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自分史

出生

 1984年5月15日、在日二世の父と、巷のヤンキー&美容師の母(静岡出身)との間に生を授かる。京都生まれ京都育ち、大学生から横浜で過ごす。
 とはいえ伝統ある家柄でもないため、京都特有の文化は持ち合わせていない。小学生になるまでキムチは日本の漬物だと思っていた。
自分が韓国籍だと知るのは、確か10歳頃。12歳(だった気がする)になると、国籍を選んで役所に提出する義務があって、通知が届いて知った気がする。父か母の本籍を選ぶのだが、日本籍である母を選んだ場合は、苗字が母の姓になるので、「名前変わるの面倒だな」という理由で、韓国籍を選んだ。在日が韓国籍を選んだ際には、特別永住者たる資格と証書(カード)もらうのだが、「無くすと韓国へ強制送還されるからね?」と脅され、「知り合いおらん国に飛ばされるのか怖い」と、しばらくドキドキしながら過ごしていた。長男の初孫息子、ということで祖父母には親族の中でも特別に可愛がられたと思う。父は異常なくらい怖かったが、恵まれて育ったんだろう。

幼稚園児の生活(1987年〜)

 西京極幼稚園に通う。担任が巨乳だった記憶。この頃から周りよりも体が一回り大きく、背の順で並んでもいつも一番後ろ。回れ右、をした時だけ前になる。整列で真ん中に並んだ記憶はほとんどない。体が大きいので、ちょっとぶつかっただけで同級生にはすぐ泣かれ、先生によく怒られていた。「体が大きいから気を付けなきゃダメでしょっ」とよく言われていたが、「そんなもん、どないすんねん」と、やりようのなさと怒られてる恐怖を感じていた。理不尽、ってのはこの時に学んだかもしれない。
 体の大きさと偉そうなことで、同級生はのく集まってくれて、一緒に遊んだ。自分の考えたルールで遊ぶことが日常化していた気がする。とはいえ厨二病全開でヒーローごっこかドッチボールばっかりしてた。負けず嫌いなため、ドッチボールのルールは当然自分が勝つルールでやってた。
 通っていた幼稚園は、期が変わるごとに長期の休園を挟むのだけれど、休み明けの初登園時に自分の名札バッチを探す儀式がある。休暇前にはタメ口レベルで甘えていた先生なのに、休みを挟んで久々に会うと、とても恥ずかしかった。既に自分の名札は見つけてるのに、見つけてないフリしてモジモジしていた。
 人は俺の言うことを聞くのだ、という謎の万能感を持ってこの時代を過ごしていた。

ゲーマーへの目覚め

 物心ついた時から、家にファミコンがあった。不思議形をしたオモチャで、なんとなく触っちゃいけなそうだったんだけど、「なにこれー?」と母に聞くとセットしてくれて、マリオブラザーズをやった気がする。ボタンを押すと動く、っていう操作感が快感で、すぐにどっぷりハマってた。また違うとあるアクションゲームをやってる中、どうにもならんステージに行き当たったのだが、いつもクリアに協力してくれる母が手伝ってくれなかった。「なんでやねんっ」とイライラしながら、でもクリア出来ないからまた母にヘルプを、みたいなこと何十回か往復してると、偶然にクリア出来たことで、ギミックってやつを知った。
ギミックの対処した時には「世界が変わったっ!俺すごいっ」って感覚が溢れ、そのまま益々ゲームにのめり込んでいった。初ギミックを対処した時に言われた、母の「やればできるじゃん」って言葉がとても嬉しかったし、世の中何とかなる感覚も貰えた気がする。しかしあまりにもハマり過ぎた自分は、母からゲームやる時間の制約を受け、ある時は隠されまでもした。その時は、制約時間内でしかやってないように見えるようにする工夫に全力の知恵絞っていたと思う。
 高校生には、いわゆる徹ゲーってのをやるほどに育ち、年齢を経るに連れアクションよりもRPGにハマっていった。いつも最強にしてからラスボスに挑むやり込みプレイで、ラスボスを余裕持ってボコボコにするのが虚しくも爽快だった。割とストーリーを楽しんでもいたので、物語のないRPGは楽しめなかった。FFとDQは我が青春である。
 当時プロゲーマーが存在していたら、迷わず選んでいるだろう。
 ある時から「アルティマニア」という完全攻略本ってのが世にで始めるのやけど、その通りに進めることに一瞬ハマったが、いつからか攻略本を読んで満足し、さらにはゲームを買うことすらなくなった。たぶんストーリーが好きで結末知りたいってのと、やり方が分かっちゃったから飽きてしまっていたんやろうな。
・11/6追記
 自分のパシッ、ときたwant toは「勘所を掴む」だったんやけど、攻略方法分かったから実際にやらなくなった、はそのままな行動だ。確かに、ネットの普及と共に攻略情報も無料で手に入るようになったけど、益々ゲームやらなくなった。コンサルも、顧客の抱える問題を勘所として、そこ見つけるのが楽しい。教育も、要点の振り返りや更新があるから、やりたくてやってる。一つ人生のコマが進んだ気がする。

小学生になって(1992年〜)

 入学当初の学校風景とかは、ほとんど覚えてない。初登校前に、家でランドセル背負わされて母が写真撮ってた記憶はある。小学校へ行くこともわかってなかったし、何のカバンだろうと思っていた。
 自分ルールの遊びで友達ができるという謎の万能感を持ち続けていたため、幼稚園感覚のまま誘ってバカにされたのが衝撃だった。言うことを聞かない奴がいる、という驚きと、社会へのアジャストが出来たのが、この年で良かったな、今思うとラッキーだったな。
 勉強は、幼稚園児から姉の勉強を横で見ていたこともあり、割とできる方で、テストは全部100点が当たり前と思ってた。ただまぁ小学生でも、先生にはよく怒られていた気がする。忘れ物が多くてね。何かのネジは外れてる、ってこの時から思ってます。
 あと小学生4年生の頃に漫画を描くのが流行った。

大人への不信と母(1994年〜)

 3年生になって、学校への嫌悪感を持ち始めた。担任になった先生がやたらと攻撃してきて、嫌な大人がいるな、ってのと、逃げることも出来ない環境で毎日を過ごしていたから。攻撃してくる理由も分からないので、言われてることは全く耳に入ってきてない。とにかくご機嫌を伺って過ごしてた。
 サラッと親に愚痴ったところ、母が担任への怒りを露わにしている様を見て、「人って子供のことでこんなに怒れるんだな」と、素直に嬉しく、妙に吹っ切れた感覚もあった。気にせず学校行くか、と思わせてくれた母には感謝しよう。

体育会系に俺はなる(1995年〜)

