大切な人が死ぬことの悲しみについて
町の小さな火葬場。職員の方が、喪主である父に点火ボタンを押すように伝えた瞬間。
「まだ、押さないで。」と足が一歩前に出ようとした。「焼いてしまったら終わりやん。」と思った。
火葬場にまで来ても、まだ、もしかすると生き返るんじゃないかという、まるで漫画みたいな希望があった気がする。
もちろん、そんなことが言えるわけもなく、点火ボタンは押され、私の大切な人の体は灰になった。
おばあちゃんは、本当にかけがえのない人だった。その言葉の意味の通り、誰もとって代わることの出来ない人。その意味でいうと、誰だってかけがえの無い人ではあるけれど。
早くに乳がんで母親を亡くした私と妹の面倒をよく見てくれていたおばあちゃん。父方の祖母だけど、乳がんを患ってベットで寝たきりだった私の母の看病だってしてくれていた。
最後に帰省して会った時には、私のひいおばあちゃんにあたるおばあちゃんのお母さんの話を聞かせてくれていた。長い間一緒にいたけれど、初めて聞いた話。まだ小さなおばあちゃんを置いて逃げて、随分と経ってから病気をして戻ってきたひいおばあちゃんは、おばあちゃんに看病を頼んだという。おばあちゃんはひいおばあちゃんが亡くなるまで面倒を見たそう。その時の複雑な気持ちを教えてくれた。
おばあちゃんは人の面倒を沢山見てきたのに、自分は誰の世話にもならず、死んでしまうにはもったいないと思わずにはいられないほど元気なまま、死んでしまった。
自分のペースで散歩をして、畑仕事をしたら、昔からのお友達と月に数回食事をして、夜には私があげたノートに欠かすことなく日記をつけた。
週末になると電話がかかってきたり、かかってこなかったり。出たり、出なかったり。2週間ほど電話がないと、なんとなく気になって、こちらからかけてみたり。
長い休みが取れたら帰ったり、帰らず旅行にいってしまって、少し悲しんでくれたり。
離れていても、おばあちゃんは日常のふとした瞬間にそこにいてくれて、それは当たり前のことで、おばあちゃんが死ぬことなんて考えたことが無かった。
元気だったおばあちゃんの様子が急変した日、すぐに仕事を早退し、おばあちゃんの元へ向かった。初めて東京から京都への距離を恨んだ。新幹線の中、気が気ではなかった。
京都駅に到着したら今度は北に向かってまた2時間。妹の夫が車を出してくれたその車内で訃報を受けた。
あと車で1時間先のところにある病院で、おばあちゃんの命の光が消えるのを感じた。
病院に着いてから、私と妹は、おばあちゃんの体の傍で、涙を流し続けた。
83年間ずっと絶えることなく動いてきたのに、たった1時間と数分前に機能しなくなってしまったおばあちゃんの体の傍。
おばあちゃんの体が病院から家に運ばれてからは、悲しみが一気に引いた感じがした。おばあちゃんの家におばあちゃんの体があって、いつもの帰省のような感覚。ただ寝ているだけのような感じがして、何度も「そういえば死んじゃったんだった。」という感覚に陥った。
朝になると、近所の人たちがやってきて、みんな驚き悲しんで、一気に現実が押し寄せてきた。それでも、3人の子供全員に看取られ、近所の方たちも沢山顔を見に来てくれて、おばあちゃんは幸せに亡くなったんだと思うことができた。
近所の方たちが普段のことを色々聞かせてくれたおかげで、知ってるおばあちゃんを失ったけど、知らなかったおばあちゃんに出会えた。
葬儀場に運ばれる前の日の夜、おばあちゃんがおばあちゃんの家に居られる最後の日、最後のチャンスだと思って、一緒に泊まっていた叔母がお風呂に入っている隙をみて、おばあちゃんにくっついて寝転んでみたりした。
頭をなでたり、おでこや頬っぺたをくっつけてみたり。もう体は冷たいけど、固くなっていない場所もあって、まだ生きてて寝ているだけなのか本当に死んでしまったのか、感じ方に境界線がなくなって、心がぐちゃぐちゃで、涙があふれた。
その時から暫くの間は、おばあちゃんが死んだという事実がふわふわと宙に浮いていて、それが目に入った時には反射的に涙が出るけど、この事実をどう処理すればいいのかよく分からず、前に進めないでいる感覚だった。
時間が経つにつれて、おばあちゃんの死について考える回数が減って、涙を流す回数が減って、自分がひどく薄情な人間のように感じた。忘れてしまうくらいならずっと引きずっていたいと思った。’’時間が解決する’’という言葉に初めて嫌悪感を感じた瞬間だった。
だから、時間が、この出来事の全てを、私の心と頭の中から別のどこかへ連れて行ってしまって、頑張っても思い出せなくなってしまう前に、記録しないといけないと思った。
これはその記録。まだよく分からなくて、記録以上のものにはならないけれど、おばあちゃんがつけた毎晩の日記みたいに、大切な人のことを綴るように毎日想いたいと思う。
