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バサロ

ほんのり生ぬるいプールの水温に肌がそばだつ。辺りにただよう塩素の香りが鼻腔をつらぬき、せり上がる高揚感を必死に抑える。

首から下は先に水中へ。右手の入水と同時に頭をすぐに沈め、右足を少し上にずらし母指球に力を込めてザラザラした壁を力強く蹴った。

鼻から息を思いっきり吐き出しながら、頭はぶらさず目線を下半身へ移していく。自分の身体が削る前のかつお節になる。──硬く、尖って、無駄のない塊。

足先が露出しないよう水面との距離を上手く調整しながら、腹筋に力を込めてバサロキックをお見舞いする。仰向けのまま揃えた両足で水塊を蹴ったくり、はしゃぐ水流にうねりをもたらしていく。 

15mの潜水制限を超えてからは、怒涛の背面バタ足である。酸素不足で視界がかすかに白む。頭上で泡立つ足を、すいすい追い越していく。

5mロープが見えた段階でターンへの意識と呼吸の調整を行う。壁の直前で体を反転させ素早くクイックターンを決めて、瞬時に水の抵抗を最小限にする姿勢、ストリームラインへ移行する。

また力強いバサロを繰り出し、15mを目指す。その間、一人抜き去ることを忘れずに。喉が勝手に空気を探し始めるが、なんとか15mで浮上し最後の全力グライドキックを行う。下半身に乳酸が溜まってくる。すぐに5mロープが見えて、もう一人の子に追い付きそうな段階で右手で壁をタッチ。

タイムは──

六未ろくみ! 1秒9! ……はっ? 1秒9? 31秒9?」

頭上からコーチの困惑する声が漏れた。41秒9だと思ったのだろう。コーチと選手たちがドン引きしてこちらを見ているのが分かった。

その後は、「5年泳いでないコイツにぼろ負けしてどうする! 六未以外、2本追加!」と本数を増やされていた。

練習の最後に、背泳ぎ50mのタイム測定もあった。結果は35秒台。キックより3秒以上も遅かった。終始腕がまったく水を掴まず、タッチと同時にコースロープに項垂れかかった。しばらく呼吸が整わなかった。

練習後に後輩20人にジュースをおごって、バイト代が消し飛んだ──全員が一番高い500mlペットボトルを選んでいた。

私がキックに取り憑かれたのは、小学2年生の頃だった。選手コースに入って間もない頃、コーチが何気なく言った言葉がすべてを変えた。

「水中で移動するほうが、水の抵抗が少ないんだぞ」

その一言が私の中で妙に引っかかった。水面でガチャガチャ泳ぐより、水の中にいたほうが速いんだ。それなら、できるだけ長く水中にいればいい。バサロキックをもっと極めればいい。そう考えた。

それからの私は、キックの感覚を研ぎ澄ますことだけに心血を注いだ。毎週、オリンピック選手の真似をし、風呂場にあったT字カミソリで足の産毛だけ剃った。少しでも「水を感じる感覚」を邪魔されたくなかったのだ。

練習水着は、当時主流だったスパッツ型やボクサーパンツ型には目もくれず、一番布面積が小さく足の可動域を邪魔しないブーメランパンツばかりを愛用した。さすがに試合では人目が気になりスパッツを選んだが、練習中の私は常に「足の自由」を求めていた。

テレビで世界水泳が放送されれば、注目するのは勝敗よりも「水中映像」だった。トップ選手が繰り出すバサロのしなやかな鞭のような動き。そこだけを録画で何度もリピートし、網膜に焼き付けた。

私は毎週土日、ギアなしの自転車でふた山超えてスイミングクラブに通っていた。朝6時開始だったから、5時過ぎには家を出発していた。他の子たちは親の車で送迎してもらっていたけれど、私は自分で漕いで行った。季節問わず、練習前には一人だけ汗だくだった。

小学4年生のとき、「ブンブン!」とアクセルを吹かしつつ交番前で信号待ちをしていたら、警察官に呼び止められ、「家出か?」と聞かれた。「これからスイミングだ」と説明し、大きなリュックの中身を見せた──水着一式、バスタオル、スイムタオル、プルブイ、パドル、ドリンク。

それでも信じてもらえず、家に電話が行った。母は警察に激怒し、祖母に至っては管轄の警察署長に苦情を入れていた。

人生初の職質に10分以上足止めを食らったが、そこから怒りをペダルに込めた。フルパワーの立ち漕ぎで、原付すら追い抜く勢いで登り坂を爆走し、区間記録を更新。練習には奇跡的に間に合った。──その日のキック練習は、珍しくヘトヘトだった。