 4年生の年にJリーグが開幕した。学校にはサッカークラブに通う同級生が多発し、入ってない奴はハブられるという現象が流行った。
 クラブに通ってる奴をリーダーとしたチームが幾つか出来上がって、チーム間で合戦とかリーグ戦とかやってた。楽しそうだったので入れてもらったんやけど、リーダー同士の思惑が交錯したり、そこに京都人特有の人の悪さが乗っかって、政治的なトレードや悪意のある解散とかも起き始めていた。悪意に巻き込まれた自分は、まんまと爪弾きにされ、どこのチームにも所属しない状況になった。
 仲間に入れないのは居場所がないようで大変辛く、当時を振り返ってもあまりいい思い出ではない。信用できない人間って同級生だとしてもいるんだな、という社会の厳しさを学んだ気がする。周りが同じ話でワイワイしてる中に混じれないという居場所のない感は、結構辛かったけど、今はむしろ1人のが好きでもあるけども、集団生活でのタフさは育った。
 それでもサッカーへの接点を何とか持ちたかっ自分は「俺も通いたい」って母にお願いした。今思うと疑わない自分を疑うけど「xxのサッカークラブは満員やから、枠空くまでラグビーやっときな」という母のユニークスキルによって、ラグビーを始めることになる。「えっー?!ラグビぃ〜??!!」が正直な気持ちで、3Kに加えてダサい、という印象しかなく、それはもうメチャクチャ嫌だった。両親共通の友人がラグビーオタクで、実は以前からちょいちょい誘われていたのだが、何回誘われても全くやる気にはならんかった。しかしサッカーを始められない欲求は、ユニークスキルによっていつの間にか「運動できれば良いや」という考えに書き換わっており、ラグビーの体験会に参加することになった。体験会でメチャクチャ褒められた俺は、単純なので大変に気を良くし、結果的にラグビースクールへ通うことになる。社会人まで続けることになるラグビーは、引退するまでクリティカルな苦難と幸せを得る経験をさせてくれるのだから、「なかなか賢い選択をしたんやで?」と当時の自分には褒めながら伝えてやりたい。ラグビーやっていたから出来た経験はあるし、社会人で役立つ「組織の作り方」は、間違いなくラグビーから学んだ。
 なおラグビーを始める前は、食に大いなる甘えがあり、とんでもなく太っていたが、3Kな環境に身を置いたことでドンドン痩せていく。元々高身長なステータスもあって、小学高学年から第一次モテ期へ突入することになる。目次を上手く割れたら書いていこう。

第一次モテ期

 5年生に両思いの娘が現れ、死ぬほど心震えた気持ちを思い出した。元々片思いやったので、判明した時は、心の中で全開の万歳を参照してたと思う。まぁその娘とは同中へ通い付き合うことになるのやけど、最後は苦い思い出に終わり、その後の恋愛観を拗らせ始めるのやけども。
 通っていた小学校では、高学年になると委員会なる活動が始まる。だいたいの奴は面倒で楽な奴に参加したがるのだが、たぶん祭り事が好きな自分は文化委員会へ参加した。でまぁ幼少期から吉本を見て育った自分は大変な喋りたがりで、ちょっとした笑いをいつでも求めてる。そそてこの頃の自分は、「高身長・筋肉質・面白い」というハイスペック人材を振りかざすことで、委員会では中々に目立ち、後輩から声をかけられることが、ちょいちょい増え始め、ある時には学校の帰り道に写真をせがまれるほどになってた。今の性知識があったなら、もっと違う接し方があったのにな、と悔やみもある。バレンタインの日には、自宅ポストに手紙入りのチョコが入っていたり、遊びの範疇やけども世俗を楽しんでいた。
 両思いの同級生と付き合い始めたのは、確か6年生。初デートとかの「初」がたくさんあったこの出会いは、今思うと、とても良い経験をさせてもらった。

クラスって分割できるんだっ

 5年生の中頃から、ヤンキー気質がモテる現象が起き始めた。ヤンキーではなかったけど見た目スペックがそこそこ高いという理由だけで、なぜかヤンキーグループの奴と仲良くなり、この時から悪い系の括りにされる学校生活を送り始めた。
 天然ヤンキーたちの考えることには「わざわざ怒られることやるコイツらってマジで頭湧いとんな」と思いながらも、そこに属してないと学校ヒエラルキーに参加すら出来ないことや、自分にない発想でヤンチャすることへの興味も沸き始めて、なんだかんだ乗っかって楽しんでいた。足元崩れながらも自分の世界が広がっていく感覚(厨二病)があったんかな。緊急脱出袋が設置されている教室やったんやけど、酢蛸とか駄菓子のゴミ箱にしてる奴がいて、毎日ゴミ捨てるもんやから、どんくらい溜まってんの?と興味本意で蓋開けた時に腐った酢の匂いがした時は腹を抱えて笑った。
 ある日、準ヤンキーというかタダの低脳が担任をボコボコにする、という事件が勃発した。これをきっかけに生徒同士の小競り合いが激増、平時ではなくなった学校生活に対するフェミニストな保護者たちからの凸も増え、クラスが2分割される、という事態になる。別れ方はフェミ思想がふんだんに巻かれ「ヤンキー:ヤンキー以外(真面目系)」に分かれることに。確か10人前後と30人とか。ヤンキーたちが今の教室、真面目系は3Fから1Fに机持って移動、という30人にしたらとても理不尽な状況やったけど、小さい体たちが机持って歩く後ろ姿に滑稽さと切なさを感じ、少し笑っていた自分は悪い奴だと思う。
 どちらに行くかは生徒本人に委ねられいたのだが、興味本位・見栄や背伸びでヤンキークラスを選んだ奴は、途中離脱し真面目系クラスへ移動してた。しかしヤンキーたちからはドギツイ裏切り者扱いをされ、よくある体育館の裏に呼ばれるとか、再放送のTVでしか見たことない光景を初めて観た。
 両親がヤンキー出身だったことで有事への許容量が大きかったのか、学校生活を不安を感じるとかはなく、むしろ楽しんで過ごした。卒業式、担任の白髪の多さに「わりぃことしたな」と少し思った。
 あと身長は順調に伸びていき、卒業時は170cmになっていた。

本格的なラグビー人生の始まり(1998年〜)

