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ずっと頑張ってきた。でも誰も褒めてくれなかった、私の話

「頑張ったね」って言ってもらいたかっただけだった。

それだけだった。 すごく大きなことを望んでいたわけじゃない。 お金でもなければ、名誉でもなければ、誰かから特別扱いしてほしいとか、そういうことでもなかった。

ただ、「よく頑張ったね」って。 それだけが、ずっとほしかった。

小学生のころ、親から怒られてばかりいた。 中学では、仲良くしていた友達にいじめられた。 部活はしんどくて辞めたかったけど、続けた。 高校では、体がボロボロになりながらバイトを3年やり遂げた。 就活で何度も落ちながら、苦手な面接を乗り越えた。 今も、毎日仕事をしている。

客観的に見れば、十分すぎるくらい頑張ってきたと思う。

でも、誰もそれを言ってくれなかった。

「それくらい当たり前」 「みんなそうだよ」 「もっとしんどい人はいる」

そういう言葉は、何度でも飛んでくる。 でも「よく頑張ったね」は、一度もなかった。

そうやって、何年も過ごしてきた。

そしてある日ふと、「もう頑張りたくない」と思った。

頑張っても報われない、というしんどさについて

「頑張れば報われる」って、子どもの頃から言われてきた。

努力は裏切らない。 継続は力なり。 諦めなければ夢は叶う。

そういう言葉を、学校でも、テレビでも、親からも、繰り返し聞かされてきた。

だから信じていた。 頑張れば、いつかちゃんと報われる日が来るって。

でも実際に頑張り続けてみると、「報われる」の意味が自分の思っていたものと違うことに気づく。

受験に合格した。 内定をもらった。 資格を取った。

「成果」は出ることがある。 でもそれが「報われた」かというと、なんか違う気がしてしまう。

私がほしかったのは、誰かに「あなたが頑張っているのを、ちゃんと見ていたよ」と言ってもらうことだったから。

人は不思議なもので、どれだけ努力しても「認めてもらえていない」と感じると、しんどくなる。

心理学の世界では「承認欲求」という言葉がある。 「他者から認められたい」という気持ちのことだ。

これを「弱さ」とか「甘え」と切り捨てる人もいる。 「そんなものに頼るな」「自分で自分を認めろ」と言う人もいる。

でも承認欲求は、人間が生きていく上で自然に持っている感情だ。

子どもが親に「見て見て!」と言うとき、それは承認を求めている。 大人になっても、誰かに「よくやったね」と言われると嬉しいのは、その欲求が消えたわけじゃないからだ。

ただ、大人になると「そんなこと言ってもらおうとするのは子どもっぽい」とか「恥ずかしい」と思って、ひっそり心の中にしまいこんでしまう。

だからこそ、誰にも言えないままずっと抱えて、ある日「もう無理」となってしまう人がいる。

それは弱さじゃない。 長い間、独りで抱えすぎた結果だと思う。

「頑張っても誰も褒めてくれない」と感じている人は、おそらくたくさんいる。

知恵袋やSNSを見ていると、こういう声が溢れていることに気づく。

「毎日頑張っているのに、なんで誰も気づいてくれないんだろう」 「努力を認めてもらいたいのって、おかしいことなのか」 「ずっと我慢して耐えてきたのに、誰にも気づかれていない気がする」

