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あの時何気なく行った場所、会った人が、今の人生を作ってる。

40度の熱が出た。高熱と言っていい。というか何なら今も熱がある。つらい。。

と、そんな話がしたいのではなくて、今までこう人生を振り返ってみると、大きな決定の際には大体高熱を出してるんですよね。たとえば、上場したてのスタートアップをやめて岡山の田舎に帰ることを決めた時とか、止むに止まれぬ理由でいきなりチームごと会社を追い出され起業した時とか、弁護士辞めた時とか、教育事業やることにした時とかとかとか。

僕は割と体のサインみたいなやつは大事にしてて、というのも頭だけで判断できることなんてたいしたことないって思ってるからです。人間は色んな情報を受け取ってて、頭よりも先に答えが出るものとして体があることもあるのかなーって思ってたりします。シンプルに風邪ひきたくない時に風邪ひくのって、認知できない負荷がかかってるからですよね。それはウイルスとかかもしれないし、疲労とかかもしれないし、脳の処理の外にあるアイディアかもしれない。そんなふうに捉えてます。熱如きで大袈裟かもしれませんが、ほんとに体調崩さないんですよね。2年に1回あるかないかくらいなので。

あ、余談ですが、この間、元上場企業の代表の方と話してた時に、上場企業の代表やめてからほんとに体調崩さなくなったって言ってました。在職中は、季節ごとに崩してたけど、今や辞めてから一度も崩してないと。すごい。超高負荷のストレス下にあると人間の体はそんなに悲鳴をあげるんだなってちょっと感動しました。いいですよね、認識の外で何かに影響されてるのって、驕りがなくなって。自力とかコントロールとかって幻想で、仏教的意味での他力が当たり前なのかもしれません。

ただそれでいうと、「上場企業の代表を辞める」とかはコントロールの中にあるといえばあるので、メタ認知をした上で、今の自分にとって所与のもので動かせないなーって思うところまできた上で、さらにそれさえも変更可能(というか、されうる)ものだってのがおもしろい感じです。

であれば、「生きる死ぬ」さえ究極的には選択可能なんで、仕事を辞める辞めない、移住するしない、起業するしない、とかとか全部余裕で選べばいんでしょうね。好きな方を。それ以外に軸もなくていい。ま、ただ、今自分が見てる世界を生きやすいレベルでの「前提条件」みたいなのは持っててもいいかも。さすがに常に「生きる死ぬも自由だ」と思って生きてると、処理に時間がかかりすぎるので。ご飯食べる時とか、メッセージの返信するとことかの1つ1つに「まぁ究極生きるも死ぬも選べるしな」ってところから思考を始めると疲れがえげつないと思われます。一時期試してたけど、何も進みませんでした。反省。だから自分にとっての「前提条件」をいくつか作って、それに従うっていう日常を過ごしつつ、定期的にその前提条件を疑って、修正して新しい「前提条件」をつくってまたそれに従って日常を過ごす。そうすることでどんどん良いスパイラルに入っていきます。これは経験からもいえるので結構おすすめ。

「前提条件」っていうとなんかわからないかもしれませんが、判断軸というかマイルールというかそんなやつでいいです。たとえば「迷ったときは面白い方を選ぶ」とかですね。今まで損得で考えて選んできた人は、このルールを採用した後、人生がおもしろくなったはずです。そりゃそうですよ、おもしろいかおもしろくないで選んで、おもしろい方なんだから。あたりまえ。しかも自分自身が「おもしろい方を選んだんだ!」「そういうのを選べるおもしろい人間なんだ」という気持ちにもなれる。とても合理的でよい。

