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鈴木敏文会長に通訳の洗礼を受けて近所のセブン-イレブンで再会するまで

朝、スマホをいじっていると速報が入った。
「鈴木敏文セブン&アイ元会長死去」
とうとうこの日が来た。

私は30余年前に鈴木会長のアシスタントで通訳だった。

大学を卒業したばかりの23歳の頃だった。

セブン-イレブンの生みの親のサウスランド社が倒産し、1991年にイトーヨーカードーグループが買収して再建に乗り出した。年に4回のアメリカ出張が予定されていた。
セブン-イレブンの海外展開が急速に発達し、会長アシスタントとして常駐の通訳を置いたのだった。

4月のダラス出張で通訳のデビューを果たした。

「どうして生鮮を扱っているんだ!」
店舗廻りの最中に会長の声が轟いた。
震えそうな声で訳した。
こうして私は通訳の洗礼を受けた。


それまでに通訳経験はなかった。

大学時代は、英語補助講師のアルバイトをしていた。
毎週、ヘッドフォンとマイクを付けて英語学校の教壇に立った。通訳学校で有名な英語学校だった。
通訳学校の1年コースに入って、半年で辞めていた。

自分が授業を受け持つとなると、教材の隅々まで単語を調べ、説明できるように準備する。

最上級の英語専修クラスに、印象に残る受講生がいた。
彼女のクラス分け面接も担当した。私同様にドイツ語話者だった。

就職活動中、スーツ姿でアークヒルズを歩いているとバッタリその彼女に会って、言われた。 

「探してたんです。セブン-イレブンの会長の秘書で通訳になりませんか」

それが全ての始まりだった。


入社してからは、鈴木会長の考えを吸収し、英語で説明するため、セブン-イレブンの歴史や鈴木氏に関する本、ビジネススクールのセブン-イレブンに関するケースを読み込んだ。
自主的に、ではない。

「単品管理」
「ドミナント戦略」
「POSシステム」
「チームマーチャンダイジング」

流通用語の英日と共に独日対訳を作った。

日本経済に勢いがあった1990年代後半だった。
欧米各社が鈴木会長の元を訪れていた。

破産したアメリカのセブン-イレブンは、新規店舗を展開した。


鈴木会長の「変化への対応」「仮説検証」「お客様の立場に立って」はどこにいても指針となった。

あたり前のことをこうすればできるはず、
この人に持ちかければ、手を組んで仕事ができるはず。
そんな思想はセブン-イレブンで身についた。

いつの日か「あの子は昔僕のところにいたんだよ」と言われる人物になりたいと思っていた。

鈴木会長とまたお話しする機会があれば、と思っていた。


海外生活から戻り、久しぶりに吉祥寺に住むことになった。

コロナ禍での自宅勤務。

マスクをして、家の近くのセブン-イレブンに行った。
品揃え豊富な、最新機材が導入される直営店だ。外国人のシフトマネージャーもいる。

店の奥で、ブレザーを着た男性が腰を曲げて、チルドコーナーの商品をカゴに入れている。
店長が買い物カゴを下げて、後ろに立っている。

店舗指導をするFCさんが廃棄処分商品の確認をしているのかな。妙だな、と近くに寄った。

チルドコーナーを覗いていた人が、顔を上げた。


「あ、会長」

実に久しぶりの鈴木会長との再会だった。

それも近所のセブンイレブンで。

マスクをずらして、「お久しぶりです」と名前を名乗った。

「良くわかったなあ」と驚いていた。
「今、君、何しているんだ」と聞かれた。

私は16年間勤めた外務省を辞めたばかりで、米系経済団体に勤務していた。

それをきっかけに、鈴木会長のニューオータニのオフィスを訪れた。

若かりし頃の愚行をお詫びして、社会人としての基礎を作ってもらったお礼を述べた。

「君は幾つになった」と聞かれた。
51歳だった。
うちの70半ばの両親の年齢を聞き「まだまだ若いな」と笑った。
会長は米寿に近かった。

「僕は自分の歳を感じたことがなかったの。こないだ自転車で転んで骨折するまで。そこで初めて。」

毎朝出勤して、プールで泳いでいる、
リモートワークなんて想像できない、と私がその利点を力説するのを首を振って否定していた。

取り止めのない話をして、再度お礼とお詫びを述べた。

それがお会いした最後となった。

鈴木会長の永眠と共に、浅はかな自分の若さと、元気だった日本が葬られた気がした。

鈴木会長、本当にありがとうございました。
色々ご迷惑をおかけしました。
ご冥福を心よりお祈りします。

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