見出し画像

死ぬことは死ぬほど難しい

なんだか最近やたらとあちこちでハムレットを上演している。日本でもそうだし、パリでもここ半年で4作品ぐらいのハムレットが主要劇場で上演されたように思う。
私が昨秋に静岡芸術劇場で演出したSPAC版ハムレットも半年という短いインターバルでまた今月末から再演だ。

さすがに、ハムレットばかりやりすぎではないか?こんなにハムレット流行りなのはなんでなのか気になる。(ついでに飽和気味のチケットの売れ行きも気になる)

こういう世界情勢なので、男たちが決闘して全滅する結末に反戦的メッセージを重ねたいのかなとも思うが、それよりもハムレットのテーマというのは、人が死んだらどうなるのか、生きてきたことの意味はどこへ消えてしまうのか、というたぶん人類が脳を発達させて以来15万年ぐらい悩み続けてきたもっとも古く普遍的な悩みなのではないかと私は思っている。

かつて人類は宗教を発明して、その悩みを集団的に和らげることができていたかもしれないが、宗教離れが進んだ現代社会ではテクノロジーが人々の注意を占有しているわりに、そのテクノロジーは死の受容を手助けしてはくれない。
だから、ハムレットの「死ぬとはどういうことか?」という悩みは、急激に同時代性を帯びてきている。

私たちは死ぬことに往生する。
身に迫る危険がなく、相対的には幸福といえるはずの平和で医療の発達した日本みたいな国では、なかなか死ねないがゆえに人は往生する。
「往生」は、死んで極楽に行くという仏教用語だが、「死にそうな」苦労をするという意味にも転用される。

まだ死が遠いうちは、長生きなんかしなくていい、いつ死んでもいいと豪語していた人たちが、兄弟や友達がだんだん亡くなって自身も近づく死の足音を聞く頃になると、その時を先延ばしにしたいと必死になるのをよく見る。いつ死んでもいい、なんて言いながら独居して過ごす夜の不安にさいなまれ、胡散臭い高額のサプリに手を出す高齢者たち。
若い世代はそんな高齢者にからかいと微かな非難の混ざった視線を投げかけるが、これは、高齢者の側からしたら恐ろしいことだろう。世界においてその命が必要だと思っているのは自分だけで、他の人はそれほどでもないのだとしたら。

70代に差し掛かった母は、今の自分は長生きしたいなんて思わないけれど諸先輩がたの様子を見る限り自分もいずれ生への執着に取り憑かれてみっともないと笑われそうだと恐れて、この前は「ポックリ寺」なるものに参拝してきたらしい。

そんな母は、同居していた祖母が、自分が死んだら高額の戒名をつけてほしいとこだわるのを(戒名ってグレードがあって寄進額次第で〇〇院とかの高位の戒名を寺からもらえるんですって)、「死んだら無になるんだし一緒なのに。近所に見栄張ってるのかな」などと愚痴を言っていたが、立派な戒名に価値を感じるぐらいには信仰心(あるいは死後に自身の評価がコミュニティの記憶に残ることへの無邪気な期待)があった祖母には、死の受け入れは少しはたやすかったかもしれないと思う。
農村で一生を終えスマホも持っていなかった大正生まれの祖母は、それほど死ぬことに往生しているようには見えず、葬儀の豪華さと参列者の数にこだわりながら比較的あっさり逝った。

そんなわけで、うちの祖父母の葬儀は、家族以外も参列する旧式の田舎風の葬式だった。
学生時代に村を出た私は、それ以来顔をあわせなかったような隣人たちや親戚と葬式で再会した。座敷に近所の人が大勢集まり円座を組み、何メートルもある巨大な数珠の輪みたいなものを手から手へ送っていく、時代がかった謎の儀式も実践した。
その時に感じたのは、死というイベントを媒介として普段会わない人々が時間を割いて集まり、一緒に飲み食いしたり時間を過ごすことで、物理的・身体的につながりを修復し維持することになるという死の効能だった。冠婚葬祭は、かつては水路や農道を作るための共同作業が欠かせなかった農村では、連帯維持のための時間共有の口実だった。
だから、その時に私が思ったのは、死者が大勢に繋がりを取り戻させてくれるということで、死が無駄ではなく、その人の命が無目的に消えたわけでもないということだった。

でも、農村コミュニティに生きている人は今は少数だし、世代がくだるにつれて宗教とか信心はどんどん遠ざかっている。
コロナ禍を良い機会とばかり、本当は気力と資金のいる大々的な葬式なんてしたくなかったんだよねという残される側の本音が噴出し、少人数での家族葬のような生者に負担をかけない形の葬式が圧倒的に増えた。
死とは事務的な後始末に象徴される役立たずのイベントであり、大切なのは死んで無になった死者より生者たちの側だという実用主義を一層認める形の葬儀が一般的になった。
ダサいネーミングの無味乾燥な葬儀場や、工場で作られたパサついた仕出し弁当、意味不明に押し花の貼り付けられた陰気なデザインの電報といった、生前のその人なら決して好むものではないような凡俗さと画一性によって簡便化された手続きが、私たちの死を待っている。
そういうケースを見送る側として何度も経験しているうちに、自分の死というのも、この社会では邪魔っけな、無味乾燥な物理的消滅というイメージしか持てなくなる。