小学6年生の誕生日、ようやくギア付きの真っ赤なマウンテンバイクを買ってもらった。が、中学に入ってすぐにギアが足りなくなった。一番重いギア比で急勾配も登れるようになっていた。

中学、高校と進むにつれて、私のキックは「異常」と呼ばれるようになった。

背泳ぎが専門で、全国大会には常連だった。ただし、予選で8~10位に食い込んで決勝進出したことは一度もなかった。そういう微妙な立ち位置にいた。それでも、キックの記録だけは誰にも負けなかった。

キックと、手足両方を使うスイムとのタイム差は、大体5秒以上あるのが一般的らしい。私は、短水路50mの背泳ぎを本気で泳ぐと28秒。背面グライドキックだけなら30秒。その差、2秒。キックだけで、スイムの9割近い速度が出せていた。

水泳の練習は、ひとつのコースを数人が列になって周回する。キックのメニューになると、自然と先頭への道があいていた。100mを超える距離では、最後尾に追いついて、周回遅れにすることも珍しくなかった。

その代わり、浮きを足に挟んで腕だけで進むプル練習はクソ雑魚だった。コースロープを周りにバレないように引っ張ることは常套手段。深くないプールなので、下半身は底を歩きながら上半身だけ泳いでいるように見せることもあった。──すぐにバレたが。上半身の力が圧倒的に足りなかったのだ。

ある時、コーチが提案した。

「キックが強いなら、フィンをつけたら、もっと速くなるんじゃないか?」

言われるがまま、ゴム製の足ヒレを両足に装着した。

結果は29秒だった。素足より、たった1秒しか変わらなかった。他の子たちは、3秒以上は速くなっていたのに。フィンの意味とは、という感じである。

理由はおそらく、足首の柔軟性にあった。私は足を伸ばして座ると、膝を浮かせずに足の裏が床についた。左足に至っては、地にめり込んでいたかもしれない。足の甲側への可動域が異常だったのだ。既製品のフィンでは私の足が満足しなかった。

その反面、逆方向、つまり足の裏側にはまったく曲がらなかった。これは平泳ぎ選手の特性と真逆である。案の定、私は平泳ぎがまったくダメだった。

じゃあバタフライは、と思うかもしれないが、重力に逆らえる上半身のパワーがないので、それも得意ではなかった。消去法で残ったのが背泳ぎだけだったのだ。次点はクロールだったな。とにかく平泳ぎは最悪。

私にとって、腕で水をかくストロークの区間は「バサロ前後のつなぎ」だった。

本当に大事なのは、スタート後の15m、ターン後の15m、そこで全力のバサロキックを決めること。──人間なので毎回15mは無理だったけれど。それでも、10~12.5mは潜水していたと思う。

だから、50mより100m、100mより200mのほうが得意だった。200mになれば、バサロ区間が増加し、キックの比重が相対的に高くなる。中学以降、全国大会の標準記録を切るのは、いつも200mからだった。

高校生の時、転機が訪れた。

ある大会で、全国1位を何人も輩出している有名なコーチに声をかけられた。

「鈴木大地にそっくりだな。バサロもフォームも」

鈴木大地選手。ソウル五輪の金メダリスト。バサロキックという概念を世界に叩き込んだ、私にとっては神様のような存在だ。その名前を自分に重ねられた瞬間、心臓が跳ねた。全国大会の表彰台に登るよりも、ずっと高く、ずっと遠い場所へ一気に引き上げられたような気がした。

「俺のクラブに来い」

何度も誘われた。そのコーチは「フォーム変えたほうがいいぞ」と、合宿や大会で会うたびに言ってくれた。

でも、私は行かなかった。

小学校から通っていたクラブを離れるのがはばかられるから、練習後の帰宅時間が夜遅くなるから、一学年上の背泳ぎ全国1位の選手が在籍しているから──。

レース前に緊張しなくなり、スタート位置についても心臓が高鳴らなくなっていた。電光掲示板に表示されるタイムが、無機質な文字列に思えた。

そんな当時の私にとって、電車で40分ほどの隣の市がやけに遠く感じられた。

結局、私は高校2年生の夏に水泳を辞めた。

当時の背泳ぎの主流は、入江陵介選手のローリング泳法。丁寧にS字を描くストローク。あの美しいフォームこそが、正義だった。

入江選手には、会ったことがない。それでも、身近な存在だった。3つ上の先輩が背泳ぎの全国レベルの選手で、海外遠征で入江選手と一緒になったのだ。

遠征に帯同したコーチは、帰ってきてから様子がおかしかった。自分が飲み干したペットボトルを、プールサイドの片隅に整然と並べ始めたのだ。まるで何かを祀るように、まるで何かに縋るように──不穏な気配がした。

