ゲッパ上等!田舎娘の猪突猛進な人生
その日、ミッキーとミニーがパステルカラーで彩られたTシャツに、オレンジ色のレギンスを履かせていた。6月中旬、北海道の田舎町はそんなに暑くないと思っていたのに、レジャーシートを敷いた応援席は意外にも暑かった。
出番が近づき、1歳児さんが並ぶスタートラインまで出向くと、オレンジ色のレギンスを履いた娘は振り向いて笑顔を見せた。
私はしゃがんで後ろから抱くように娘を包み「ほら、ゴールに△△先生が待ってるよ。あそこまで一緒に走るからね」と伝える。
娘はあまり理解していないかのように、ぼーっとゴールを見ていた。
「よーい、ドン!」の声から少し遅れて、娘の手を引いて走った。ゴールをした私は、大笑いしてしまった。
なんと、我々は『ゲッパ』だったのだ(北海道弁で最下位)。
横のテントへ促され、担任の先生がお菓子とおもちゃの詰め合わせを娘に手渡す。私は満面の笑みで言った「いやぁ、ゲッパでした!」。「頑張りましたね!ほら〇〇ちゃん、じーじに報告しておいで。バイバーイ」
レジャーシートの上で複数のポケットが付いたチョッキ姿のじーじが、目を細めて園児たちを見ていた。
「ゲッパだったわ!」「うん、見てたよ。おもちゃ、もらったのかい?」そう言って、孫に笑顔を見せる。
娘は元気に腕をブンブン振りながら「まま、じーじ、あんぱんまん!」と連呼している。
私に顔がそっくりと言われるけれど、性格は『自分』というものがしっかりあって、のんびりもしておらず「ちぶんで!(自分で)」と言って、なんでもやる気満々。反して、私はのんびり屋で、人に勝ちたいという意欲が少なく、『ゲッパ』がぴったりな性格。
そうだ、本当にぴったり。
41歳でこの子を産んで、43歳の今は未婚のシングルマザー。
77歳喜寿でおめでたいじーじと、逞しい女の子1歳11か月と、北海道のど田舎で3人暮らし。
子どもの頃を思い出すと、小・中学校の通信簿は5段階評価の3ばかり。4や5があると思ったら、音楽・書道・美術の芸術分野だった。
良い所を伸ばす道を歩めば良かったのに、これは遊びの授業だしな、と勘違いしていた。努力しなくても、最初から出来る事は喜ぶべき才能。当時の自分にそんな考えは毛頭なく、大人も教えてはくれなかった。
賢さや運動能力は中の下。クラスのリーダーになる事は、もちろんない。お調子者な所もあり、アニメキャラを物真似して笑いをとっていた記憶もあるけれど、気の強い女の子に押され気味の日々だったと思う。
お人形遊びの時は、お父さん役や弟役。
私だって、お姫さまをやりたいのに。
小学2年生のとき、バレンタインチョコを友達と3人で手作りする事になった。貧しい我が家でも、なんとか月200円のおこずかいをもらえていたので、そこから貯めたお金を握りしめて、友人とチョコを買った。
友人宅でチョコを溶かし、固める。
「出来たら2人に届ける」とリーダーの子に言われ、帰宅した。
待てど暮らせど、なんの返事もなかった。私は確認出来ずにいた。
やっと、その子が我が家に来ると、玄関で驚くことを言い放った。
「あのね、チョコは出来たんだけど。Aちゃんと私だけで分けたから、かりんちゃんの分はないよ!」
「え・・・」
かなり、強い口調で言われ、何も言い返せなかった。
え?なぜ?!なけなしのお小遣いは?せっかく作ったチョコは?
