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旅するクルド人〜「クルディスタン」と出会うまで(日本編)

1、 日本にやって来たクルド人、ハサン・オヌル


出会い


 2019年、ハサン・オヌルとの関わりは、芽吹きの兆しを感じさせながらも風は冷たい、そんな季節に届いた見知らぬ女性からの一本のメッセージに始まる。

「婚約者のクルド人男性が、もう1年半以上も品川の入管に収容されており、精神的に追い詰められて自殺未遂を繰り返しています。一度、面会に行ってもらえないでしょうか」

 あぁ、まただ……。
 これまで何人の在日クルド人たちの悲痛な声を、入管の外国人収容所の面会室で聴いてきたことだろう。彼らの訴えを聴き、時にはその人生に耳を傾けてきた。国籍のあるトルコから逃れ、日本政府に難民申請をしているたくさんのクルド人は、日本で難民として認められることはなく、彼らはやがて在留資格を取り上げられ、仮放免という状態の非正規滞在者となっていった。そうしてある日、突然、外国人収容所に閉じ込められることになる。しかし、このハサン・オヌルの場合は少し状況が複雑だった。

 面会室に現れたハサン・オヌルは、翳りのある瞳の奥で一瞬こちらを見てから、力なく「こんにちは……」とつぶやき、イスに腰かけた。アクリル板の向こうで、暗い表情のままうつむくこのクルド人は、まだ27歳だった。少しクセのある黒髪と濃い眉毛、痩せた顎と白い首筋。まくりあげた袖から伸びた細い腕には、Emiという青黒い文字と小さな赤いハートが彫られている。Emiは、メッセージを送ってきた日本人の名前だ。
 ハサン・オヌルは片手で両方のまぶたを抑えながら、苦しそうに言葉を発した。
「わざわざ来てくれて、ありがとうございます……。でも……」
 日本語は、ものすごく上手だった。
「ジブンはもうこれ以上、ここで頑張ることはできません。大切な友だちも死んだ。ジブンももう死ぬしかないと思ってからだに傷をつけるのですが、こんなもんじゃなかなか死なない」
 そう言って、ハサン・オヌルはシャツをまくり上げ、横腹にある、今にも血が吹き出しそうないくつもの生々しい傷跡を見せた。刃物で何度も切りつけたような傷を、どうしてここでつけることができたのだろうか。入管のなかに危険な物は持ち込めない。
「……プラスチックのプレートをわって、そのとんがったところで……」


 ハサン・オヌルと面会する数日前にエミと会い、詳しい事情を聞いた。茶色の髪をハーフアップにした、小柄で優しげな、きれいな娘さんだった。
 ハサンは20歳のときに来日して、良心的兵役拒否を理由に難民申請をした。トルコには徴兵制度があり、学歴その他によって期間に違いはあるが、男子は20歳を過ぎると15ヶ月の兵役の義務を果たさなければならない。トルコ国内では、1923年の共和国建国以来、南東部のクルド人居住地域、いわゆるクルディスタンへのトルコ軍による弾圧が行われてきた歴史があることから、クルド人の中には兵役を逃れ、外国で良心的兵役拒否を理由に難民申請をする人も多い。自分たちの民族と故郷を弾圧する側に立ちたくない、というのは人間としては当然の感情だ。
「ハサンは親戚の人と川口に住んでいて、解体現場で肉体労働をしていたんです。わたしはその頃、地方の実家暮らしだったんですけど、ちょうど仕事を辞めて東京にきていたある日曜日に、新宿へ洋服を買いにきていたハサンと出会ったんです」
 たまたまカフェで隣り合わせて座ったのがきっかけで話しをし、すぐにお互い相手を気に入った。ハサン23歳、エミ22歳だった。
「わたしも東京で仕事を見つけたので、実家を出て、ハサンと暮らすことにしました。ふたりで一緒にお金を貯めて、結婚したいと思いました。もちろんハサンの事情も知っていました」
 ところが、そんな幸せな毎日は、たったの3ヶ月で幕を閉じることになってしまった。