こういうことを思っている人たちは、決して怠け者じゃない。 むしろ、誰よりも一生懸命やってきた人たちが、そう感じていることが多い。

一生懸命やっている人ほど、「認めてもらいたい」という気持ちが大きくなる。 一生懸命じゃなければ、そもそも「認めてほしい」とも思わないから。

私が「もう頑張りたくない」と思った日のこと

バイトから帰って、部屋に入って、ドアを閉めた瞬間だった。

その日は、職場の先輩にきつく言われた。 内容はたいしたことじゃなかった。 ちょっとしたミスを指摘されただけだった。

でも、なぜかそのとき、わーっと涙が出た。

泣き崩れるほどじゃなかった。 床に座って、ぼーっとしながら、静かに泣いていた。

「もう頑張りたくない」という言葉が、自然と頭に浮かんできた。

怒りとか、悲しみとか、そういう激しい感情じゃなくて、ただただ「疲れた」という感覚だった。

頑張ることに疲れた。 誰かに認めてもらおうとすることに疲れた。 「いつか報われるかも」と思い続けることに疲れた。

そのとき気づいたのは、自分がずっと「誰かのために頑張ること」を続けてきたということだった。

親に褒めてもらいたくて頑張ってきた。 友達に「すごい」と思われたくて頑張ってきた。 先生や上司に認めてもらいたくて頑張ってきた。

「自分のために頑張る」ということが、どういうことか、正直よくわからなくなっていた。

そのとき、一冊の本を手に取った。

内容の詳細は省くけれど、その中に印象的な一節があった。

「自分を認めてほしいと思うことは、弱さではない。それは、自分の存在を大切にしたいという、強い気持ちの表れだ」

読んだとき、胸の奥がじんとした。

「弱いから認めてほしいんじゃなかった」と思った。

自分のことを大切にしてほしかった。 自分がここに存在していることを、誰かに知ってほしかった。

それはおかしなことじゃなかったんだ、と、その夜初めてちゃんと理解した気がした。

ここで少し、自分の話をもう少し書かせてほしい。

子どもの頃、私の家はあまり穏やかではなかった。

親は忙しくて、私が学校で何かを頑張っても、それを聞いてもらえる時間がなかった。 テストで良い点を取っても、「ふーん」で終わった。 発表会で頑張っても、来てもらえないことがあった。

だから「頑張りを認めてもらう」という経験が、幼い頃からあまりなかった。

そのまま中学、高校と成長した。

友達の間でも、「私は頑張っているのに認めてもらえていない」という感覚は続いた。 誰かが注目を浴びていると、うらやましいとか妬ましいじゃなくて、「私のことも見てほしい」という気持ちが出てきた。

でもそれを口に出すのが恥ずかしくて、ずっと黙っていた。

頑張ることで「見てもらおう」とした。 でも、頑張っても特に何も変わらなかった。

そのうち、「私が頑張っても、誰も気づかない」という思い込みができあがっていった。

「見てもらえない」という経験が積み重なると、人はどうなるか。

だいたい2パターンに分かれる気がする。

ひとつは、「もっと頑張れば認めてもらえるはず」と、限界を超えて頑張り続けるパターン。

もうひとつは、「どうせ頑張っても無駄」と、だんだん頑張ることをやめていくパターン。

どちらも、根っこにあるのは同じ「認めてもらいたい」という気持ちだ。

前者は頑張りすぎて、ある日突然燃え尽きる。 後者は少しずつエネルギーを失って、気力がなくなっていく。

私はどちらかというと前者だった。

「もっと頑張れば」と思い続けて、頑張って、でも認めてもらえなくて、また頑張って。 その繰り返しがいつの間にか、心を消耗させていた。

「弱い人間なのか」という問いと、向き合ってみた

「頑張っても誰にも褒めてもらえない、私は弱い人間なのか」

この問いは、ずっと頭の中にあった。

強い人間は、誰かに認めてもらわなくても平気なんじゃないか。 自分の中に揺るぎない軸があって、他人の目なんて気にしないで生きていけるんじゃないか。

そう思っていた時期がある。

でも、少し調べてみると、そういうことでもないとわかってきた。

心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を段階的に分類した考え方を提唱した。 その中で「承認欲求」は、生存欲求や安全欲求よりも上の段階にある。

つまり、「認めてほしい」という気持ちは、生きていく上で自然と湧いてくるものだということだ。 それを「弱さ」と呼ぶのは、「食事をしたいと思うのは弱さだ」と言うのと変わらないかもしれない。

「心が強い人」とよく言われる人たちに話を聞くと、意外なことがわかってくる。

「認めてほしいとか思わないの?」と聞くと、「思う」と言う人が多い。

「ただ、それを誰かに求めるんじゃなくて、自分で自分を認めることを覚えた」という人もいる。 「そういう気持ちがあることを素直に認めて、誰かに伝えられるようになった」という人もいる。

