やっと少し開けられるようになったのに、開けただけで全部見せられることにされる
親と話していると、やっと少し開けられるようになったのに、開けただけで全部見せられることにされることがある。
何かをもう一度外に出そうとしたあと、自分の中でどこまで開いても大丈夫なのかが見えるまでに、時間がかかることがある。
どこまでは少し開けても崩れなさそうなのか。
どこから先は、まだ見せる形にしないほうがよさそうなのか。
その場ですぐに全部を開いて並べられるほど、まだ自分の中の順番が整っていないことがある。
何もないわけではない。
閉じたままにしたいだけでもない。
誰にも見せたくないわけでもない。
でも、そのまますぐに全部を見える場所へ出せるほど、気持ちが一つの形だけで保てるわけではないことがある。
そういう途中の時間がある。
それでも、少しずつ戻ってくる。
ここなら少し開けても大丈夫かもしれない。
今日は少しだけ見ても崩れないかもしれない。
この開き方なら、自分の中にあるものを消さずに少し確かめられる。
そんなふうに、自分の中で開けられる幅を探していく。
それで、やっと少し開けられるようになることがある。
「少しだけなら見られる」
「ここだけなら出せる」
「全部じゃないけど、少し開けてみる」
全部を見せられるわけではなくても、自分の中で閉じていた場所を少しだけ開くことがある。
でも、その開けたことが、全部見せられることのように見えることがある。
開けた。
少しだけ見えるようにした。
ここだけ開けば、自分がどこまで触れられるようになったのかを置けそうだと思っていた。
だから、もう全部を見せられるのだと思われてしまうことがある。
そのときに、
「じゃあ全部見せて」
「そこまで出せるなら、もう大丈夫でしょ」
「少し見せられるなら、隠さなくていいじゃない」
と言われることがある。
たしかに、開けた。
自分の中で閉じていた場所を、少しだけ外の空気に触れさせた。
でも、全部見せられると言いたかったわけではない。
そう思ったときにはもう、せっかく持てた小さな開き方が少し引っ込んでしまう。
開けられたことより、その開き方で全部見せられることにされたことのほうが、大きく前に出てしまうことがある。
違う、と言うほどでもない気がする。
でも、そのまま全部見せられることにされるには少し違いすぎる。
何がどう違うのかを言い直そうとしても、こっちはやっと少し開けられたところにいる。
最初から全部を閉じたかったわけではない。
誰にも触れさせたくなかったわけでもない。
ただ、少し開けられるところと全部見せられることを同じにしてしまうと、自分がどこまで閉じていた場所に触れられるようになったのかまで見えなくなることがあった。
その場では、開けたと言わないこともできたのかもしれない。
「まだ無理」と短く戻すこともできたのかもしれない。
全部見せられると思われないように、やっと持てそうだった小さな開き方をなかったことにすることもできたのかもしれない。
でも、それは自分の中にあるものを少しずつ見られるようになったのとは少し違う。
家に帰ってから、頭の中で言い直すことがある。
あのとき少し開けられたと言いたかったのは、たぶんこういうことだった。
全部見せられるわけではなかった。
でも、自分の中では、閉じていた場所を少しだけ見ても崩れなかったこと自体が、前より少し変わったことだった。
まだ言えなかっただけで、その開き方の奥に残していた少しずつ触れながら進みたい気持ちはそのままそこにあった。
そんなふうに、遅れて並び直す言葉がある。
全部見せられることにされたのがつらい、というより、
やっと持てた小さな開き方が、もう中身を全部出せる合図として扱われた気がした。
開けることと、全部見せられることは同じではなかった。
本当は、いつも閉じたままでいることより先に、やっと少し開けられるようになった時間と、その奥に残していた少しずつ触れながら進みたい気持ちごと、少しだけ受け取ってほしかった。