その日から、水を少量入れたペットボトルを額にのせて、軸をぶらさない練習がメニューに加わった。

正直に言えば、私にあのフォームの再現は不可能だった。肩甲骨周りの柔軟性はなかったし、手の小指から入水するフォームは窮屈に思えて仕方なかった。

陸から見える腕の軌跡は、常に比較の対象だった。入江ナイズドされたフォームの選手が何人もいた中で、私のストロークはどう頑張ってもあの滑らかさには届かなかった。

だからこそのキックだった。水中は、誰にも見えない自分だけの世界。フォームの美醜びしゅうは関係ない。バサロもキックも、評価されるのはタイムだけだ。そこが、私の主戦場だった。

入江式フォームでは、1ストロークごとに4回キックを打つ、いわゆる4フォービート。でも私は、そのリズムに身体が馴染まなかった。

4回じゃ足りない。もっと蹴りたい。腹筋を使って、水を粉々に砕きたい。キックを「フォームを整える補助」に格下げされることが、どうしても我慢できなかった。

決定打は、水着だった。
折しも、レーザーレーサーに象徴される高速水着の全盛期。

下半身をガチガチに固めて浮力をもたらす新素材の水着が登場した。着圧を重視するため、腰から足首まで覆うロングスパッツ型が主流で、キック偏重の私にとっては動きを阻害する代物だった。

試合会場で、高速水着を友達に借りて履いてみることにした。薄いゴム手袋をはめ、コンビニの小さめのレジ袋を足に被せてから数ミリずつ引き上げる。──爪を立てればすぐにパンッと破れる。たかが水着なのに、装着に30分近く格闘した。

汗だくで慎重に歩を進めながら、大きな鏡のある洗面室に向かう。その姿を視界に入れたとき、腰から足首までが完全に見えなくなっていた。いや、見えている。黒に包まれて、そこにある。長年頼りにしてきたその一部分だけが、そっくりそのまま、だだっ広い水底に沈んでいるようだった。

ためしに指の腹でさすっても、水を蹴る感覚を刻んできたこの足の輪郭が、するりと手からこぼれ落ちていく。強固なポリウレタンに染め上げられた足は、もはや水の質感も水圧の揺らぎさえも伝えてこない。私の足のはずなのに、私の足ではない──。更衣室に戻り、頬を伝う水滴を何度も何度も拭いながら、30分かけてそれを脱いだ。

値段も高騰した。それまで1万2000円ほどだった試合用水着が、いつの間にか3万から5万円の世界に入っていた。全国で決勝に残る選手には、メーカーから「試しにどうぞ」と配給される。私は全国には出場できたが、決勝までは届かない。水着の性能差は、そのままタイム差になっていた。コンマ数秒を争う世界で、それは致命的とも言えた。

上半身をもっと鍛えればよかったのかもしれない。でも私の身体は、足首から先しか水を信じていなかった。

ただ、キックが得意。──それだけだった。

──31秒9。

5年間、まともに泳いでいなかった私が出した記録だ。大学生のころ、ふと思い立って古巣のクラブの練習に混ぜてもらった、あの一本。身体だけは覚えていた。

全国の決勝には一度も残れなかった。時代にも適応できなかった。鈴木大地似と言われたのにその道も選ばなかった。でも、キックだけは誰にも負けなかった。

ただ、最近知ったことがある──。バックストロークレッジ。スタート時に壁へかける補助器具で、バサロに爆発的なブーストをかける。これまで反則だったラスト5mの潜水も、ルール改正で解禁された。

時代が、こっちにやってきた。

人の少ない電車のホームに降り立つと、ふとバサロの感覚が蘇ることがある。遠ざかる電車のガタンゴトンという振動が、腹の底に響くボゴンボゴンという水を蹴る音にすり替わる。駅の静まり返った空気が、あのシンとしていない、くぐもった水中の静けさと重なっていく。 

心臓の音だけが鼓膜と脈動する世界。

足首だけが、いまも潜航している。

(終)

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