僕は詩人になんかなれない
僕は、都内の芸術系大学に通う大学生だ。芸大生といっても、音楽や絵画が書けるわけでも、それに精通しているわけでもない。ただ人よりちょっと
「ことば」に敏感で、こだわりを持っているだけの人間だ。
そういう立場だから、いつだってはじめましての人にこう聞かれる。「何をやっている人ですか?」と。そんなとき、僕はずっと「自称詩人」、そう名乗ってきた。詩人なんてぶっちゃけ誰でもなれる。早速標題と矛盾したじゃないか、まあまあ。誰だって「詩」を書けば一人前の詩人だ。名乗るだけタダだ。だから僕はタダだから名乗ってますよ、という意味合いで「自称」を付けている。
そんな僕だが、最近僕は「詩人」にはなれないんじゃないか、と思っている。そんな話を、ここでしていきたい。
まず、詩人にはふたつあるということをはっきりさせておきたい。ひとつ目は先ほど例示した「自称詩人」。これはただ「詩」を書いているだけ。これには僕もなれる。ふたつ目は「(本当の意味での)詩人」だ。これは自身の内的世界を、当人の必然性をもって技巧的に描き切っている、あるいは描こうとしているものだ。僕はこれにはなれないと思う。なぜなら単純に詩がヘタだからだ。身も蓋もない理由じゃないか、まあまあ。
とにかく、僕は詩がヘタなのである。どのように下手か。まずもって比喩が拙い。表現の幅も深度も狭いから、読者に与える解釈の幅や深みが損なわれている。
さらに、論理的すぎるのも致命的だろう。僕は基本的に論理性と合理性を重んじるのだが、詩は論理的ではないし、合理性なんてものもない、早い話、対極にあるのだ。
最後がいちばん問題なのだが、僕は「ことばを信じて」いる。え、いいんじゃないの?そう思うだろう。僕の考えでは、詩なんてものは「ことば」を信じていないほうが遥かに書きやすい。なぜならば、詩の本質はその「実存」であってその「ことば」ではないからだ。詩はその人の苦痛や懊悩、そこから流れ出る一筋の血液であって、無味乾燥な記号、もっと言うならインクの染み、あるいはブルーライトではない。
たしかに僕は苦悩や懊悩を持ってはいるが、しかし、その「ことば」を信じすぎるがゆえに、抒情に託したり、解釈に委ねたりすべき余白を埋め立ててしまっている。僕は「ことば」ですべてが表現できるかのように、「ことば」を扱ってしまっている。これが表現を毀損しているのだ。
さて、ここまで私がなぜ詩人になれないかを書いてきた。別に詩人になりたいと思うか思わないかに関わらず、人は気がつけば詩人になっているかもしれないし、そうでないかもしれない。そんな巡り合わせだと思う。初夏の候、気温の変動が激しいので、お身体に気をつけて。では。