 家から徒歩10分くらいのとこにある、西院中学校に入学した。
 2つ上の姉が通っていたこともあって、自分がラグビーやってることを中学のラグビー部顧問が知っており、入学式当日に熱烈なスカウトを受ける。ラグビーは母のユニークスキルがきっかけだったので、中学からはサッカーをやるつもりだったが、あまりにもしつこく誘われるため悩み始める。スクールでラグビーの楽しさも覚え始めていたので、「求められるならいこうかな」と、結局ラグビー部に入った。経験者なため1年生からレギュラーやらせてもらって、試合に出る機会もたくさんあり、技術面は先輩よりも高く、思ったことをやれば認められ、評価されるので、ラグビーというよりもそのコミュニティが楽しい、を起点にラグビーにものめり込んでいったんだろうと思う。、ラグビーとはなんぞや、など全く分かってなかったけど。
 ちなみに当時は今みたいにプロリーグはなく、日本代表も盛り上がってなかったし、Jリーグの煽りもあって、部活員は少なかったのだが、スクールウォーズ上がりの顧問が、ヤンチャな人をスカウトして1チーム分超のメンバーが集まり、最低限の練習はできる環境にはあった。
 2年生の冬には、地域選抜のオーディションを受けることになった。そこそこ優秀だったため、合宿や試合の時に他学校の顧問から声かけられていたりしていたので、きっと候補になるだろうな、という予感は持っていた。
 オーディション前には候補者を集めた練習があって、有望株から順番に10チームくらい編成され、自分は一番目のチームにいた。普通にやってれば合格する位置におる、ということ。しかしオーディションの2ヶ月ほど前に背骨を骨折し、オーディション本番では全く成果を出せず、一番目のチームの中で唯一落選する人になった。そして同じ中学からもう1人一緒に受けた奴は受かって。周りには平静を装っていたが、とても辛く、部活に出るのもイヤになっていた。3年生になるとキャプテンを任命されたが、選抜に落ちたこともあって、とにかく部活に行きたくなかった。文化祭やとか委員会とか、他の用事を作ってなるべく部活に出なくて済む用事を作っていた。何やっても上手くいかない気しかしてなかった。顧問や親に相談しても「踏ん張れ」としか言われなかったので、ごまかしながら一年を過ごした。先輩OBが教えに来てくれる日には、キャプテンをやらなくて良い気がして、とても気が楽になり、純粋にラグビーをやれてた気がする。今振り返ると3年生は「ものもらい」に月一回くらいなってた。腹もよく壊してたし。月に何回か眼科医よってから登校するのが多くなってた。「高校受験よ早くこい」って待ち望んでいたし、合格発表後は「中学生活から抜け出せる」って感覚だった。
 ラグビーでスカウトに来てくれる高校あったけど、そんなとこ行ってやってける自信なんて全然なかったので、普通に受験して進学することにした。当時の一年間は辛かった。

中学時代の学業と

 全くと言っていいほど学業には興味出なかったのだが、塾に通わせてもらっていたので、ある程度の成績を取っていた。覚えることに改めて時間を取らなくても良い数学が一番好きだった。体育の筆記テストは、当然塾で勉強していないため壊滅的な点数だった。
 興味ない中でも順調に高校受験を通過し、親を安心させられたのは良かったな、と思う。
 高校受験の合格発表前、同い年で同じ高校を受験した従兄弟から、高校生活への希望を語られる電話がきて、1時間くらい付き合った。「受験結果への不安があることに俺を使うなよ」とか思ってたけど、良き外ヅラ使って過ごした記憶がある。
 小学生に両思いが発覚し中学から付き合っていた彼女とは、確か2→3年生になる頃に別れた。日毎に付き合ってることへの鬱陶しさが出てきたのと、「別れる」ってことに興味が出始めて、別れを切り出した。「ぽかーん」とされた顔が記憶に残ってる。何も考えず別れを告げたのが4/1で「エイプリルフールとか言わんといてなっ?!」って切り返しには思わず笑いそうになった。
 その後、陰口を言われたり、廊下ですれ違う時にボソッとディスられたりしたのだが、「女って、こぇーね」と、見方がすごい変わった。この辺から「彼女」の考え方も変わったと思う。そもそも付き合ってる時に他の女性と初体験を済ませていたことに罪悪感あったので、弁明するとかも出来ないし、誰にも何も言えなかったんやけども。あと付き合ってる期間に彼女の親友から告られて、「黙っといてね」って言われたけど、「そらそうやろ」ってやり取り思い出して、「女って最低やな」ってのを助長させてた。

今の基盤が出来た時代(2001年〜)

 嵯峨野高等学校に通う。公立ながら進学校に類し、普通科と進学科が用意され、担当する教師も分かれてる徹底ぶりな学校だった(今はどうなんやろ)。諸事情で、稀に進学科の教師が普通科へ教えに来ることがあったんやけど「(普通科)にいる君たちでも、こんな(鋭い)質問できるんやな、驚いた」と言いだした時は、思わず教団を見上げて、「大人も色々おるな、コイツはクズか」って思った。まぁ全体的には良き友人に恵まれて、そこそこ充実した高校ライフやと思う。

高校でも怪我と過ごすラグビー

 部活は当然のようにラグビー部に入り、高校生でも1年からレギュラーやってた。中学自分に嵯峨野高校へ行ってた先輩が、「監督がメッチャ優秀や。伸びるでっ」という誘い文句が進学先にした理由の一つやけど、入学直前に監督が代わり、代わった監督は超絶ポンコツやった。やりたいポジジョンではなかったので、基本的に不服もあったし、部活はつまらなくなってた。言うこと聞いて強くなれるなら良かったのやけど、ポンコツにそんな育成はできる筈もなく、ラグビー生活で学んだ「先輩の言うこと絶対マインド」、いわゆる体育会系的なノリは、自分の中で崩れ始めていた。楽しい試合には出れていたので、納得させて、まぁまぁ満足もしてた。
 そんなイマイチなラグビー生活は、ある程度の成果と自信を積み重ねていったのやけど、2年目、左膝十字靭帯を損傷し、長期離脱することとなって、かなり落ち込む生活を送ることになった。
 中学時代と同じく、地域選抜オーディション前の怪我で、この時は受けることもなく断念することになった。選抜を担当している他高校の顧問や選手から声をかけられていたので、今回も呼ばれる予感を持っていたし、中学より大きな自信もあった中での怪我だった。またか、ってのが率直な気持ちやった。
 ある日、部活の優秀者が表彰される校内のイベントが開かれた。対象者は壇上に上がって行くのだが、地域選抜に選ばれたサッカー部の友人を眺め、俺もあそこにいたのにな、とすごくネガティブな気持ちになっていた。羨ましい。手術のため入院した先の看護師さんを口説いて性で鬱憤晴らしたり、その経験を同級生へ自慢げに話すことで気を紛らわしていた。紛らわしていただけなので、ずっと虚しかった。性欲大爆発みたいな感じでもなかったので、その体験談話したら皆んなからもらえるだろう反応を予測して眺めてただけなので、楽しくはなかった。結果を出せそうな時に出せない、ってのが引っかかった。
 割り切って勉強に振り切っても良かったんやろうけど、ラグビーでやっていけるのかってのを確かめきれてないのが、すごい気持ち悪い。そんな気持ちに白黒付けるため、大学日本一のチームへ入ることに決めた。
 でも今振り返ると、ラグビー諦めるための理由が欲しかったんだろうと思う。そんな動機やったので、理工学系への入学を選択するから学費もとんでとなかったけど。二つ返事でオッケーしてくれた両親には、今だからこそ感謝が素直にある。でも実際は奨学金で返済してるから、半々だよね?とも思ってる。

