「私、ちょっと怖いです」と言えるか──映画『廃用身』が突きつけた問い
映画『廃用身』の感想・考察。ロゴが映った瞬間から不穏が鳴り続け、感情を映像で見せつける意欲作。本当の恐怖は衝撃的な設定ではなく、誰の日常にも潜んでいる。正解のない問いを持ち帰る覚悟を試される。
おかしな話だが、本編が始まる前から、すでに脅されていたのである。
配給会社のロゴが映る。その時点で、もう不穏な音が鳴っている。逃げ場のないまま重厚な第1カットへ突き落とされ、約2時間後、私は言葉にできない映画体験に打ちのめされていた。
そもそも、タイトルの『廃用身』からして、かなり不気味である。
ただし、手放しの絶賛とは違う。正直、引っかかった点もある。賛辞と文句を両手に抱えたまま劇場を出て、数日経ったいまも、ある1つの台詞だけが剥がれずに残っている。観ている間より、観たあとのほうが怖い映画というものが、この世にはあるらしい。
※この映画は、説明のない映像表現と終わらない不穏に身を浸し、答えの出ない問いを持ち帰って誰かと語り合いたい人にオススメです。
▼ここからはネタバレを含みます。未見の方はご注意を▼
是非、映画はあらすじも予告編も観ずに、 作品の情報を知らないまま、映画館で鑑賞してほしい。
■作品データ
タイトル:廃用身
監督:𠮷田光希
出演:染谷将太、北村有起哉、瀧内公美、六平直政 ほか
上映時間:125分
制作国:日本
日本公開:2026年5月15日
配給:アークエンタテインメント
回復しない手足を切る、という正論
デイケア施設「異人坂クリニック」の院長・漆原糾(染谷将太)が…
物語の説明は、この1行でおしまいである。何がどう転がっていくのかは、劇場で確かめてほしい。ここから語りたいのはストーリーではなく、この映画の異様な作りと、私の中に置いていかれた1つの台詞についてなのである。
ロゴの時点で、覚悟が鳴っている
冒頭のファーストショットに、私はこの映画の「覚悟」を見た。
安易な映画であれば、ここで説明台詞を入れるだろう。何が起きているのか、周囲がどんな感情でそれを見ているのかを、誰かに語らせてしまうだろう。本作は語らない。全編にわたってなるべく説明を排し、なるべくカットを割らずに、一続きの映像で状況を捉えさせ、観客の想像力を信じきる。徹底して「映像で伝える」という、正に映画的な手法を貫いているのである。
この信念には、まず頭を下げねばなるまい。
人力の執念──スムーズに動くカメラ
驚かされたのはカメラワークである。広いロングショットからクローズアップまでを、カットを割らずにスムーズに捉えていく。海外の予算が潤沢な作品なら、コンピューター制御のクレーンで撮るような場面である。本作はそれを、レール移動とズームを人力で連動させる職人技で成立させている。限られた予算で、これほどシームレスで不穏な移動ショットを完成させたのは、撮影班のスタッフの粉骨砕身して撮った証だと断言する。
「究極の善意」は、サイコパスより怖い
漆原は、分かりやすいサイコパスとして描かれない。ここがこの映画の真の恐ろしさである。
彼は高齢者のために、良かれと思って行動する。「究極の善意」の人なのである。邪悪さのない天使のような顔で、患者の生活の質、介護者の負担、コストパフォーマンスを淡々と説く。社会的な正論と狂気が紙一重であることを、これでもかと突きつけてくる。
そして演出が容赦ない。カブトムシを触ろうとする少年のカットから、赤ちゃんの手に触れようとする現在の漆原へと繋ぐ編集。「この後、赤ちゃんに何をするの??」という戦慄が走り、私はスクリーンに釘付けにされた。さらに漆原は、理路整然とAケアについて語る間、一切瞬きをしないのである。というか、或るシーン以外では瞬きをしていないのである。視線1つでキャラクターの崩壊や変化を体現する染谷将太。恐るべし。
「結局、院長の意見に従うことになる」
それでも、劇中で一番響いたのは、スタッフの誰かがこぼすこの一言であった。
専門家である医師が、自信に満ちた顔で「これが正しい医療だ」と語る。すると素人である家族は、立場の弱い看護師は、自分の中の違和感を信じきれなくなっていく。これは心理学でいう「権威への服従」である。1960年代、心理学者ミルグラムは有名な実験で、権威者に指示されると、ごく普通の人間が良心に反する行為を続けてしまうことを示した。白衣を着た者の「正しい」は、それほどまでに強い。
