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フランツ・シューベルト 生まれる前からのこと

 フランツ・シューベルトの祖父そして父は、モラヴィアの人であった。
《モラヴィア》といえば、歌が大好きな人々であり、「その話す言葉も音楽のようだ‥‥」とヤナーチェクが言っていたそうだ。
ヤナーチェクは、その話ことばを音符に採っていたそうである。

私の知っているモラヴィア人とは、アルフレート・ブレンデル、ヤナーチェク、そしてシューベルトの父親とおじいさん…しかいないので、音楽のように話すのかどうか確かめたことはない。でも、歌うように話せたとしたら、素敵であるろうと思う。

 1797年1月31日、ウィーンの北郊ヒンメルプフォルトグルントの学校教師フランツ・テオドール・シューベルトを父として、この地に生まれた。
(現在のウィーン19区ヌスドルフ通り54番地)

フランツ・シューベルト 前田昭雄 著 春秋社
 シューベルトの曽祖父にあたるヨハン・シューベルトは、18世紀初めころ南モラヴィア地方に住みついて、農業と牧畜を営んでいた。祖父カールの代になると、周辺の信頼も集まり、地区の裁判官に選ばれた。カールは自分たちの息子たちを文化的な職業である教師にさせたいと願った。そして二人の息子、カールとフランツ・テオドールとが帝国の首都ウィーンに出てこの郊外で教鞭をとることになる。
カールはレオポルトシュタットで、そのカールをたよってウィーンに出てきたフランツ・テオドールはヒンメルプフォルトグルントで。公社が後の大作曲家、フランツ・ペーター・シューベルトの父に当たる

さて、そのフランツ・テオドール・シューベルトは自分の学校を持つ一年前の1785年、マリー・エリザベート・フィーツと結婚した。シューベルト15歳の年に世を去ったこの生母は、シュレジア地方のツックマンテルの錠前師の娘で、夫より6つ年上だった。…成人した兄妹はイオグナツ、フェルディナント、カールの三人の兄と、妹のマリア・テレージア、それにフランツ・ペーター・シューベルトの5人であった。イグ夏は父の跡を継ぎ、フェルディナントは音楽教師となり、作曲もした。カールは風景画家になる。これらの兄のなかでは二男とフェルディナントが一番シューベルトと親しい関係にあった。この兄は弟をよく理解し、弟の死後はその作品を世に広めるために力をつくした。

生母の出身地であるシュレジア地方とは、ポーランド南西部にあるそうだ。
この歌の大好きであった母親は、きっと故郷の歌を歌っていたであろう。そこから、シューベルトは生まれ、私は、その影響をショパンにも与えたと思っている。(後日解説)

シューベルトは他の子どもたちと一緒に読み書きや算数などの一般科目を父から教わることになる。音楽教育はこの教区では、教会オルガニストを勤めるミヒャエル・ホルツァーの仕事になっていたが、父のフランツも子どもに音楽の基礎を教える資格は充分にあったし、特にヴァイオリンはかなりよく奏いていたらしい。幼いシューベルトは音楽の最初の手ほどきを父から受けるが、それは厳密なレッスンではなく、家族みんなで一緒に音楽をする習慣のうちに自然にこの芸術に親しませていったというのが正しいようだ。父は子どもたちにヴァイオリンを奏かせて自分はチェロにまわったという。
フランツ少年の持ち場は第二ヴァイオリンないしヴィオラであった。

幼いころからヴィオラを弾いていたことも、ベートーヴェンと共通で、シューベルトはますます親近感をもって憧れていたのではないだろうか?
みじかな【音楽家としてのモデル】でもあったのだろうと思う。

こういう家庭アンサンブルで7歳ごろのシューベルトはすでに並外れた才能を現していった。ミヒャエル・ホルツァーの元でヴィオラとヴァイオリンを習い、教会合唱団で歌い、兄に手ほどきを受けたピアノの勉強も続ける。勉強の成果は教会の公開演奏会で発表もされた。ヴァイオリンやヴィオラで独奏をしたり、オルガンを受け持ったり、11歳の時には独唱で登場もしている。‥‥ホルツァーは幼いシューベルトが「小さな指の中に和声学をもっていた」といっている。どういう和声をどういう風に使うか、幼い天才は教えられなくとも、即興的に正しく奏き分けることができたのだろう。


シューベルトがヴィオラを弾いている姿のイメージ像
絵はヴァイオリンのような気もするが…(AI君による絵)