面倒くさい「彼女」

 1年生の頃は、クラスの友達に紹介してもらって彼女が出来てた。紹介いただいたその子、どうやら中学ではアイドル的存在やったらしく、彼女になった途端、周りから問合せが殺到した。振り返ると、この時既に拗らせを発動しかけていた気がする。彼女とはまぁまぁ順調にやっていたが、付き合って1ヶ月ほど経った頃、彼女の親友に告られ、中学時と同じような言い訳をされた。「xxは大事だけど、伝えないと自分に嘘ついてるみたいでっ!オカジには知ってて欲しかったの!xxには黙っててねっ!!」とか言ってくる訳だが、言われた俺の気持ちは?に全く気遣いをしてないことに無自覚な奴の言い訳とか聞きたくない訳で、彼女への熱もジャックナイフ的に冷めていった。最後に一発ムリやりやって別れようかと思ったけど、面倒ごとは面倒なので、別れることにした。
 別れてから次の登校日、アイドル時代を知ってる奴らからの問合せが殺到したが、面倒なので適当にあしらった結果、「オカジ最低」の称号をめでたく頂戴することになり、紹介の次のアテは当然校内では見つけにくくなって、ちょっと失敗したな、と少しだけ反省した。大事にすべき存在として彼女つくる必要ないな、ってのと、身近にバレると面倒多いな、ってので、校外で1人しっぽり楽しむことにした。


「学び方」を教えてくれた恩師

 入学当初の学力テストでは、学年でもそこそこ番目の結果やったらしく、それを聞いた母から「やるやんか。しっかやっていけよ」と言われたが、もとより興味がなく塾の力で維持してたので、高校では塾行かなくなったことで当然のように落下していった。しかし危機感もなく、良き師にも恵まれた数学と物理とか、楽しめる科目も出てきて、自分なりには前向きに取り組んでた。他の科目が壊滅的なため母と父には超絶お灸据えられたけど、何ともやる気が出ないため、改善する気は起きない。スマン、とは思ってた。
 そんな中でも、数学担当の担任が「教師としてはアカンけど、気がむくことからやれる範囲でやっていけよ」って言ってくれたのがものすごく楽にしてくれた。授業では話を聞いてるだけだと興味が維持できないので、自分なりのやり方やったけど、そのやり方を承認してくれたり、分からんところは時間使って教えてくれた。内容を理解しても答えをなぜか間違う自分は、補修を受けることも多かったが、「やり方わかってんのに、何で点取れへんのや?特別やぞ?!」と毎回通してくれてた。自分なりの学習方法は、この時に学ばせてもらった気がする。
 今表現すると、構造を理解するのが得意だ、ってのが当時に持てた感覚と自信。教師への質問が本質を得ていたのか、それを観ている同クラの何人からに良く数学について質問されるようになり、分からないところを絵や文字に起こして教えてあげることがよくあった。物事を構造化する力や楽しさは、当時の友人から学ばせてもらった気がする。でも自分のテストの点は変わらなかったなwww。気にかけてくれた数学教師が、練習問題を解いてる自分にフォーカスしてくれたけど、「なんでこんなところで間違うんや?直し方が俺にも分からんわw」と言われた。不思議とショックはなく、得意なところが分かった気がして爽快感があったな。人に教える時は授業無視して教え方考えるけど、自分が解くってなったら極限に興味なくなるな、って自覚した。そんな自分は結構好きだ。

ラグビー人生にケリを付ける時代(2003年〜)

 横浜にある関東学院大学に入学した。ラグビー部としては当時、確か自分が中学生後半くらいから強くなってきた学校で、急速に成長して日本一に辿り着いた新興の部活。怠惰な学業生活だった自分でも無試験で入学も出来るし、ってので選んだ。一番は、中学~高校時代の怪我や気持ちを置いていきたいってのもあって、地元から出たい、ってのもあった。置いていきたい、と言いながらも「どこまで出来るんやろ。ケガばっかの自分には無理なんやろかな」を諦めるための理由を探し行くってので、囚われまくってるのやけど。前向きになれる格好付けた理由を後付けしてたな。
 日本一のチームでは流石に一年目からレギュラーになるほどは甘くなく(というかレギュラーになることはなく)、集まる同期も地域や日本選抜の選手もばかりで面食らった。中学〜高校時代は周りより高い自分のパフォーマンスも、そう思ってただけで、たぶん60%くらいで自分の100%出されてる感じやった。さらに劣っていること認めたくなくて、出来る感だして何とか居場所作ってた気がする。そんなやから部活内で連む友人も出来ず、上っ面の付き合いだけの部活生活になった。ただ調子良い時の怪我、って経験を味わっていた分、鍛えることには素直に向き合えたので、可愛がってくれる先輩が何人か出てきて、ラグビーに時間を費やしていた。
 1年生の中から選抜される、NZ合宿のメンバーには取り敢えず選ばれた。選ばれたのは良かったけど、周りが凄すぎるため、高校一般レベルな自分は当然機能的に全く噛み合わず、いざ合宿先で試合やると、見事なポンコツっぷりを発揮した。後半は直ぐにポジションを変更させられ、試合後には同期みんなから聞こえるように陰口(表口)を叩かれ、とてつもない孤独感を味わった。怪我した時の落ち込み・挫折がなかったら、たぶん心壊れていたと思う。そんな意味で、過去の挫折にはすごい感謝もしていた。歪曲なんやろか。そんな状況に陥っても、これまで深く考えず、そこそこの結果出してきた自分は、不都合を見つけるとか向き合う力はなかったので、いつか結果が出るだろうって考えで、合宿から戻ってきても何となく練習続けて過ごした。早く合宿終わってくれ、としか思ってなかったけど。声をかけてくれるコーチに励まされて、実際には何も進んでないけど、とにかく倒れないように踏ん張ってだけな気がする。倒れたら終わりなような気がして。当時の自分に会ったらコーヒー奢ってやりたい。
 ここまでを振り返っても、周りが分かりやすいとか納得できるような成果が出てないにも関わらず、何かと力貸してくれたり期待してくれる人がちょこちょこ現れて、その時点より少し成長しちゃったり、頑張ったと言われるくらいの中途半端な成果出しちゃったりしてるので、心折れ切らずにやってこれてるんじゃないかと思った。
 2年生になると、部としても新しい取り組みなオーストラリア合宿が立ち上がった。1軍の戦力強化にあたって、1軍候補と2軍選手を鍛えて底上げする狙いだったそうだ。春シーズンの結果を見て選抜される運びで、めでたく選抜された。当時は、3軍〜5軍チームで試合に出ていたので、あまり確度は高くないと思っていたので、素直に嬉しかった。2回目の海外合宿で、ここで頑張れば日本一の大学でレギュラーになれるかも、とかなりやる気が出ていた。普段からヤイヤイ言ってくるプライド高い先輩いたのが、メチャクチャ嫌だったけど。一年目のNZ合宿に比べ、卒なく出来た感はあった。2軍選手が出場する地域の公式戦にも出場できて、手応え感じた一年間だった。ただまぁナチュラルにそれ以上の活躍を見せる選手も出てくる訳で、何が足りなくてダメなのか、さっぱり分からんかった。どうやったら今より活躍できるのか、レギュラーになれるのか、答えを欲しかった。