「ハサンの難民不認定の結果が出て、在留資格が取り消され、仮放免となりました。入管の職員からトルコへ帰国しなさい、さもないと今後、収容することになると言われました」
 不認定が出ても、その後に異議申し立てにあたる「審査請求」ができるはずだが、エミはそれについてはわからないと言った。
「その職員からハサンは『自主的に帰れば、1年くらいでまたすぐ日本に戻ってこられるし、日本人の彼女と結婚したいなら一度トルコに帰って、兵役の義務を果たしてきなよ。それで難民申請なんてしないでも、結婚ビザが取れて日本にいられるよ』と言われたんです。ハサンは仮放免になって働けなくなったり、収容されて時間を無駄に過ごすより、早く結婚するために、入管職員の勧めを受け入れることにしました」
 その頃、1回目の難民不認定が出たのち審査請求への詳しい説明がなく、そのまま2回目の難民申請をしてしまうような事例がいくつかあり、問題になりかけていた。審査請求がきちんとされていれば、参与員(入管職員ではなく弁護士や学者、難民関係の専門家などから構成される)からのインタビューを受けることができ、書面だけの一次審査よりもさらに自分の生の言葉、声で事情を伝えるチャンスがもらえるのだが、その機会の提供が適切になされていない、あるいは当事者に伝わっていないというケースがあった。そんななかで甘言で帰国を迫られる。ハサンも入管の帰国勧奨に応じる形となったのであろうか。

 ともかく、そうしてハサン・オヌルはトルコへと帰国し、覚悟を決めて兵役に向かった。幸運なことに、ハサンはイスタンブルで通信関係の任務に就くこととなり、トルコ南東部での治安維持に配属されることはなかった。しかも期間は12ヶ月。兵役中の休暇に合わせて、エミはトルコを訪れ、10日間をハサンとともにイスタンブルで過ごした。
 除隊の日、エミは再びイスタンブルを訪れ、ハサンとともに彼の故郷であるガジアンテップへ向かった。エミはハサンの家族から婚約者として迎えられ、家族同様にひと月をともに暮らした。ハサンの母親から郷土料理を教えてもらい、姉のハティジェとは英語でたくさん話しをした。そして父親や兄のユスフから、見よう見まねで羊たちの扱いを教えてもらった。ユスフは中学を出てからずっと、父親とこの仕事をしていると言っていた。ハサンの父親は左足が不自由らしく、少し足を引きずっていた。
 ハサンの家はもともと村でたくさんの山羊や羊の放牧をしていたが、事情があってハサンが生まれる前に町へ移住し、郊外で羊の繁殖と飼育などを手がける関連の仕事を始めたという。生活はわりと豊かな方なのではないかと感じたが、両親はこの仕事をハサンにはさせたくないそうだ。
「本当は子どもたちにはもっと苦労の少ない生活をしてほしい、そう言っていました。ハサンは高校までしか行っていないけど、お姉さんは大学まで行ったそうです。ハサンには、自分の人生だから、日本に行くと決めたなら諦めずにそこでがんばりなさい、と言っていました」
 8月のひと月をガジアンテップで過ごし、ふたりはハサンの家族と羊たちに別れを告げて、イスタンブル経由で東京に向かった。飛行機の中でのおよそ10時間、ふたりは一睡もしないで、これからの結婚生活への夢を語り合った。
「オレ、本当に日本に入れるのかな?」
 ハサンがふと不安そうな表情を見せると、エミは力強く答えた。
「大丈夫よ。わたしと一緒なんだから、入国できないわけがないじゃない」
 やがてイスタンブル発のトルコ航空機は成田空港に着陸した。

 日本人と外国人では入国審査のブースが別なため、それぞれ審査を受け、一緒に荷物を取りにいくはずだった。だがいつまで待っても、ハサンと合流することができなかった。エミは不審に思い、外国人担当の窓口に問い合わせに行った。
「一緒に到着したハサン・オヌルが出てこないのですが、何かありましたか?」
 係官はちょっとお待ち下さい、と言って奥に引っ込んだあと、しばらくして渋い表情をしながら戻ってきた。
「ハサン・オヌルさんは、入国できませんので、いま降りた飛行機でそのまま帰国してもらうしかありません。」
「え! 入国できない、ってどういうことですか?」
「ハサン・オヌルさんは、昨年の4月に退去強制を受け入れてトルコに帰国していますので、まだ日本には入国できません。トルコへ帰国するしかありません」
「え? うそ……1年で戻れるはずじゃないんですか? 私たち結婚するんです。そのために日本に戻ってきたんです」
「でも、まだご結婚されていないんですよね?」
「帰国したら届けを出すつもりでした。それなのに、日本に入れてもらえないんですか?」
「正式にご結婚されていたとしても、ハサン・オヌルさんの場合は、5年間は入れない可能性が高いです」
「そんな……。ハサンはこのままトルコへ送り返されるんですか?」
「そうですね」
 エミは血の気が引いてその場に倒れそうになったが、なんとか気丈に振る舞った。
「ハサンはいま、どこにいるんですか? 会わせてください」
「会うことはできないんですよ……」
 係官は気の毒そうに応えた。今度こそエミは気を失いそうになった。