言い返せない私は、やっぱりゲッパのポジションが似合う女の子だった。
そんな私を産んだ母は、陽気で元気で、天然ボケの人。知らない名前が明記された学生ジャージ上下を着て、その上にエプロンを毎日していた。
専業主婦とは思えないほど忙しく、町内会にPTA、「頼まれちゃって」というボランティア活動。
私がいじめに合うと、「どこの誰なの?!名前は?!」と剣幕をおこしていた。
高校時代の授業参観が忘れられない。
15歳ともなると、友人たちは親に「来ないで」と釘を刺していたようで、誰も来ていなかった。
そういうものか、と思いながら授業を受けていると、後ろから小さな声で「かりんちゃーん、かりんちゃーん」と聞こえてきた。
振り向くと、教室の後ろにただ一人立っている女性が、笑顔で「ピースピース」と両手ピースをしてきた。
私の母だった。
パッとしない青春を過ごしたのち、大学を出て働くようになった。教員生活3年、新聞記者5年と20代は、がむしゃらに仕事をする日々だった。
30代中旬となった頃、実家へ帰省するとよく見る光景があった。それは、母がラジオ体操と独自の体操を組み合わせ、毎日取り組んでいる姿だった。
「スーハ―、スーハー」と音を立てて呼吸をし、「100歳まで生きるから!」と言う。その姿に、私は「120歳までいけそうだな」と見ていた。
2020年の1月、北海道は大雪と吹雪が続いていた。そんな時季、母は交通事故で亡くなった。
両親は田舎から札幌へ、私に会いに来る予定となっていた。仕事の休憩にスマホを見ると、父からLINEと電話が何件も届いていた。内容を確認し、理解するのに時間が必要だった。
気づいた時には大声で泣き叫び、誰もいない廊下で倒れて泣き崩れていた。
「ウエディング姿を見せていない、お礼の言葉を伝えていない、孫の顔を見せていない」
出来なかった事が言葉になって、心にグサグサと刺さった。37歳の私は後悔だらけだった。
初七日、父と弟の三人で仏壇の前に座り、手を合わせた。寡黙な父が、私たちの方を振り返ると声にした。「お母さんは、父さんにはもったいないほどの人だった」そう言いながら、男泣きしていた。
実は35歳を過ぎた時から、女性としてのライフステージが周りと違う人生だとしても良いかもしれない、と考えていた。
ライフステージ全てゲッパどころか、体感では周回遅れの状態。
もうトラックのレーンを抜けて、砲丸投げしている人に向かって走っている気分。体も弱いし、子を宿して産むなんて奇跡。
けれど、母に会えなくなり、年月を経て父や弟が日常を取り戻すようになると、考えが変わっていた。40歳までにおめでたいことになったら、結婚をして、産みたい。
そして、3年前の40歳。子を宿したと分かった時は、一人で大喜びした。
ずっと行きたいと思っていたガラス張りGODIVAカフェで、空を眺めニコニコしながらカフェオレを口にした。
「これまでの人生で一番幸せだ」心からそう感じた。
喜びを先方へ電話で報告し、同じ気持ちの声がくるのを待った。ウキウキしていた。
なぜだろう、声のトーンが低い。聞けば聞くほど私の顔が青くなっていき、心拍数が上がって、足が鉛のように重くなった。
「一人でも、この子を必ず幸せにする」と本気で決意出来るまで、私はへなちょこだった。
いっそ、二人で消えた方が良いかも知れない。「この子は父親のいない人生を送る」という未来を想像すると、そう思った。
すぐに、なんてバカな考えをしているのかと気づき、泣き崩れた。
なんとか一人で産むと決めると、すぐに悪阻がやってきた。それはコロナのような症状と船酔いで立てないような状態だった。それでも、年末年始に実家へ帰って、妊娠だけ伝えている父に「一人で産む」と伝えに行かなくては。
札幌と実家の中間で合流し、そこから父の車で帰省する事となった。約束の場所に着くまで、まるでテレビから出てくる貞子のようにボロボロだったけれど。あと、数十メートルという所で、手鏡を見て顔を作り、背中を伸ばしてモデルのように歩いて向かった。
笑顔で手を振り「ごめんごめん!待ったよね」と言って父に近づくと、「遅いぞ。かりん、あそこで直してただろ」と恥ずかしいくらい、全て見られていた。
「一人で産む」と言えたのは札幌へ帰る直前。父は驚きながらも、寡黙な性格らしく「わかった」と言ってそれ以上は追及しなかった。
安心して、再び悪阻に苦しみながら家に着くと父からLINEが入った。
「やっぱり、おろした方が良いんじゃないか」
絶望的だった。一番喜んでほしくて、一番協力してほしい人に言われた事が。どうやら、子どもが生まれたばかりの弟が、現実の厳しさを思って父に提案したようだった。
どうしたら良いんだろう。親族からは喜んでほしいし、協力してほしい。
すると、弟からLINEが届いた。妊娠への祝いと共に、奥さんから「お姉さんが産むと決めたなら、これからどう支えていくかを考えた方がいい」と助言されたという。
その義妹の言葉にどれほど救われただろうか。
3ヶ月を過ぎると安定期に入り、長かった悪阻も終わりがきた。「人によっては産む前まであるよ」と聞いていたので、本当に安堵した。