タイに住んでいる日本人の知人が、母親の遺灰をチャオプラヤ川に散骨した時のことを話してくれた。
ほとんど水没して金色の塔だけが水中から突き出ている寺院の近くまで舟を寄せて、花々と一緒に灰を川に投げ入れたのだそうだが、花と灰が水に浮かんで遠ざかったりまた戻ってきたりする様がいいようもなく美しく感動が胸に押し寄せて「お母さん、よかったね」というような気持ちになり、その時に、自分もこうして死ぬことは怖くないと感じるようになったというのだ。
タイでは葬式には大勢が集まり、晴れ着を着せた死者と記念撮影したり皆でお祭りのように過ごすこともあるという。それは次の生への出発としての死という概念が強いためのようで、誰かが事切れた後の病室にふと蝶が舞い込んできたりすると、あ、あれはきっと〇〇さんですね、などと医者がつぶやいたりするとその知人は言っていた。
彼の姪っ子は、死んだ祖母と同じく踵にほくろがあるから祖母の生まれ変わりということになっているらしい。
火葬場も街の中にあり、日本のように人里離れた山中に火葬場を設けて忌むようなことはない。死は日常生活つまり生者の世界と近く、隠されるべき嫌なタブーというイメージが少ないらしい。
タイの介護施設で看取りに関わるその知人は、そこでは人は死ぬことにさほど悩むことがないと話していた。

その話を聞いて、人類の遺跡に宗教的な痕跡が見え始めるのは、10~15万年前の埋葬で儀式的な事物が埋められているのが今のところ最古級だという説があったのを思い出した。死に、物語やなんらかの美しさを与えることで、死のもたらす本能的な恐怖に対処することが、宗教が必要とされた大きな動機だったことは確かだ。
時代がくだると政治権力と宗教的象徴が一体となった遺跡が見られるようになるが、死の恐怖への対処というもっともユニバーサルなニーズに答える宗教を、権力者が管理することで人心掌握の道具としたことは明らかだ。

学生時代以来、約四半世紀ぶりにフランスに身を置いてみると、2000年ごろとは明らかに違って、無宗教を名乗る人が多数派なことに驚かされる。フランスの脱宗教化は長い世俗化の過程があるが、近年の教会スキャンダルが流れを決定的に加速させたようだ。もともと宗教の政治的組織化が強固ではなかった日本だけではなく、ヨーロッパでも都市部の多くでは、死の不安の集団的な解決装置は壊れてしまった。
興味深いのは、宗教の後退によって空いた場所に、テック産業が入り込もうとしているらしいことだ。不死、脳アップロード、救済としての技術、一見きわめて世俗的に見えるが、どこかで宗教が担ってきた欲望を別の形で引き受けて、ピーター・ティールのように宗教的言説を繰り返す一派も現れた。
しかしこのテック系の代替宗教にアクセスできるのはごく一部の富裕層だけで、一般庶民にとってテックは死からの救済ではなくただの気散じであり、スマホ、SNS、動画、AI、ゲームアプリは、死の不安や孤独を根本的に受け止めるのではなく、気をそこからそらすものだ。

今、私たちは個々人で、自分の命に解釈と意味を与えなければならない。あるいはその無意味さにたった一人で立ち向かわなくてはいけない。
まるでハムレットのように。

神の救済を期待できなくなったハムレットは、人間が自分という死者を忘れずにいてくれることを懇願して死んだ。いまわの際のハムレットは、神に祈ることもなく、親友のホレイシオに、ハムレットの行いを人々に語り伝えてくれと必死に頼む。
でも私たちのほとんどは、語り継いでもらえるほどの人物ではない。自力でSNSを使って存在を世界にアピールしたところで、未来の人々が死者の過去の投稿を見返してくれることは期待できない。

「ハムレット」でも西洋の小説でも死の前に懺悔をするくだりがよく出てくるが、枕元に聖職者がやってきて、お香の煙の中で懺悔を聞いてくれて「神のみもとへ…」なんてイメージしながら死ぬ状況を想像すると、身寄りのない老人になって薬品臭い病室で機器に囲まれて「死んだら無になるんだ」とか考えながら誰の役にも立たない死を迎えるより、随分と落ち着くように思う。
私は儀礼的な仏教徒で独り身のため、そんな身も蓋もない死に方をする可能性が高いが、そのときの自分に最後のセリフを書くとしたら「ちょちょ、わーちょっと待って〜」ぐらいのセリフしか思い浮かばない。

そんなことを考えながら、『ハムレット』再演の稽古をしている。
たしかに今日的な戯曲だ。
戯曲史において、近代的自我をもつ最初の主人公とも言われるハムレットは、泥試合のような決闘の中で死んでいく。神ではなく、自分の知力だけで、生きることの無意味さをなんとかしようとあがきながら。
たぶん、未来の私のように。

でも、さすがはシェークスピアさん、主人公の末期の一言は、私と違ってちゃんと深遠である。


『ハムレット』 
潤色・演出:上田久美子
6/27(土)、6/28(日)、7/4(土)、7/5(日)

▷チケット発売中
電話予約:054-202-3399
オンライン販売:下記リンク


【メンバーの皆様へ】
本文は無料公開記事です。メンバーシップコラムは後日掲載予定です。

ここから先は

246字

上田久美子(と制作チームProjectumï)の創作活動を支えてくださる皆さまのメセナです。 このn…

大人の見守りワンコインメセナ

¥500 / 月

学割/失業中プラン

¥500 / 月

ベーシックメセナ

¥1,500 / 月