 その頃、ハサン・オヌルは入国審査室で、審査官と向き合っていた。
「なんで日本に入れないんだ! オレはあんたたちが言うように、トルコで兵役の義務も果たしてきたし、エミと結婚するために一緒に日本に戻ってきたんだ。自分で帰国したら1年くらいで日本に戻れるって言ったのは、あんたたちじゃないか!」
「それは知りませんが、あなたの場合は退去強制といって、帰りなさいという命令が出ていたので、強制送還じゃなくて自主帰国だとしても、5年は日本に戻ることはできないルールになっているんです。だからね、無理……」
「なんでだよ、ふざけるな。エミに会わせろ!」
「落ち着いてください。あなたを入国させることはできません。あの飛行機で、トルコに戻りなさい」
「絶対に戻らない。飛行機には乗らない。エミに会うまで、ここを動かないからな」
「それならば仕方がありません。あなたはいまから、上陸防止施設へ移動してもらいます」
「は? なんだよソレ。エミに電話させてくれ! 携帯を返してください!」
「移動してからにしましょう。荷物はあとで届けます」
 そうしてハサン・オヌルは、空港の外へは出られなくなった。
 その後、エミは電話でハサンと話し、弁護士に相談した。そして空港内で再び難民申請をすることになった。兵役を済ませたハサンの新しい難民申請の理由は「クルド人政党の集まりに参加していたところを、治安組織に乱入され暴力を振るわれて怪我を負い、警察に連行されて拘束された」という「経験」によるものであった。難民申請は再び受理された。だがその数日後、彼は日本に入国することなく、品川にある東京出入国在留管理局の外国人収容施設へと移送されたのだった。

別れ


 入管の面会時間は30分、しかしハサンの訴えは終わらなかった。
「どうすれば、ここを出られますか? もう1年半もここにいます。仮放免のアプリケーションをなんども出しているけど、ぜんぜんダメ。逆らうと手錠をはめられて、何人もの係りから気絶するほど身体中を押さえつけられて、懲罰房に閉じ込められる。その繰り返しで、先のことなんて何も見えないから、もうここで死ぬしかないんだと思う……」
 係官が面会室の扉を開け、時間を過ぎていると伝えた。
「入管のなかで友だちが死んだんです。もうすぐ1年になる」
 係官が部屋に戻るよう言い、促すように手を差し出した。ハサンは立ち上がって、アクリル板に手のひらを押し付け、「じゃあ、ありがとうございました……」と言うと、係官の手を振り払うようにして面会室を出ていった。
 入管を出るとエミに電話をし、面会の様子を報告するとともに、ハサン・オヌルの言った「入管のなかで友だちが死んだ」という話についての確認をした。
「はい。去年の春、品川の入管で仲良くしていたインド人の若い男性が、茨城にある牛久の収容所に送られて、その後に自殺しました」
 新聞にも掲載され、長期収容の弊害として外国人支援団体の間でも問題になった2018年の出来事だった。ハサンの友だちだったとは……。
「アシフさんとハサンは、品川で同じ部屋にいたんです。ハサンはアシフさんのことを兄のように慕っていました。とても絵が上手な人で、ハサンが私とのことをアシフさんに話すと、それを絵にしてくれて。そしていつもハサンを励ましてくれたそうです。だいじょうぶだよ、ハサンはかならずここから出て、エミと結婚して幸せになるよって。ハサンはアシフさんに話しを聴いてもらって、絵を描いてもらうことで、心を保っていたんです。でも、アシフさんは突然、牛久に送られてしまいました。アシフはもうずっと外に出られない、みんなそう言っていたんだそうです。あの日、ハサンの面会に行ったら、ハサンが泣きはらした目で現れて、私の顔を見るなり『アシフが死んだ』と言って、テーブルに頭をぶつけながら号泣し始めました。私もすごいショックでしたけど、ハサンのことが心配でした。彼があんなに痩せて、死ぬことしか言わなくなったのは、そのことがあってからです。もう1年経ちましたが、ハサンの気持ちは癒えるどころか、どんどん悪い方向に行ってしまっています。近ごろは、食事も拒否しているようです。今度は、ハサンが死んでしまうのではないかと……」

