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39歳、40歳のベートヴェン、テレーゼ・マルファッティに求婚💗する予定であったが…

 込み入っているので、まずはイグナス・フォン・グライヒェンシュタイン男爵との関係から入ってみようと思う。

イグナス・フォン・グライヒェンシュタイン男爵

イグナス・フォン・グライヒェンシュタイン男爵(Baron Ignaz von Gleichenstein、1778年5月24日 - 1828年8月3日)は、ドイツの貴族でアマチュアのチェロ奏者。彼はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの親しい友人であると同時に、彼の最も熱心な支持者の一人でもあった。グライヒェンシュタインはマリー・エルディディ伯爵夫人と並んで、オーストリアの高貴な貴族からベートーヴェンに終身年金を保障する役割を果たした。

人生とベートーヴェンとの関わり
イグナーツは1794年から1798年までフライブルク大学で法律を学び、1800年8月にウィーンに定住した。1801年11月、帝国宮廷戦争評議会(Hofkriegsrat)で計画者兼顧問(直訳は「コンシピスト」)の職を得た。
同僚にはベートーヴェンの友人シュテファン・フォン・ブロイニングらがいた。
1807年、イグナーツはベートーヴェンと出会い、ベートーヴェンが親しみを込めて呼ぶ数少ない友人の一人となった。

1805年にウィーンを去ったフェルディナント・リースの後を継いで筆写者となったグライヒェンシュタインは、1807年4月20日、ムツィオ・クレメンティとの出版契約書にベートーヴェンの署名の隣に自身の証人署名を記した。

クレメンティは200ポンドで、イギリス領土全域におけるベートーヴェンの作品の独占権を取得し、ラズモフスキー四重奏曲3曲作品59、交響曲第4番作品60、序曲『コリオラン』作品62、ヴァイオリン協奏曲作品61とそのピアノ協奏曲への編曲、そしてピアノ協奏曲第4番作品58を手に入れた。

2年後、グライヒェンシュタインは、ヴェストファーレン王ジェロームからカッセルの楽長に就任するという申し出を受けたベートーヴェンをオーストリア領に留まらせようと、帝国貴族を説得し、終身年金の支給を促した

彼はウィーンのパトロンたちから永久年金を獲得する計画に奔走していた。この構想と契約の骨子はベートーヴェン自身が発案し、グライヒェンシュタイン男爵とエルディディ伯爵夫人によって推進された。その要点は、ウィーンに留まる代わりに、ベートーヴェンが自分の思うように演奏活動を行うだけで、毎年一定額の年金を受け取るという内容だった。彼が希望していた金額は、カッセルで提示された金額とほぼ同額だった。(前回のAIによる試算は少々違っていたのかもしれないが、たぶん一年で貰える金額と、永久にもらえる…とを換算した結果と思う。)

交渉の結果、ベートーベンはロブコヴィッツ、キンスキー両公、そしてルドルフ大公と契約を結び(彼らはベートーベンに生涯にわたる定期的な給与を支払うことを約束した)、1827年に亡くなるまでウィーンに留まることになった。グライヒェンシュタインは、この契約においてベートーベンの保証人となった。

ベートーヴェンとグライヒェンシュタインの間に築かれた親密な関係の証として、1808年に完成したチェロとピアノのためのソナタ イ長調 作品69がイグナーツに献呈されている。

大好きなチェロソナタ3番の登場!


結婚
グライヒェンシュタインを通じて、ベートーヴェンはテレーゼ・マルファッティと親交を深めた。
1809年、マルファッティ家の邸宅を定期的に訪れていた男爵は、1811年5月28日にテレーゼの妹アンナ・マルファッティ(1792-1869)と結婚した。

新婚の夫婦は同年夏、フライブルクとオーバーロートヴァイルに移り住み、フォン・グライヒェンシュタイン家のワイナリーの経営を引き継ぎ、監督した。二人はウィーンに頻繁に戻った。

1827年初頭、イグナーツ・フォン・グライヒェンシュタインは再びウィーンを訪れ、病床にあるベートーヴェンを見舞った。後にベートーヴェンの長年の医師ヨハン・マルファッティに助言を求めた。

グライヒェンシュタインは、1815年にヨーゼフ・ヴィリブロルド・メーラーが描いたベートーヴェンの二番目の肖像画の複製を所蔵していました。

1819年から1823年にかけて、彼は政治活動に積極的に参加し、バーデン大公国議会第二院議員を務めました。

1828年8月3日、イグナーツ・フォン・グライヒェンシュタインはウィーン北部のハイリゲンシュタット村で、ベートーヴェンの主治医ヨハン・マルファッティの看病を受けながら亡くなりました。

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ベートヴェンが《月光》を献呈したジュリエッタ・グイッチャルディ

ジュリエッタ・グイッチャルディ

そのジュリエッタ・グイッチャルディと同様に、テレゼ・マルファッティもベートーヴェンの生徒であった。
そして、ジュリエッタの場合と同様、ベートーヴェンは彼女に恋心を抱き、結婚を申し込もうと決意した。ベートヴェンはそのために誕生日を調べさせたり、ボンの役所から洗礼証明をとりよせたり、と明らかに結婚を意識した行動となっていた。

しかし、その計画は、ある出来事のために頓挫してしまうのだ。

1810年春、ベートーヴェンは、テレーゼの父がカーンター通りにあるマルファッティ邸で開いた社交会に招待され、それは、家族の友人や商取引関係者などを招いた会合であったのだが‥‥

ベートーヴェンは、テレーゼのために短いピアノ曲(「バガテル」)を既に作曲してあり、その場で客の前でこの曲を演奏し、テレゼに結婚を申し込む予定であったのだ。

グライヒェンシュタインのフライブルクの自宅に宛てた手紙によると、マルファッティ氏は会合で非常に強いパンチ(アルコール飲料)を用意し、ベートーヴェンはそれを大量に飲んだとのこと。

彼はあまりに酔っ払ってしまい、曲を演奏することも、誰かに結婚を申し込むこともできなくなってしまい、テレーゼは、仕方なく彼に楽譜の表紙に自分の名前を書かせたのだった。

ベートーヴェンは、ほとんど読めない字で「テレーゼに」と書いた。

一世一代の決断と行動の時に、なんという…。。。

テレーゼが亡くなった後、この楽譜の原稿が遺品の中から見つかり、音楽出版社に持ち込まれた際、楽譜の文字がベートーヴェンの筆跡だとすぐに判別され、死後出版されることになったのである。

出版社は「バガテル」というタイトルで出版したが、表題の「テレーゼに」を誤読し、「エリーゼに」と表記され、この曲は、おそらくベートーヴェンが作曲した中で最も有名なピアノ曲となり、誰でも演奏できるようなシンプルな曲調のため、現在に至るまで「エリーゼのために」という曲名知られている。

テレーゼ・マルファッティ

1816年、テレーゼはハンガリーの伯爵、ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・ドロシディックと結婚し、1851年にテレーゼは他界した。