一方でこの「前提条件」(正確にいうと、迷ったときはおもしろい方を選んだ方が人生が好転する、という考え)は、あくまで目の前のものが択一的なものでどちらかを選んだらどちらかを捨てなければならない、そう考えていることにもなる。でもでも、よくよく見てみると本当にそれは選択すべきものなのか?という問いが浮かぶかもしれない。だから「迷ったときは両方とる!」という前提条件に変更してもいい。そうすると、選ばなかったものなんてない世界が待っている。これは「おもしろい」より、自分にとっておもしろいかもしれない。そうして自分なりの前提条件に従う人生はとても豊かだ。

これ今思うと普通に「おばあちゃんの知恵袋」だな。叡智の結晶。以前はそれが情報に偏ってたから、情報化が進んだ今では無価値みたいになってるけど、たとえば「お天道様が見ている」とかは普遍的な道徳、価値、みたいなものを含む。ここにいうところの「前提条件」。誰も見てなくても、悪いことをしたとき、それはお天道様が見ているよ。この教えは、ばーちゃん界でもよく知られた教えかもしれないけど、それによって自分の中に罪悪感を抱かない生き方を教えるとてもよい教えになっている。

究極的には、自分が幸せになって、周りが幸せになって、世界が幸せになればいいわけなのに、最初の自分部分に罪悪感とか芽生えちゃったらそれ以降全滅しちゃう。こういうふうにある種ロジカルに説明することももしかしたらばーちゃんはできるかもしれないけど、それを生き様みたいなやつで伝えるのほんとすごい。ばーちゃんはすごい。そういう話。


なんだっけ?
え、これ全部余談?まじか。どれだけ話したいんだよ。いやここで話したいんだよってのは会話ではなくこの文字でのコミュニケーションなんですけどね。実際こういう話ってできなくないですか?飲んで、みんなのトピックがなくなって、たまたま二人終電なくて朝までファミレス行くかーで、ドリンクバーももう飲むものなくなって、テーブルの上にある紙でバレリーナとか作り始めて、それをストローに指で蓋をし水を貯めつつ放射してふにゃふにゃにしたくらいでようやく出る話じゃないですか?相手が聞いてるか聞いてないかとか関係なくなった後ようやく。だから飢えてるんでしょうね。この飢え本当に僕だけなのかな?みんなも実は持ってない?

と、そうだ、高熱だ。頭痛くなったので思い出しました。
むしろこっちの話の方がおもしろくなくね?って思い始めてるのはまーおいておいて、大体大きい決断するときは高熱出るよって話。

じゃー今何か大きな決断をしようとしてるのか?と言われると特に思い当たらない。しかしおそらくそれは渦中にいるからで、会社辞める時とか起業する時とかも思えば「大きな決断をするんだ!」という感じではなく、日常の中先に無意識の決めがあり、それを前提に熱が引いた後選んでいくと、まぁそりゃ辞めるよね、起業するよね、ってなっていったというか。なのでこっから何か決めるんでしょうね。え、何だろ楽しみ。首長選とかでるのかしら?(全然リアリティがないけど)

ただこれもドラマチックな流れが好きだから言ってるだけで、高熱だろうが何だろうが日常というものを後で振り返ると劇的な決断だらけなのかもしれませんね。あの時何の気なしにカレーパーティーに行ったことから、気がついたらVCつくったり、映像メディアを毎週やってたりするようになったし、そしてそれ自体も誰かが誰かを嫌ってたり、興味なかったり、相手にしてなかったり、場所が岡山だったり、津山から岡山に出てきたり、経営がうまくいかなったり、コロナがあったり、ボールを蹴るのが好きだったり、ハンターハンターだったり、21時以降が自由時間だったりするから起こったことなのかもしれません。その中の一つが欠けていてもうまくいかなっただろうし、その一つが欠けている世界は一生見ることができないわけです。なんかいいなって思います、そういうの。

いま目指してるものなんて、所詮これら数多あるものを一つも手に入れる前に目指してるだけなんだから、変わって然るべきだし、そんなコントロールの外の事象に右往左往させられるのとても豊かだなって思いました。ファジーでふわふわしてますね。高熱のせいかもしれません(おそらく違います)。




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