ショパン ☆21歳 ウィーンからパリへ
ウィーンからドナウ川に沿ってリンツ、ミュンヘン、シュトゥットガルトを通り、パリへ到着する。約1200Kmである。
旅のお伴は、友人のJerzy Stanisław Kmieciński (クメルスキ―)
この間、ミュンヘンでは演奏会も開くことができた。その批評が新聞に載ったそうである。(この批評は的を射ているとピアニスト・コルトーも称賛している。)
ショパン氏は自作のホ短調協奏曲を演奏し、見事な名手であることを証明した。極度に発達したテクニックもさることながら、特に人々が感服したのは、演奏の魅惑的な繊細さと、それから彼の作品は主なモティーフの、はなはだ流ちょうな展開とである。作品自体に関していえば、全体としては、流麗かつ正確に書かれており、ロンドを除くと新しさとか、類いのない深さというものは別に意図していない。・・・・・
ミュンヘンを後にして向かったシュトゥットガルトでは、ワルシャワの陥落の知らせがあった。彼は長く暗い手記をしたため、ひたすらとパリへと向かったのだった。
パリに到着した。
ショパンは医師のマルファッティの誕生日に招かれていたので、知り合いがすでにパリに居たのだった。
このマルファッティの従兄妹の夫人がテレーゼ!!

ベートーヴェンが恋焦がれ、【ピアノソナタ24番】が、彼女のために書かれている、テレーゼ。
テレーゼ・マルファッティ - Wikipedia
医師のマルファッティ ↓ 情報の少ない中、こちらが詳しい。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1809年に初めてマルファッティと知り合い、その後数年にわたって何度か彼の診察を受けた。1811年、マルファッティはベートーヴェンにテプリッツで療養するよう勧めた。…
1817年、ベートーヴェンがしばしば他人を信用しなかったため、二人の関係は破綻した。ベートーヴェンは10年後、最後の闘病中に初めてマルファッティに相談したが、マルファッティはベートーヴェンの希望通りの療養を得られなかった。
ウィーン会議の間、彼は名声を博し、モデナのカール大公とマリア・ベアトリーチェ・デステ大公妃の専属医師となった。
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ベートーヴェンとここでつながるとは、驚きである。
ベートーヴェンとショパンは、感覚的にどうも離れた時代のような気がするからだ。
でも、本当は、すぐ隣の時代なのである。
医師マルファッティは1859年まで生きていたのである。(84歳)
つまり、ショパンの方が10年早く1849年に没していることになる。(39歳)
以下は、パリで初めて住んだ場所がポワソニエール大通り27番地の5階(日本での6階)


5階ではご婦人たちがピアノのレッスンに来るのに大変であろうと、近くの今はホテルになっている場所の2階に移り住むことになる。どちらもオペラ座までは歩いていける距離と思う。


当時のパリでサロンに出入りしていた芸術家は、現在までもその名をよく知られている人が多い。
バルザック、ユーゴ―、メリメ、サンド、デュマ、シャトーブリアン、ハイネ、ドラクロア、コロー、リスト、ベルリオーズ、ロッシーニ、ケルビーニなどだった。
ショパンは医師マルファッティの紹介状をもって宮廷作曲家でもあったフェルナンド・パエールを訪ね、彼はさっそくこの若者をいろいろな人物に紹介したのである。
カルクブレンナーと言う音楽家が、ショパンにピアノ制作者であるプレイエルを紹介してくれた。
1831年 プレイエルの父と息子


ジョセフ・エティエンヌ・カミーユ・プレイエル(1788年12月18日 - 1855年5月4日)は、フランスの名ピアニスト、出版者、そしてプレイエル社(Pleyel et Cie)の経営者でした。また、コンサートホール「サル・プレイエル」を経営し、フレデリック・ショパンはここでパリにおける最初の演奏会と最後の演奏会を行いました。
イグナース・ジョセフ・プレイエルの末息子としてヤン・デュセックに師事しました。1815年に父の共同経営者となり、1831年の父の死後、会社の経営者となりました。彼のサロンには、当時のフランスで最も才能豊かな演奏家たちが集まりました。プレイエルはフレデリック・ショパンにピアノを提供しました。
プレイエルの妻、マリー=フェリシテ=ドニーズ(旧姓モケ、1811年 - 1875年)もまた、優れたピアニストで、フリードリヒ・カルクブレンナーに師事しました。結婚前、マリーの母はエクトル・ベルリオーズとの婚約を破棄しました。ベルリオーズはこれをきっかけに、盗んだ二連拳銃2丁を使ってマリー、その母、そしてカミーユを殺害しようと綿密な計画を立てましたが、結局計画は実行されませんでした。 ショパンのノクターン作品9(1833年)は「カミーユ・プレイエル夫人」に捧げられています。カミーユとマリーは結婚4年後、マリーの「度重なる不貞」を理由に別れましたが、マリーは1848年にブリュッセル音楽院のピアノ教授になりました。
プレイエルは1855年に亡くなり、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。12区のプレイエル通りは彼にちなんで名付けられました。
NobuyukiTsujii / Chopin: Nocturne Op.9 No.2 May 16th, 2022
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このあたりで、リストの登場となる。次回へ…