と同時に、私の中でカチリ、とスイッチが入った。
やっぱり、あの母の血を引いているのだ。やりたいことを見つけたら、猪突猛進で全力疾走。そこは、母にそっくり。
今の私のミッションは、ただ一つ。
「一人でも、この子を必ず幸せにする事」
のんびり構えている暇なんてない。お人好しで、いつもゲッパのポジションに甘んじてきた。誰かに決められる人生は、もう終わりだ。
これからは全部、自分で決断する。
お腹はどんどん大きくなり、常に両手で支えて歩く事が多くなってきた。「絶対に産むんだ、元気で笑顔に囲まれた幸せな子にするんだ」日々、そう願っていた。
そして、願うたび、母のことを思い出す。
もし、生まれ変わりがあるのなら、母がこの子に生まれ変わったら良いのに。・・・出来なかった恩返しをしたい。
予定日の数か月ほど前、お腹の子が女の子だと判明した。
名前を考える時間は幸せだった。ふと、母が大好きだった伝説のアイドルの名前を付けたら喜ぶかも、とビビっときた。
すると、父からある一文字を入れてくれたら嬉しいとLINEが。両方を上手く組み合わせ、ネットで無料の姓名判断を確認すると、すべて「吉」以上と出た。
「これだ!」大満足で決定した。
母が亡くなって、もう4年が過ぎていた。耳が遠い父の一人暮らしは、詐欺電話や認知症と心配も多く、毎月帰省していた。けれど、妊娠中は年末年始以降、帰れずにいた。
『産まれたら、実家で暮らそう。父への心配も解消される』 それも、私が自分で下した、大切な決断だった。
「これ、可愛いんです♡うちの子も買ってて」
「おお、確かに可愛いフリフリだね」
お勧めしてもらった肌着をカゴへ入れた。神奈川に住む弟夫婦が連休に北海道へ来て、産前に育児用品の買い出しを手伝ってくれた。
「姉ちゃん、体調悪くなったら言ってね」
「うん。ありがとう」
「あ、これ!病院の店には売ってないから、絶対入院バックに必須です!」若くて可愛い義妹が、西松屋を攻略する先生になってくれた。
別の日には、じーじと再び西松屋へ。「ベビーカーやチャイルドシートは高いから中古で買うよ」と言う私に、睨みをきかせる父。
「ダメだ。父さんが買うから、新しいのにする」
なんと、渡哲也ばりのカッコよさ。
出産時、病院体制は素晴らしいものだった。担当の助産師さんはお若いのに安心感があり、優しい声かけで懸命に伴走してくれた。
夜中0時に始まった陣痛は、朝9時にはピークを迎えた。数週間練習してきたラマーズ法で「スーーハ――、スーーハ――」と呼吸を続け、泣き叫ぶこともなく、練習の成果が出まくっていた。
とは言え、本音は分娩台でゴジラのように暴れたいくらい、しんどい。まるで、尾てい骨を金づちでガンガンと叩かれているようだ。
助産師さんが「今、麻酔の先生が来ましたので、できますよ!」と言うと、同時に「はい、麻酔ですよぉ」とベテラン風の女性ドクターが入って来た。
天使に見えた。頭の上に光る輪っかが付いていたはず。実際は眼鏡にグレーヘアーだったけど。
「あら?落ち着いた感じね」
聞き捨てならなかった。
『落ち着いてる?ちがぁーーう!!ラマーズ法を完璧にやってきたからだ!!本当は限界だ!!家で夜中に破水して、大きいバック2つ持って、タクシー乗って、ずっと一人で頑張ってまっせ!』
再び、あばれたくなった。
その後、驚いた事に徐々に正気を取り戻すように。
『この世に、麻酔があって良かった』
正午の10分前、気づいた時には分娩台の周りに大勢の助産師さんたちが付いてくれ、私のスマホを持って動画を撮ってくれる人もいた。
そして、その子はこの世に降り立った。
「はい、女の子ですよ」
「お母さん、大きいですね」
『・・・うそ、本当に産まれた』
ゲッパの人生に奇跡が起きた。
新生児は無菌状態で出て来たので、触るにも常に手を綺麗な状態にしなければいけない。小さくて、軽くて、むにゃむにゃと寝ている事がほとんどだった。
じーじはなんでも買ってきた。ハイハイをし出すと2階に上がる事のないようにガードを、冬にはストーブに触れないようにストーブガードを購入。アンパンマン推しになると、アンパンマンのおもちゃを購入。
あれ、私はおもちゃなんて買ってもらった記憶ないな。ほとんど親戚のお下がりだったんだよな。
じーじの目じりが下がる姿を見たら、孫のすごさを実感した。
3人暮らしをしてから、じーじが思っていた性格と違う事に気づいてしまった。夕飯でカレーのリクエストが多かったので、「カレー好きなんだね」と聞いてみる。なぜか数十秒沈黙が続き、「まぁ、嫌いじゃない」と答えが。
「・・・え?」
私は、好きか否かで聞いたのであって、そんなMBTI診断の選択項目みたいな答えを求めたのではない。
本人曰く「好きって一言で言うのは、味気ないだろ」
あちゃ~、昭和の頑固おじいさんにしっかり進化していた。
娘は1歳10か月に入ると、言葉の吸収力が、えげつなかった。
ある日、夕方に保育園から帰宅し、車を家の前に駐車した。じーじの車がないので、温泉かパークゴルフからまだ帰っていないようだった。
すると、後ろから「じーじ、いないねぇ」と声が。
「え?」単語じゃない!会話をしたぞ!