心折れる3度目の怪我

 そんな感じでボチボチ頑張っていたんだけども、3年目に左足親指を骨折して、入院することになった。ラグビー選手としてのケリを付けるために行った日本一の大学で、なんかいけそうな気がする、って思い始めたところでの怪我だった。ここで完全にラグビーへの心は折れた気がする。
 日本一だけあってホームホスピタルが用意されていて、病院のリハビリチームにはスポーツ科専攻の方もおり、かなりしっかりしたリハビリを受けれた。そんな恵まれた環境で、リハビリ担当の方に「岡島くんは、ラグビー本気でやってるの?」って聞かれて「はい、もちろんっ!」と即レスしたけど、内心は「もう心折れてる」って思ってたクズでした。
 この怪我きっかけに、やめてたタバコ吸い始めたり、看護師ナンパしたり、ラグビーに関係ないことばっかやってたな。実際はゴールを決める覚悟なかっただけな気がする。
 部活や学校生活に戻ったのは、3年生後半、研究室に入る時期だったのも、ラグビーから距離置くことの言い訳にしてた。

大学ラグビー最後の年

 そんなこんなで4年生、大学ラグビー最後の年になったんやけど、3年近く毎日続けていたトレーニングは健康維持となり。適当に過ごすメンタルで最後の夏合宿を迎え、迎えた夏合宿から部活前線へ復帰した。怪我の復帰者には、ちゃんと試合の出場機会をくれる監督は、やはり指導者として正しいんやろう。相手チームのレベルを計らないながら、段階的にそれぞれでしっかり機会をくれる。10日間の合宿で、毎日試合に出させてくれた。しかし既に気持ちが折れてる自分は、全く結果にこだわれなかったし、出ることが苦痛だった。でも機会をくれていることに、期待があるんだろうか、と思って、出場のメンタルを保とうともしていた。
 合宿は、ただ疲労して終わった。4年生同期で2軍にもなってない奴が、最終日のキャンプファイヤーで「これからだ、頑張るわ」って1軍の同期と喋ってるのを見て「バカなのかな?」って思ってた。最低やったな。
 とかく大学選手権を迎えた関東学院大学ラグビー部は、無事決勝戦へと進み、冬休みを利用し最後の追い込みを行った。
 自分の中では既に終わっている部活生活だが、最後に応援くらいはしようという姿勢でいた。
 追い込みの練習は昼休みを挟み、午前午後に行ういわゆる2部連。大学の冬休み中、朝から晩まで部活員みんなで1日を過ごす。昼食後、食堂で急に監督に呼ばれ行ってみると、「ご馳走様を言う人が違うよっ!」と怒られた。食器を片付ける時にいた食堂のオバちゃんに「ご馳走様でした」と言ったのだが、それがどうやら琴線に触れたらしい。「何でそれで怒られんだ?」と。プレイヤーとしては枯れていた中で、かろうじて残っていた部活への気持ちは空っぽになり、どうで良くなって、続く監督の注意を無視して食堂から去った。
 毎年この時期になると、1軍と練習相手になる2軍たちだけでグラウンド練習を行い、他の部員は2チームへの水運びとかサポートをする体制になる。自分は当然サポート側にいたのだが、ランチブチ切れ事件後には、練習すらしていない自分が突然怒られる、ということが繰り返され、部活への足も遠のいて行った。欠席の理由がない休日の練習時間は億劫だった。
 結果的にチームは優勝を果たすのだが、あんま心から喜べず、騒いでるみんなのノリに合わせて嬉しいフリをして過ごした。完全に他人事やった。今思うと、諦める言い訳を探してただけやったんやろう。
 そんな自分でも、社会人チーム(Jリーグで言うとJ3)を持ってる会社で、先立ってプレイしている先輩から就職と入部のお誘いを受け、そこそこ大きな会社への就職が決まった。既に大学ラグビー部への気持ちがなくなり「早く卒業したいなー」という自分には蜘蛛の糸やったし、社会人生活への前向きな気持ちも素直にあった。腐った自分でも誘ってくれる人がいる、ってのは本当にありがたい。ケリをつけたラグビーで就職するのが少し複雑やったけど、時間は注いできたので、対価だろうとケリをつけた。

大学での学業生活

 関東学院ラグビー部の部員としては珍しく理工学部を選んでいた。ちなみに経済学部を選ぶと、授業に出なくても単位が貰える、という特典があるのは入部してから知る。知ったところでラグビーに全BETしてなかった自分は、理工学部で良かったな、と思ってた。
 ラグビー部が日本一なだけあって、理工学部にもラグビーファンな教授がいて、部活運営には関与してないにも関わらず、毎年のNZ合宿の選抜メンバーとか知っている人までいた。ってので1年目のメンバーに入っていたことを知ってくれていた教授からは「お前はラグビーがんばれっ」つって授業に出なくても単位くれたり、昼飯山ほど奢ってくれた。授業の課題を提出して怒られた時には面食らった。でも「自分のやるべきことに時間を使え」って教えてくれてたんかな。目をかけてくれるレギュラーや準レギュラーの先輩も練習に誘ってくれたりして。誘われることに満足をしていて、実際何かを成し遂げようまで覚悟してなかったんやろうか。
 そんな感じで突っ切れないメンタル持ちながらも肉体鍛えることだけは続けられて、そこ目をかけられて1軍の練習試合に出させてもらったり。ちゃんと頑張ればいけそうな感じで、でも何となくの努力になってた気がする。