 牛久の収容所では、多くの被収容者たちがアシフの死をきっかけに、ハンガーストライキを起こしていた。その頃、オーバーステイとなり入国管理局から帰国するように強制された外国人たちのうち、それを拒否した人たちが収容所に無期限で拘束されているのだが、帰国を拒否する外国人たちには、家族が日本にいる、帰国すれば迫害の恐れがあるなど、皆それぞれに帰国できない理由があるのだった。しかし入管はそれらの事情にはお構いなしで、在留資格がないことを理由に強制送還か収容継続かという選択を迫っていた。
 牛久のハンガーストライキが、品川にも飛び火していることは聞いていた。ハサンが食事を拒否しているのは、ハンガーストライキに同調しているからなのか、あるいは自分の精神状態からきているのか分からないが、とにかく心身ともに危険な状態であることは間違いなかった。
 入管内部にも非常勤の医師が通ってきていたが、診察を受けるまでには何週間もかかり、また診てもらえたとしても、対症療法として痛み止めやビタミン剤が処方されるにすぎないことはこれまでの経験から分かっていたので、まずはなんとかハサンを外部の病院で診察を受けさせるようにしなければならなかった。エミと相談して、ハサンを担当している弁護士と外国人を支援している医師とともに、一週間後にふたたびハサン・オヌルの面会に訪れた。彼はさらに痩せてしまい、表情は一層暗く、声にはまったく張りがなくなっていた。同行した医師は、ハサンの様子を見た途端に顔色を変えた。
 医師はその場で、至急外部の病院へ連れていき点滴を受けさせることと、心療内科等の専門医に診せることの必要性を書き、その意見書を入管の総務課に提出した。
「あのままだと、彼は衰弱して、身体の機能をダメにしてしまう可能性がありますね。しかもかなり強い希死念慮がありますから、精神科医に診てもらったほうがいいと思います。手遅れにならないうちに、対応してください。何かあれば、またマスコミに騒がれますよ」
 医師の言葉に、総務課の係官は面倒臭そうな顔をして、担当部署に届けます、と言った。

 数日後、エミから連絡があり、ハサンが都立M病院に入院したことを知った。そこは都内でも有数の精神科医療の専門病院であった。
「昨日、入管がハサンをM病院に連れていったんです。お医者さんがこのまま収容所に戻すわけにはいかないって言って、入管の職員と言い合いになったらしいんだけど、結局、とりあえず3日間ほど入院することになったようです。ハサンとはLINEで連絡が取れます」
 入院できたことで一旦ほっとしたが、ハサン・オヌルが入管の車で病院に連れて行かれるところを想像して、暗澹たる気持ちになった。収容されている外国人が外の病院で診察を受けるときには、手錠と捕縄が装着されるのだ。まるで犯罪者であるかのように。
 20年ほど前から、これまで何人ものトルコ出身のクルド人が入管に収容されるのを見てきた。彼らを解放してもらうために入管に仮放免の請願書を提出し、面会で聞いた処遇面への改善希望などについて関係部署と交渉したりなどということをしてきたが、本当に入管と向き合うと疲弊した。まるで人間と話しているような感じがしないのである。ただただオウムのように「法に則り、適正に対処しています」と繰り返し唱えるだけ、いまどきはAIのほうがまだマシな応答をする。
 特に、2020年の東京オリンピック招致が決まった後は、それがより一層ひどくなった。『安心・安全』という美名のもと、外国人の取り締まりが異常に強化され、個別の事情は一顧だにされず、オーバーステイになればどんどん収容あるいは強制送還されるようになった。そして一度収容されればそれは無期限で長期に渡り、帰国できない事情のある外国人たちは、先の見えない収容所のなかで心身を蝕まれていった。2018年2月第2次安倍政権のもとで、法務省は「被退去強制令書発付者に対する仮放免措置に係る適切な運用と動静監視強化の更なる徹底について(指示)」という通達を発出した。 これは仮放免と収容について、さらに厳しく過酷なものにした運用であるが、この状況を見ることで、支援者自身もどんどん傷ついていくのが分かった。それでも、彼らのことを知ってしまえば、そのまま放置することもできない。出口の見えない彼らの状況を目の前で見続ける支援者ら自身も、彼らとともに真っ暗なトンネルのなかにいるようで、気持ちが晴れることはなかった。