さらに、私がトイレを済ませて出て来ると
「トイレ、いってちゃ?」(トイレ行ってた?)と問いかけて来た。
「そ、そうだよ!トイレだよ」
「ええ、ほんちょに?」(ええ、本当に?)と笑顔で首をかしげている。
・・・爆裂に可愛い!!
「可愛いだけじゃダメですか♫」なんて、アイドルの歌詞にあったけど。
人生の辛酸をなめて来たおばさんは、真顔で「ダメだろ」と言いたくなる。
でも、娘の前では、その理屈が全部吹き飛んでしまう。
スーパーやドラッグストアでは、マダムたちに「めんこいねぇ」と声を掛けられ、ご当地アイドルのよう。
小さな手で「バイバイ」と手を振ると、「あらぁ♡」マダムたちの笑顔が眩しい。
今では、もうすぐ2歳。3人暮らしも同じく2年が過ぎる。
じーじは夕飯がカレーの日だけではなく、「卵チャーハン」「豚の生姜焼き」「ジンギスカン」の日も明らかに機嫌が良い。
なんと今では、食後に「美味しかった!」と素直に声にするほど、アップデートされている。
娘も、あんなに小さくむにゃむにゃしていたのに、やんちゃに成長した。
お風呂上りは戦争だ。ボディークリームを塗ろうとすると「イヤー、キャー」と逃げ回る。必死に追いかけてオムツを履かせ、パジャマを着せ、時には私の両足でホールドしてドライヤーをかける。
続く歯磨きも、攻防戦。あの手この手で膝の上に寝かせ、シャカシャカと最速で終わらせる。じーじは「ははは、風呂上りの方が元気だな」と呑気に笑いながら、自分の歯を磨いている。
就寝時には2つの布団を敷き、左側に娘、右側に私が寝る。
少しすると、娘がこちらにやって来て、1つの枕に2人で並ぶ。目を閉じていても、ミルクと子犬を合わせた香りが隣から漂ってくる。
目を開けると笑顔でこちらを見ていたので、私も笑顔になってしまう。前を向いたのを確認し、また目を閉じる。
音がして、目を開くと、また笑顔でこちらを見ている。
「ふふふ、幸せだね」
先日の運動会は、土曜日に開催されたので、つぎの月曜日は振替休日だった。休み明け、火曜日の朝。いつものようにチャイルドシートに娘を乗せた。「ちぶんで!(自分で)」と言って、小さくプニプニした手でシートを止めようとする。手伝っていない風に手を添えて、一緒に止める。
「うまーい!自分で出来たね」「でちたぁ♡(できた)」
私が運転席に乗ると「あんぱんまん!」とリクエストが入ったので『アンパンマンのマーチ』をかけた。腕を上下にふりふりしながら、にこにこ笑っている。
「おはようございます!」保育園の玄関に入ると、先生、主任先生、園長先生が、出て来てくれた。
「運動会はありがとうございました!楽しめましたか?」と園長先生が言う。なんて律儀な保育園だろうか。
「はい、ゲッパだったんです!」
園長先生は素敵な笑顔で「いやいや、順番より、楽しめて良かったです」。
先生たちはにこにこ娘を見ていた。
「はい。ありがとうございました」
車にもどると、まだ『アンパンマンのマーチ』が流れていた。
ふと、ハンドルを握る自分の手を見て驚いた。想像以上にシワシワで、シミがうっすら見えていた。
私はその歌を口ずさみながら、保育園をあとにした。