妻との出会い

 3年生の時に怪我して入院した病院で働いていた看護師さんが今の妻。見かけた当時、「こんな綺麗な人がいるのか」と衝撃を受けた。これまで女性に声かけることに何の抵抗もなかったけど、なかなか声をかけられない初めての女性で、声をかけるまで3日くらいかかっていた。当時の自分には「上手くいくから、とっとと声かけろ」と言ってやりたいけど、心境を思い出すと察してはやれる。焦りを悟られないように見栄張ってる自分を思い出すと滑稽で笑える。

社会時生活の始まり(2007年〜)

勤務先のビル(2007年)

 自分の社会人生活は、新生活用の宿探しから始まった感覚だ。地元を離れた土地では勘所が全くなく、妻(当時は彼女)と一緒に、勤務先になる新宿から通いやすいところを探した。探してる時間自体が尊くて楽しく、家は多少綺麗で安けりゃいいや程度やったな。
 富士ゼロックス東京(現:富士フイルムビジネスイノベーションジャパン)に、インフラSEとして入社して、会社のラグビー部にも所属した。
 住まいは、小田急線沿いの経堂。勤め先の新宿と、ラグビー部の練習場がある海老名の間くらいかな、と土地勘ないけども、それっぽいところを選んだ。古いけど、安くて広いことが決め手やった。
 初年度は、3ヶ月の営業研修、その後に3ヶ月のSE研修と長期の研修生活から始まった。飽き性な自分には大変な期間やったけど、ロールプレイやワークがある研修だったため、用意された試験もクリアして、それなりに過ごせた。
 会社の施設に泊まり込みで行うSE研修の期間中でも、部活の練習はあって、平日は埼玉の研修所へ、週末は経堂の自宅へ帰宅する、慌ただし毎日を過ごした。忙しくはあったが、非日常感があって楽しく過ごした。

結婚を決めた日

 妻(当時は彼女)が働く合間を縫って、家まで足を運んでくれたのは、とても嬉しかった。合鍵を渡した時の照れた笑顔は、思い出すと今でも笑みが溢れる。研修期間中のデートで、「落ち着いたら結婚しない?」と言ったのだが、牛角というムードもへったくれもない環境だったことに当然だが不満があったようで、結婚してから何年かは引きずられた。
 その後、具体的に進んだのは妻からの打診で、「本当にする気あるなら、30歳を迎える前にしたい。しないなら別れる」と切り出され、「今すぐだとお金ないけど、それでも良いならしよう」と結婚に至った。
 翌月、まず妻の実家へ挨拶に伺った。以前にも2度ほどお会いしてたのやけど、印象的に殴られることはないだろうと思っていたが、「ウチの娘で本当にいいの?」と言われた時は違う意味で面を食らったのと、しかし挨拶は無事終えれそうだ、と安堵した。
 そして義母はとても料理が上手い。何食っても上手いのだが、妻の実家は男の子がいないためか体育会系育ちの男子の食べる量が分からなかったようで、挨拶でお邪魔した日には、平皿に山積みされた唐揚げが出来上がっていた。バカボンですら溢れたのは米で、唐揚げがあそこまで盛り上がっているのは、後にも先にもこれっきりな経験だった。お酒も美味しくいただき、無事妻自宅へのご挨拶は終える。
 その数週間後、京都の実家に妻と向かい、結婚の挨拶を済ませる。妻宅への挨拶を終えた安心からか、あんま覚えてないけど、自分の両親へは結婚報告をいつまでも始めず、最後は妻が切り出してたようで、最後には両親と妻から酷く怒られた。こういうところが抜けていて、たまに恥ずかしくなる。
 両家に挨拶を済ませた後は、妻の誕生日を迎えるまえに入籍を済ませることとなり、婚姻届の提出と一緒に住む家探しや引越し、と慌ただしい日を過ごした。家は、妻の自宅になるべく近く、しかし新宿へ通う自分の通勤に困らない地域で手を打ち、家も手頃なアパートが見つかって、新社会人かつ新婚生活を始めることになった。環境が変わる時にはワクワク感を得られるので楽しく始められたと思う。

初めての子供を授かる

 生まれてこの方、家を出たことのない妻は、なかなか共同生活に慣れないのか、ずっと体調が悪かった。2ヶ月ほど経った時に原因が発覚したのだが、それがなんと妊娠だった。暮らし始めてから「最近、ずっと胃の調子が悪いの」から「妊娠してたっ」のコンボは、「何じゃそりゃ」と拍子抜けしたのを覚えてるあまりにも早く授かったため、俺の子?と少し疑ってたのは申し訳ない。
 初めての子供は男の子で(というか3人授かった子供全て男の子なんだけど)、息子が欲しかった自分は、判明した時、素直に嬉しかった。定期検診で急に医者から男の子だよー、と言われた妻は、自分だけで抱えておけず、自分にもすかさず発表してきたのを思い出す。少しイタズラな妻が出ていた。生まれるまで辛そうな妻を見ていたが、20歳そこらの自分には他人を面倒みる甲斐性はなく、家事もせず、のほほんと過ごしていた。父親になる実感は、ほとんどなかったな。
 出産日は駆け出しのSEとして、設置していた日で、「さっき入院したのよ」って個人用携帯に義母から電話が入って知った。まもなく生まれるのか、と思いつつも、特別な高揚はなく、淡々と帰り支度をして、妻の入院先へ向かった。
 家に帰ってシャワー浴びて病院へ行ったこと、妻に用意された病院食を食べたこと、は今でもチクチク刺されることである。

長男との関わり

 本人にまだ伝えてないため、ここに書くのは悩んだけれど曖昧な範囲で…息子(長男)が3歳になった頃、妻の勘で療育へ行くことになった。日頃の長男の様子を見ている感じから、自分に知識がないにも関わらず「何とかなるだろう」と、思っていて特に衝撃を受けなかったが、妻が母親として思うところがあったようだ。
 そんなでも順調に成長していってくれ、小学一年生の壁にぶつかったり、保健室登校になったり、高校生になった今も朝は起きなかったり、と、なかなか手間のかかることは多かったけれども、腐ったりグレたりすることなく、生きていてくれてるのは安心している。
 しかし、あまりにも自己否定が強く、何とかならないものか、と毎日悩んでおり、展望を掴めないのが悩みの種。民間資格やけれど心理カウンセラーを学んだり、思い当たる限りの対処はしたが、ちょっとしたことで長男の自己否定を強めてしまい、あまり期待する効果は得られていない。自分としてはやれることをやっているつもりだけれど、長い目で待つことができない性格なので、父親としての不十分さと自己嫌悪を感じる。少し前まではよく話しかけてきてくれていたのだが、今年(2024年)の6月頃に叱ってからは、とんと話しかけなくなってきた。愛着が不十分なんだとは思う。何がしてやれるのだろうかな。難しいな。