「認めてほしい」という気持ちをなくした人じゃなくて、その気持ちと上手く付き合っている人が「心が強い人」なのかもしれない。

そう考えると、「弱い人間か、強い人間か」という問いの立て方自体が、少し違う気がしてくる。。

私がしんどかったとき、救われた言葉がある。

友達に、ぽろっと「最近しんどくて、誰も私の頑張りをわかってくれない気がする」と話した日があった。

そのとき友達は、「わかる気がする、私もそう思うことある」と言ってくれた。

それだけだった。 解決策とか、アドバイスとか、何もなかった。 ただ「わかる」と言ってくれただけだった。

でも、それがすごく嬉しかった。

「一人じゃなかった」という感覚が、ふっと来た。

「誰も認めてくれない」と思っていたけど、「ちゃんと話せる相手がいれば、届く言葉がある」とわかった。

それは小さな気づきだったけど、その日からちょっとだけ、気持ちが軽くなった。

「自分で自分を褒める」ってどういうことか、本気で考えてみた

「誰かに褒めてもらえないなら、自分で自分を褒めればいい」

こういうことを言う人がいる。

最初聞いたとき、正直「それができたら苦労しない」と思った。

自分で自分を褒めるって、具体的にどうすることなんだろう。 「今日もよくやったよ」って鏡に向かって言うのか。 それって意味があるのか。

でも少しずつ、試しながら考えていくうちに、「なるほど」と思えることが出てきた。

ひとつ目は、「自分がやったことを、声に出してみる」ことだった。

「今日、疲れていたのに洗濯した」 「今日、嫌だったけど上司の話を最後まで聞いた」 「今日、食欲なかったけど何か食べた」

こういう「小さなこと」を、意識して認識してみる。

最初は照れくさかった。 「こんな当たり前のことを褒めてどうする」と思った。

でも続けていくと、「あれ、私って結構頑張っているかもしれない」という感覚がじわじわ出てきた。

誰かに認めてもらうのを待っている間は、「自分はどれだけ頑張ったか」をあまり客観的に見られていなかった気がする。

でも「自分がやったこと」を一個一個言語化してみると、「意外と色々やってるじゃないか」と気づけた。

ふたつ目は、「過去の自分と比べる」ことだった。

「3年前の自分は、1時間立ちっぱなしのバイトができなかった。今は6時間できる」 「1年前は、知らない人に電話するのが怖かった。今は普通にできる」 「半年前は、朝起きるのがつらくて毎日遅刻しそうだった。今は余裕を持って起きられる」

