見で詰めかけ、舞台のすぐ目前で叫び、笑い、時に野菜や果物を投げることもあった。彼らは「グラウンディングス」と呼ばれ、演劇を祭りのように享受していた。二層・三層の回廊席には職人や商人、中流階級が座り、上階のギャラリーには貴族や知識人が陣取り、芝居の言葉や比喩の妙を静かに味わった。

このように、グローブ座は社会階層を横断する公共空間であり、庶民の歓声と知識人の沈思が同じ劇場内に同居していた。現代のように観客が静かに暗闇で鑑賞する形式とは異なり、当時の演劇は明るい屋外で、観客が役者に直接呼応する「生きた社交の場」であった。シェークスピアはこの多様で騒がしい観客すべてに届くように、笑いと哲理、通俗と詩を交錯させる劇作を行っていたのである。

なるほど。
じゃあ、シェークスピアは、かぶりつきの平土間に座る一般客の趣味は軽蔑して(当時は今のS席が最安だった)、上階のバルコニーとかにいる目利きの知識階級に照準を合わせろと言っているのだろうか?

1. シェークスピアの観客観

シェークスピアは、実際には「大衆も知識人も同時に魅了する劇作家」でした。
彼はどちらか一方に偏ることを嫌い、両方に届く言葉と構造を設計していました。グローブ座の「立ち見席の庶民」には、下ネタ、肉体的ギャグ、痛快な暴力や恋愛の混乱。
上層・知識層には、韻文・哲学的モノローグ・政治的寓意。

その両者が同じ劇場で笑い、沈黙し、反応する構造を作ることが、シェークスピアの天才でした。
したがって彼は、大衆を見下していたのではなく、大衆に迎合しすぎることを警戒していたのです。
彼の目指す「自然の鏡」とは、人間全体を描く普遍的芸術であり、単なる娯楽でも、高踏的な詩でもない。


2. 芸術家としてのスタンス

シェークスピアのスタンスは、現代の言葉でいえばこう言えます:
「芸術は大衆に開かれていなければならないが、大衆におもねってはならない。」
彼は観客を分類して差別したのではなく、観客の中にある「思考する部分」と「快楽を求める部分」の両方を理解していました。
ハムレットの台詞は、その二面性の中で、芸術家の倫理と責任を語っているのです。


3. まとめ

シェークスピアは大衆を軽蔑していたわけではない。
彼は「大衆も楽しめる高い芸術」を志向していた。
「自然に鏡を掲げる」とは、人間社会の真実を、誠実に・節度をもって映すという芸術理念である。
それは、娯楽と知のあいだで揺れるルネサンス的人間主義の理想の表れである。

chatGPT

あくまでAIの言っていることなので、多少の正誤はあるかもしれない。
でも、大衆にひらかれていなければならないが大衆におもねってはならない、というのは、確かにそうなんだよなあ。
私の加減は、どうなんだろうか。


さっきから密かに、妄想していることがある。
今回は一般初日として、学生を入れていない大人の一般客だけの上演回を作っているけれど、学生団体と一般客を同数ぐらいにして、往時のグローブ座みたいに極端に違う層の人々が、客席のエリア別に分かれて観劇したらどうなるんだろうか?

一階の前方(平土間)は中高生、その後ろに大人の席を作りたいが、何をきっかけに来場したかによって席のエリアが分かれるシステムだと面白そうだ。記者や評論家は2階の高いところでちょっとクールに見ておいてもらおう。

私は、”ニュートラルであること”の定義について、農協の貸切とか学生貸切(あるいはフランスやドイツの公共劇場の地元客)みたいに、先入観がなく自然体で観るという点において均質な集団を想定してしまっていたけれど、ニュートラルとは、むしろカオスな状況である場合もあるんだろうな。
観客はこちらが指名して来てくれるわけではないから、グローブ座並みにカオスな劇場というのは、目指しても現代においては実現できないことだけれど…(そもそも娯楽メディアの細分化具合が違いすぎる)
そして、これまでは自分が観劇に行って学生の団体もいる公演に遭遇すると、途中で騒ぐんじゃないかとか不安になったりしていた自分をちょっと反省した。

次の、「ハムレット」一般公開公演は11/15だ。
今度は、観客とどんな上演を作ることができるだろうか。

なおその日は上田久美子とロシア文学者でゲンロン代表の上田洋子さんとのアフタートークも予定している。
チケットは余裕があるので(価格も手頃)、お時間のある人でお近くの方は、客席のカオスを増しに、ニュートラルな気持ちで覗いてみてくださったら嬉しい。

ちなみに学生貸切公演で一般客を受け入れている回もあって、雰囲気を見るのにとてもおすすめ。
21日(金)14:00、26日(水)13:30、12月5日(金)13:30、8日(月)13:30、9日(火)13:30
電話予約(054-202-3399)か窓口当日券でどうぞ。


この先には、メンバーシップの皆様にメールで届けられるよう、おまけの通信をつけておきたい。

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