学童保育の会長

 我が家は共働きでやっていくことにしたため、長男は入学と共に学童保育へ通うことになった。
 通っていた学童では、1年毎に保護者が役員を持ち回す運用をしていたため、長男が通ってから2年目には順番を迎え、担う役員を決めるためのくじ引き大会に参加することになった。そしてこの役員やることについては、休日が潰れることから、とにかく人気がない。共働き家庭が多いこともあり、基本的に誰も立候補しない。それでも何かやらないと済まないため、どうせやるなら、と比較的楽な役職を選び、無難に1年を過ごすのが賢い選択で、伝統的なテクニックらしい。
 確か8つくらいの役員があったが、候補者が40名ほどいたため、そんなテクニック使わなくても回避できるやろう、が当時の自分。最終的に候補者が8名、職は会長職が残り、8人でくじ引きをすることになった。ここでも自分は「1/8なんて引かんやろw」と、くじの順番も他候補者へドヤ顔で譲っていた。候補者の全員が引き気味なため、順番の希望を譲った自分が最初に引くことになった。
 そして見事に当たりを引いたw一年間、無償で代表職をやることになり、遠い目な自分に陥る。引いたのが自分なため妻には申し訳ないと、しっかり自分で回すことを決め、入りがネガティブな仕事と1年間を過ごすことになった。8人の役員、雇用者にあたる保育指導者(学校で言う先生)3人、パート3名、という体制で保育事業の運営が始まった。
 保育事業の運営は行政との遣り取りの多さから、提出文書関係の対応が多い。提出物の原本は電子で配布されるのだが、保育指導者たちのITリテラシーが低いので、わざわざ印刷したりのアナログさが、役職員(特に会長職)の仕事を増やしている。あと地域の祭の準備や、来年の新入生向け説明会など、年間行事の申請も絡んで、基本的に休日も対応に追われていた。学童は認可事業のため、3年に一度、区役所の立入監査を行うのだが、ちょうどこの年に監査があることで、その準備にも煽られ、この年は特に忙しい年だったらしい。準備の一貫で過去3年分の会計帳簿を準備するのだが、最低賃金の改定を背景に、今後は赤字の見通しとなっているのが分かった。保育指導者を4人も雇えてることに何となく違和感あって、改定前からでも結構カツカツだったはず。長年、学童に通っている保護者に聞くと、保護者たちのボランティアが大きな支えになっているとのこと。金銭面は入会者が増えれば賄えそうでもあったが、民間企業が運営する学童施設が同地域内、しかもココよりやすい値段、施設は学校内に設けられるとのことで、基本的に利用者は減る見込みしかない。また共働き家庭が増えてきているので、ボランティアできる保護者は昔より遥かに少ないそう。施設も、保護者のどなたかが知人頼りの施設らしく、当時の知人と連絡取れる人がいないとのことで、今後も使い続けられるか分からんようだった。なかなか踏んだり蹴ったりな環境で、騙し騙しやっているってのが分かった。放置することも出来たんやけど、この施設がなくなる=地域インフラがなくなることであり、共働き家庭の苦難が増える妄想は用意。自分の家も子供は3人いて、まだ利用する可能性もあるし、利己的ではあるけど、何とか残すための策を考えることにした。雇用者の口減し、保護者負担の軽減など、これまで慣習的に続けられてきた諸々を変えないといけなくなっていくのやけど、金銭面で一番の負担は指導者の給料。「リストラする経営者って、こんな気持ち?」と思いながら、指導者への退職を進めていくことにした。いきなりは本題出すのもアレなので、まず各自へのヒアリングをそれとなく始めたのやけど、実は互いに仲悪いってのが見えてきたり、惰性で職についてるチャランポランがいたりで、美しく見えていた指導者のチームワークは、上っ面であったことには、結構な衝撃があった。「この人たち、人間不信とかにならないのかな?」と。1年でやるとか無理ゲー、とか思いつつ、総じて何とかなる結末を迎えた。役員だけでなく、保護者の方々からもすごく協力いただけたのがことを進められたんだと思う。特に保護者からは、個別でも色々と声をかけていただいたり、この年の役員たちの働きっぷりに、普段からすごく尊重している、って言葉をもらった時には、こっそり泣きそうになったのを思い出す。
 民間企業でもなく、会社というほど大きい規模でもないけれど、一つの組織を変えた、ってのが自分にとっては仕事する上での貴重で大きな経験になっている。根強くやれば組織は変わる、と信じられているのは、この経験があるからだと思う。

未熟な父の葛藤

 2014年、入社8年目なりに仕事は順調にこなせるようになってきた頃、三男を授かった。長男の学校生活、次男の育児でストレスフルな妻との仲は最悪で、自分もストレスフル。仕事が定時に終わっても、深夜02:00まで1人カラオケで時間を潰してからとか、とにかく家に帰らないようになってた。仕事は楽しいので朝は起きれるのやけど、帰りが辛い毎日やった。
 自分より早く家を出る妻は、長男に「行ってきます」と笑顔で伝えるのだが、「五月蝿え、早く行けババァっ」と言い返す、という毎朝が続いていた。
 自分が帰宅すると、毎日の長男との関わりに憤っている妻からの愚痴が始まり、2〜3時間ほど続く。思い返すと、何時に帰っても愚痴は溢れてくるので、妻が寝てから帰りたい、をやっていたのだと思う。長男のこともあったが、家庭生活のこともあって、心理カウンセラーの勉強した。勉強しただけあって、現状の捉え方を変えることができ、また自分のストレスリリースも上手くなっただろうことから、家に毎日早く帰れるようになった。今では自信をもって妻に愛情を表現できる。
 今振り返ると人生の見方変えるキッカケは、長男がくれたんだと思う。当時の自分のままだったら、今の家庭はないな。仕事への姿勢も変わった。歪曲かもしれないけど、学んだことは確かにある、と思っておこう。