この構造の中で、私が最も近いと感じた人物は看護師の内野(中井友望)である。複雑な違和感を「目線」だけで表現する彼女は、観客に最も近い視点として、この作品にリアリティを与えている。その内野が、おずおずと漆原に言うのだ。
「あの、私ちょっと怖いです。こんなこと言っていいのか分かんないですけど……」
なんと頼りなく、なんと勇敢な一言であろうか。そして私は観ながら、恐ろしいことに気づいてしまった。漆原の話を聞いていると、それが良いことのような気がしてくる自分がいるのである。嗚呼、丸め込まれかけていたのは、スクリーンのこちら側に座る私だったのだ。
答えを出さない、という誠実
本作は、高齢者の身体切除というセンセーショナルな題材を通じて、現代社会が抱える根深い問題を浮き彫りにしていく。そのとき監督は、「Aケアはありか、なしか」という明確な答えを最後まで提示しないのである。
肯定的な意見も、否定的な違和感も、すべての立場をドラマの中で多角的に展開させ、判断は観客に委ねられる。安易な答えや解決を示さないこの構造は、不誠実どころか、この題材に対する監督の誠実な姿勢の表れだと私は思う。終始漂い続ける不穏な空気は、その誠実さの音なのである。
問いはいくつも刺さった。漆原の「もう少し早く成果が出ていれば」という後悔がえぐり出す、人生の「間に合わなさ」という残酷な現実。身体が揃っている者の「エゴ」と、動かない苦しみを知る者の視点の対比が突きつける、人間の尊厳、心と体の問題。
無駄を排した美術、ウォーターサーバーの音、ほとんど台詞がないのに「全てを知っているのではないか」と思わせる漆原の妻(瀧内公美)の佇まい。映像と音の力、そして俳優たちの怪演によって、観客は最後までスクリーンから目を離せない「強烈な体験」をすることになる。映画館という逃げ場のない環境で堪能できて、本当によかったと思う1作であった。
それでも書いておきたい、正直な疑問
ここまで褒めてきた。ここからは、忖度なしの文句である。
まず、ドリーバック──カメラが被写体から遠ざかっていく移動撮影──が、とにかく多い。希望の持てる場面はドリーインで、希望が薄れていく場面はドリーバックで見せる。そう読めた瞬間もあった。だが繰り返されるうちに意味が薄まり、しまいには「また下がっていくなあ」と、技法そのものを眺めてしまう始末である。こうなるともう、心の読めない染谷将太の演技を読み解くどころではないのだ。
もう1つ。制作費の低さが、画面から隠しきれていない。特殊メイクはそれらしく見えるのに、肝心の異人坂クリニックの内部からは「予算がない感」がうっすら駄々洩れなのである。重厚な雰囲気のカメラワークが、かえってその落差を照らしてしまう。集中力を高めて観ないと、「チープだなぁ」という身も蓋もない感想に引きずられる。そして私は、何度か引きずられたのである。
人力の職人技と、鑑賞のノイズ。同じカメラが、私の中でこの2つの顔を行き来し続けた。この映画の評価が割れる一線は、おそらくここである。あの執拗な移動撮影と画面の質素さを「冷徹な観察の眼」と受け取るか、「没入を妨げる癖」と感じるか。
没入できなかった私は、内野の隣にいた
ところが、だ。この没入の失敗が、思わぬ効果を生んだことに、あとから気づいた。
物語に同化しきれなかった私は、終始、内野看護師と同じ位置に立たされていた。輪の外から、違和感を抱えたまま眺める位置である。もし完璧な美術と演出に包まれて漆原の世界へ没入していたら、私は彼の正論に、もっと深く丸め込まれていたのではないか。距離があったからこそ、あの台詞が聞こえたのではないか。
これを演出の手柄と呼ぶのはさすがに甘い。甘いのだが、結果としてこの映画は、「正論に丸め込まれる体験」と「踏みとどまる距離」の両方を、半ば事故のように私へ提供したのであった。
「私、ちょっと怖いです」と言うために
ノイズはあった。それでも私は、この映画に打ちのめされたのである。
権威の正論を前にして、自分の違和感を口にするのは恐ろしく難しい。会議で、家庭で、診察室で。私たちは毎日、小さな異人坂クリニックの中にいるのである。
だから私は、内野看護師のようでありたいと思う。「あの、私ちょっと怖いです。こんなこと言っていいのか分かんないですけど……」──あの、たどたどしくも勇敢な一言を、いざという時に言える人間でありたい。そのために、日々、自分の感性を磨いていこうと思うのである。