 ハサンの面会をしたり、仮放免の請願書を出したり、情報公開請求などをしながら、支援者らはエミとハサンの闘いを傍で見守ってきたが、ハサンが収容所から解放されることはなかった。そして収容から1年8ヶ月経ったある日、ハサン・オヌルに退去強制が言い渡され、2週間後の強制送還の日程に向けて、入管職員による自主帰国への説得が始まった。
 難民申請者は当時、送還停止効というものによって本国への強制送還はできないことになっていた。国連の難民条約によって禁止されており、それを批准している日本でも入管難民法で禁じられていた。2024年6月に改定入管難民法が施行されるまで、難民申請者を帰国させる方法は、本人に「帰ります」と言わせて自主的に帰国させることであった。以前にハサンが入管の口車に乗せられ、自ら帰国していったときのように。だが、その時代にあっても、入管は難民申請手続きのスキを狙って、突然、身体を拘束した状態で飛行機に乗せるなどという蛮行を、実際にはすることがあった。
「弁護士の先生が送還を止めるために裁判所に執行停止命令を出してもらうと言ってるのよ。ハサン、自分から帰るって言わないで」
 エミの言葉に対して、ハサン・オヌルは面会室のアクリル板越しに言った。
「これ以上、エミに悲しい思いをさせたくない。……もう終わりにしよう。オレ、トルコに帰るよ……。日本でエミと結婚して、ふたりで幸せな家庭を作るなんて、夢だったんだ」
「なに言ってるの、夢を諦めるの? ハサンは私を諦めるの?」
「できるなら、エミをトルコに連れていきたいよ……。でも、それはできないし」
「……それは…やっぱり無理よ。私はトルコには行けない。いつも言ってるよね。お母さんがひとりぼっちになっちゃう。私が東京で暮らすっていうだけでも、お母さんにとっては辛いことだったから」
「うん、分かってる。だから、エミをトルコには連れていけない。……それに、クルド人のオレがトルコでまともな職につけるのか、エミを養っていけるのか、いつか子どもだって欲しかったけど。でも……。
でも……オレ、トルコに帰るのが本当に怖いよ」
「だから、だからもう少しだけ、頑張ろう? 弁護士が裁判を起こすことができるって言ってるから。きっと、ここから出られるから」
「……ここにいる外国人たち、みんな言ってるよ。オレたちは東京オリンピックが終わるまでは、絶対にここから出してもらえないって。それって、まだ2年近くもあるよ。そうしたらエミは27歳になっちゃうじゃん」
「オリンピックが終わるまでここから出られないなんて、そんなこと絶対ないよ。それに、私はいくつになってもハサンを待ってるよ」
「だって、ずっとひとりで待ってるの? あの部屋で、これからもずっとひとりで?」
「……もう、やめて。ハサン、ぜったいに自分から帰国するって言わないで。お願いだから」
 そう言って、エミは泣いた。ハサンも泣いていた。

 面会室の片隅で、ふたりの会話を黙って聴きながらこちらも悲しみを勝手に共有していたが、こんな理不尽な状況があっていいものかという怒りと同時に、冷静に事態を見直し続けていた。もし、ハサンとともに一時的にエミがトルコに行くことができるなら、トルコの日本大使館に婚姻届を出せばいいんじゃないか? そして、ハサンがふたたび日本に入国できる5年後まで、エミがトルコと日本を行ったり来たりすればいいんじゃないか? そもそも、最初からそうすれば良かったんじゃないか? いや、それよりも、まだ在留資格があったあの頃、ふたりが一緒に暮らし始めたときに、さっさと結婚してしまえば良かったのに。そうすれば、こんな複雑なボタンの掛け違いにならなくて済んだのに……そう思ってから、はっとした。ふたりに罪はない。若いふたりが、自分たちで自分たちの幸せを描いて、それをつかみ取ろうとしてきた。一生懸命にその時その時で考え、自分たちなりの最善な答えを導き出してきたはずだ。だが、その時に誰かから適切なアドバイスを受けていたら、こうはならなかっただろう。他人があとから、こうすれば良かったのに、などと無責任に言えるような話ではないのだ。
 現実として、トルコにはクルド人に対する差別や迫害があって、日本の入管には外国人に対する厳しい対応がある。それでも、難民申請などに固執せず別な道を探してみればよかったのかもしれない、という思いは拭えない。日本で難民として認定されるなどということは、まるで雲をつかむような話しなのだから。日本は未だにそういう国なのだ。
 大きな問題と個別の事情、そのふたつが相俟って、物事は深く複雑になっていく。

 一週間後、ハサン・オヌルは日本に上陸することなく1年8ヶ月余りを外国人収容所で過ごし、痩せ衰えて、失意のなかガジアンテップに戻っていった。エミももう闘いに疲れ果て「やはり終わりにすることにしました。別々の道を生きることにします」というメッセージを送ってきた。


 そもそもハサン・オヌルはなぜ日本に来ることになったのだろうか。
 2、ガジアンテップから飛び立つ日 に続きます。

(文責:クルドを知る会)






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