子宝と社内転生

転生(転職)と言えばダーマ神殿

 そんな感じで家庭を何とか乗り切りだしていた2015年、ノルマを順調にこなしてきた仕事面では、3人目の出産も相まって、「SEの働き方では、社会人やっていけなくなるな」という危機感から、単価上がる仕事=コンサルタントという安直な考えで、コンサルタントの仕事を始めることにした。
 社内にノウハウがなかったけれど、そこは筋通っていれば企画を受け入れてくれる当社の寛容さに感謝している。コンサルとは何ぞやを自分なりに調べたり、島田紳助理論に従って自分用の教科書を作ったりの準備を進め、社内へ提案しコンサルを立ち上げてもらえることになった。幸いなことに探すとやってる人が見つかったり、多少失敗しても試すお客さんが山程いらっしゃる会社だったので、ぶつかりまくり稽古で何とか稼げるようになっていった。
 立ち上げた当時、上司の計らいでコンサルタントをやってるという全国跨いだ組織があるのを見つけた。社内ベンチャーのコミュニティで、ICTをバックボーンにマネタイズを図ってるとのこと。近々あるという集まりに参加させてもらえることなった。
 いざ行ってみると、ICTのフレームワークを講義したら、夜は飲んでいるだけの組織で、コンサルとは何ぞや、を学べることはなく、かなりガッカリした。それでも集まってる人たちは特別なことをやっている人なんだろう、とソッチコッチで話してる内容を壁耳で聞いていたが、会社とか仕事のグチばかりで、残念さがほとんど。まぁフレームワークは勉強になったので持ち帰って仕事にするための作戦考えよう、と割り切った。
 とにかく今ないコンサルの仕事を作らないと実践練習も、ままならんため、SE時代の顧客や知り合いのSRへドブ板営業をした。1ヶ月ほどしたら相談くれるSRが出てきて、初相談やったけれども受注した。初めてコンサルとしてお金をもらう仕事だったので、脇汗は止まらなかったけど、上記のコミュニティにいた人が手伝ってくれたおかげで、無事計上に至れた。しかしこの案件は、最終報告後、顧客から「御社の報告は信用できない」とクレームが入った。コンサルとして最初の案件だったので「落ち度はあるだろうな…」となんとなく思っていたけど、「そんなにか?」とも思ってた。結局、別のコンサルへまた同じテーマで依頼されたらしいのだが、結果そのコンサルからは「ゼロックスさんの言うとおりです」という報告を受けたらしく、協業した先輩と腹を抱えて払った。クレーム化したけれど、最後の最後には「自分のロジックは金になる」と自信のつく案件になった。決定的な知識とか経験がなくても、考えれば何とかなる、という謎の自信を得たのはこの時やと思う。

コンサルとしての支柱

 子宝と転生でバタバタし出した2015年、SE職で時短勤務を取っている男性社員って属性が珍しかったらしく、ダイバーシティテーマの社内プロジェクトに呼んでもらうことになった。このプロジェクトは2011年から稼働しており、「育児休暇を取った社員の退職率問題」を対応してきたそうで、社を跨いで多くの女性先輩社員が参加していた。先輩方は、出産前にはトップセールスとして表彰されたりする元スタープレイヤーの人たちで、何となく大学時代を彷彿され結構構えてた。そんな人たちだったので「何かを変えなきゃ私たちの居場所作れないっ」という熱意が凄い。そういう人は、結構遠い存在に感じていたけど、プロジェクトが進むに連れて、「あなたの意見やアイディアが欲しい」と言われることも増えていき、トッププレイヤーたちとの関わりに余計な感情は抱かなくなっていった。何かをやろう、決めている人たちは、立場とか関係なく役立つ情報やアイディアくれる人を、極めてニュートラルに求めてるんだな、って思った。そんな人たちに求められる自分は、とても誇らしかった。
 最終的に当時の社長へ提案し、社内の制度を変えてもらったり、次のプロジェクトを立ち上げたり、という経験をさせてもらえるプロジェクトになった。結構大きな会社やから困っていたとて何とも出来ないと思ってたけども、あるべく人にちゃんと伝えれば組織は変えられるんやな、って考えを持てる経験やった。コンサル続けるメンタルの大きな礎になってると思う。コンサルも今となってはマネタイズしやすい箱、って感じで使ってる感覚になってるのも、大きな組織で物事変えれた経験から得た抽象度なんやと思う。

締めの言葉

 そんなこんなで、今では社内の人にコンサルを教える立場になり、コンサルサービスを事業化するプロジェクトを進めている。個人でやってる分には全く困ってないけど、誰かをコンサルに育てるには実践機会がまだまだ足らず、誰かの教育のために何かを用意しなければならない活動は、楽しい時もあるが魂入ってる感じがない。やり甲斐あるのかもな、と思う時もあるが、この辺が自分のエラーを見つけて云々できる部分なのかな、と思ってる。
 あと1日の終わりに妻のお尻を触って寝ると幸せを感じるなぅ。

気付きメモ

⚫︎気付き

・何かを成そうとすると怪我とかで上手くいかない、って思ってる(癒着)
・長男との愛着関係が不十分
・自分は頼り甲斐があるべきだ
・で自信持ってる風を装ってる
・全て自分で片付けようとするのを拭いきれてない
・お願いしたことをやんない人は、しょうがないとして結局引き取ってる
・部下じゃない人が仕事受け取らないのはしょうがないと思ってる
・オファーされたことに全力を出したい。興味がない人に時間を使いたくない(タイパ悪いから)。
・物事教えるのは好き(未来のタイパ手に入る)
・構造化に時間かけるのもOK(勘所振り返れる)
・素は、ひょうきんで脳天気
・非効率、非合理的なことは、やっぱり嫌い
・答えが見えたら飽きる
・答えのわかる問題は興味がない
・なぜそうなるのか、は知りたい
・やっぱりそうなるのか、は誰かにやってもらいたい(試すことが並行できるから)
・親族には一般論を適用してないエラー
 …女性の方が発達が早く口が立つ、を年上の姉には適用してなかった
・上司には仕事をお願いしてはいけないと思ってる
 …権限持ってるんやから、もっと高尚なことやれよ
・上司にお願いをしてもムダだと思ってる
 …どうせ言っても理解できない
・そこそこ大きい会社の制度一つを変えた程度に、満足してる
・犬飼いたい

⚫︎決断

・思ってるより他人の荷物を背負えない甲斐性なしな自分からの脱却
・怪我を気にしてアクセル踏めない自分からの脱却
・今年は怒らない。誰かが怪我しても、本人を咎めずに片付ける。要望を無条件で受け入れる。
・専門家に相談して、どうあるべきか納得した状態になる
・オファーもらえる人を見つけるために、能動的に発信する
・エフィカシー高い人へ、実践機会を提供できる自分になる

want to

・企画する、整理する

・勘所を掴む
 …物事の要点を知ることが報酬
 …徹ゲーするほどゲーム好きだったのに、攻略本出たらやらなくなった

・タイパ
 …勘所を見つけるために効率化させてる
・のめり込む
 …勘所を見つけるために生命時間の投下先を選んでる

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