こういう「過去の自分との差分」を見ると、「あ、成長しているんだな」と実感できた。

他の人と比べると、しんどくなる。 でも過去の自分と比べると、「ちゃんと前に進んでいる」という感覚がある。

みっつ目は、「しんどかったことを、ちゃんとしんどかったと認める」ことだった。

「それくらい大したことない」 「もっとしんどい人はいる」 「弱音を吐いてはいけない」

そういう言葉を、他人から言われることもあるし、自分自身で自分に言い聞かせてしまうこともある。

でも「しんどかったことをしんどいと認める」ことが、意外と難しくて、意外と大切だった。

「あれは本当につらかった」 「あの頃の自分は、よく耐えた」

そうやって、過去の自分に対して、ちゃんと「それはしんどかったよね」と言ってあげると、どこかが楽になる感覚があった。

誰かに認めてもらうのを待つより先に、自分が自分の体験を「本物のしんどさ」として受け取ること。

それが「自分で自分を褒める」の、一番の核心部分かもしれないと今は思う。

頑張れない日が来たとき、どうするか

「もう頑張りたくない」と思う日は、たぶんこれからも来る。

一度「自分で自分を認める」を覚えたからといって、そんな日が来なくなるわけじゃない。

疲れたとき、誰かにきつくされたとき、思うようにいかないことが続いたとき。 また「もう無理」という気持ちが出てくる。

そういうとき、私がやるようにしていることがいくつかある。

まず、「無理に頑張ろうとしない」。

「頑張れない自分はダメだ」と思うと、さらにしんどくなる。 だから、「今日は頑張れない日だった」と、ただ認める。

頑張れない日があっても、明日消えるわけじゃない。 頑張れない日があっても、昨日までに積み上げてきたものが消えるわけじゃない。

「今日は休む」と決めることも、選択のひとつだ。

次に、「人に話す」。

ひとりで抱え込み続けると、「誰にも理解してもらえていない」という感覚が強くなる。 でも話してみると、「わかる」と言ってくれる人がいることがある。

「こんなこと言っても重い」とか「迷惑かけたくない」と思って、話せない人も多いと思う。

でも実際には、「しんどい話をされること」を重いと感じる人より、「話してくれてよかった」と思う人の方が多い気がする。

もちろん、誰でもいいわけじゃない。 話せる人がいないなら、SNSでもいいし、日記でもいい。

言葉にして「外に出す」ことで、頭の中でぐるぐるしていたものが少し整理されることがある。

それから、「小さなことを一個だけやる」。

「何もできない」と感じているときに、「全部やろう」とすると余計しんどくなる。

だから、一個だけやる。 コップ一杯の水を飲む。 窓を10秒開けて外の空気を吸う。 好きな音楽を一曲だけかける。

「一個やれた」という感覚が、少しだけエネルギーを補充してくれることがある。

「頑張れない日」に「何かひとつやれた」は、それだけでもう十分だと私は思っている。

「頑張れる日」と「頑張れない日」が交互に来ながら、人間は生きていくんだと思う。

ずっと頑張れる人なんていない。 ずっと頑張れない人もいない。

今日頑張れなくても、明日は違うかもしれない。 今月しんどくても、来月は少し楽かもしれない。

そういう波の中で生きていくことが、「生きること」なのかもしれない、と最近は思うようになってきた。

「褒めてくれる人がいない」という孤独について

「誰も認めてくれない」という気持ちの底には、「孤独」があると思う。

誰かに見てもらっている、誰かに必要とされている、誰かとつながっている。

そういう感覚が薄れると、「頑張っていても意味がない」という気持ちに近づいていく。

逆に言えば、「自分の頑張りを知っている誰か」がいると感じられると、それだけで続ける力になることがある。

私はこの話を、あるとき友人にしたことがある。

「誰も見ていないところで頑張っても、意味があるのかな」と言ったとき、その友人はこう答えた。

「見ていないのは、他の人だけで。あなた自身は、ちゃんと見ていたんじゃないの」

その言葉が、すごく刺さった。

確かに、私は自分の頑張りを自分で見ていた。 誰かに気づいてもらえなかっただけで、「誰も見ていなかった」わけじゃなかった。

自分が、見ていた。

その視点が抜けていた。

「自分が自分を見ている」ということが、どれだけ大きいことか。 そのとき初めて気づいた気がした。

「孤独」を感じているとき、人はどうしても外に目を向けがちになる。

「誰かに認めてもらえれば救われる」と思って、外から答えを探す。

でも実際には、誰かに認めてもらっても、それが長続きしないことが多い。

承認をもらうたびに、「もっとほしい」という気持ちが出てきてしまう。 ひとつ褒めてもらっても、すぐ次の承認を探してしまう。

それは、外から補充しているから、すぐ空になってしまうからだと思う。

内側に少しでも「自分を認める場所」が作れると、外からの承認がなくても、完全には枯れない状態になれる気がする。

ずっと頑張ってきた、あなたへ

この記事を読んでいる人の中に、「ずっと頑張ってきたのに報われない」と感じている人がいたら、伝えたいことがある。

あなたが頑張ってきたことを、私は知らない。 具体的に何をしてきたかも、どれだけ辛かったかも、直接聞いたわけじゃない。

でも、こういう記事を読んでいるということは、それなりのしんどさを抱えてきた人だと思う。

そのしんどさは、本物だと思う。

「それくらい当たり前」とか「もっとつらい人がいる」とか、そういう言葉で上書きされるべきものじゃない。

あなたのしんどさは、あなたのもので、あなたにしかわからない深さがある。

「頑張ったね」って言ってもらいたかった、という気持ちは、おかしくない。

それは弱さじゃなくて、ずっと頑張ってきた証拠だ。

頑張ってこなかった人は、そう思わない。 頑張り続けてきたから、「誰かに見ていてほしかった」という気持ちが生まれた。

だからその気持ちは、あなたのこれまでの時間が作ったものだ。

誰かに認めてもらえる日は、来るかもしれないし、来ないかもしれない。 それはコントロールできないから、正直なことは言えない。

でも、自分が自分に「よく頑張ってきたよ」と言えるようになることは、練習できる。

最初は照れくさくて、信じられなくて、「こんなこと言って意味あるの?」と思うかもしれない。

でも続けていくうちに、少しずつ「あ、そうかもしれない」と思える瞬間が来ることがある。

そのときまで、ゆっくりでいい。

「もう頑張りたくない」と思う日は、休んでいい。

頑張れないとき、無理に頑張ろうとしなくていい。

ただ、「頑張ってきた自分」を、なかったことにしなくていい。

あなたが積み重ねてきたものは、誰かに認めてもらえなくても、ちゃんとそこにある。

消えてなんかいない。

最後に、私がいつも心に置いている言葉を書いておく。

「誰かが見ていなくても、自分が見ていた。それで、十分かもしれない」

まだ完全には信じられていないけれど、少しずつ、そう思えるようになってきている。

あなたにも、いつかそう思える日が来ればいいなと思う。

ゆっくりでいい。

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