第15章 外縁の追撃 第10節 灰色の青年
灰色の名残は、城壁の内側へ細く伸びていた。
南外縁の排水口から離れ、古い見張り台の方角へ引かれている。
逃げているのではない。
声を通す道だけが、白い印の縁をなぞるように残っていた。
クリス「見張り台って、今は使ってない場所だよね」
フォーレスト兵「はい。外側の見張りは別の塔へ移されています」
クレフ「だから人目が少ない」
リゼ「支点を置きやすかったのだと思います。灰色の印ほど強くはありません。声を沿わせるための結び目です」
向かうのは、クリス、リゼさん、案内役のフォーレスト兵一人だけ。
人数を増やせば、敵の言葉に揺れる数も増える。
今は、速く、静かに動く。
古い見張り台は、城壁の内側に半ば埋もれるように残っていた。
石造りの低い台座。
かつて木組みの足場があったのだろうが、今は礎石だけが並んでいる。
その中で、一つだけが乾いていた。
霧を受けているはずなのに、水気がない。
クリス「ここね」
リゼ「はい。白い印の返りが、ここで細くなっています」
案内役の兵が近づこうとした。
手で制する。
クレフ「触るな」
フォーレスト兵「はっ」
礎石の表面に、印は見えない。
灰色の光もない。
けれど、白い印の返りだけが石の奥へ吸い込まれている。
リゼさんが膝をつき、手をかざした。
リゼ「刻まれた印ではありません。白い印の流れに、声を絡めるための結び目です」
クレフ「ほどけますか」
リゼ「できます。ただ、近づけば向こうにも気づかれます」
足元の石が冷えた。
白い印の縁を伝って、灰色の声が戻ってくる。
影「来ましたね」
クリスが弓を構える。
リゼさんは手を引かない。
クレフ「ここが、お前の声の支点か」
影「支点というほど大げさなものではありません。少し声を置いただけです」
クレフ「その少しで、守りを揺さぶれる」
影「守りは、力だけでできていませんから」
声は近い。
石の下から響くというより、目の前に立つ誰かが薄い布越しに話しているようだった。
影「あなたは答えを急がない」
胸の奥が、わずかに冷える。
影「ですが、急がない者ほど、最後に選ばされる」
その言い方。
ただの敵が投げる言葉ではない。
こちらの癖を見ている。
会議室での何気ない視線。
遠慮があるようで、どこか踏み込んでいた青年の顔が浮かぶ。
ゼラス。
もう、ただの思い違いではない。
だが、まだ名は出さない。
クレフ「リゼさん、ほどけますか」
リゼ「はい。白い返りを礎石の外側へ少しだけ動かしてください。灰色の絡みが浮きます」
影「私を無視しますか」
クレフ「問いには乗らない」
影「では、何に乗るのです」
クレフ「お前が声を置いた場所だけを見る」
灰色の声が、一瞬沈黙した。
その沈黙が答えだった。
クリス「当たりだね」
影「勘の良い方は嫌われますよ」
クリス「あなたに好かれたいと思ってない」
リゼさんの指先に、白い光が浮かぶ。
礎石の周りに眠っていた線が、石の継ぎ目に沿って細く現れた。
そこへ灰色の糸のようなものが絡んでいる。
力を押さえ込む印ではない。
声を通すためだけの細い絡み。
剣を抜く。
斬るためではない。
剣先を礎石の外側へ置き、青い光を薄く広げる。
白い返りを少しだけ持ち上げる。
クリス「石、揺らす?」
クレフ「中心は外して。絡みだけ緩めてくれ」
クリス「任せて」
矢が放たれた。
礎石から少し離れた継ぎ目に刺さり、乾いた音が響く。
灰色の糸が緩んだ。
リゼ「今です」
剣先を押し込む。
青い光が白い線の縁をなぞり、灰色の糸を下から浮かせた。
リゼさんの手が動く。
白い印が、静かに目を覚ます。
灰色の声が揺れた。
影「乱暴ですね」
クレフ「お前ほどじゃない」
影「私は壊していません」
クレフ「眠らせた。揺さぶった。通り道にした」
影「使い方の違いです」
クレフ「違う」
灰色の糸が、一本切れた。
声が濁る。
初めて、余裕の奥に引っかかりが見えた。
クレフ「白い印は、誰かを迷わせるためのものじゃない」
影「では、誰のためのものですか」
クレフ「それをお前に決めさせない」
白い光が広がる。
灰色の糸が、礎石から剥がれた。
声が遠のく。
その直後、礎石の影が立ち上がった。
灰色の霧が、人の形を取る。
今までのような輪郭だけの影ではない。
顔がある。
肩がある。
旅装の線がある。
会議室で見た、あの軽い笑みがそこにあった。
クリス「人……?」
リゼ「クレフ様、下がってください」
下がらない。
剣を構えたまま、灰色の青年を見据える。
クレフ「ゼラス」
名を呼んだ瞬間、クリスが息を呑んだ。
クリス「クレフ、知ってるの?」
灰色の青年は、少しだけ笑った。
ゼラス「はい。覚えていてくれて、助かりました」
その声は、もう影のものではなかった。
会議室で聞いた声。
旅の青年として、何気なく近づいてきた男の声だった。
クリス「あなたが、これを?」
ゼラス「全部ではありませんよ」
クリス「そういう言い方、嫌い」
ゼラス「よく言われます」
リゼ「あなたは、白い印の由来を知っているのですね」
ゼラス「由来、というほど綺麗に語れるものではありません」
クレフ「ゼラス。お前はゾマー軍の者か」
ゼラス「違います」
迷いのない即答だった。
クレフ「なら、なぜゾマーの攻勢に合わせた」
ゼラス「使えるものを使っただけです」
クリス「最低」
ゼラス「否定はしません」
クレフ「白い印を眠らせたのも、お前か」
ゼラス「その一つは、私です」
その一つ。
すべてとは言わない。
だが、関わっていないとも言わない。
外のゾマー軍。
内側の灰色の印。
白い印への問い。
それらを繋げていたのは、少なくとも目の前の青年だった。
クレフ「目的は何だ」
ゼラス「まだ早いですね」
クレフ「早くない」
ゼラス「早いですよ。あなたはまだ、その白い印が何を守っているのか知らない」
白い光が、わずかに揺れた。
ゼラスの言葉に従ったのではない。
その奥にある何かを、印が覚えているような揺れだった。
リゼさんが息を呑む。
ゼラス「ほら。印は覚えています」
クレフ「黙れ」
ゼラス「またそれですか」
クレフ「お前の答えは、今は要らない」
ゼラスの笑みが、ほんの少し消えた。
クレフ「お前が何を知っているかは、後で確かめる。だが、ここを通して話すことは、もうさせない」
リゼ「支点はまだ残っています」
クレフ「止めます」
ゼラス「止めれば、私の声は遠くなりますよ」
クレフ「十分聞いた」
ゼラス「私の顔を見ても?」
クレフ「ああ」
ゼラスは目を細めた。
会議室の軽さは、もうない。
ゼラス「では、覚えておいてください。私は敵です」
クリス「言われなくても」
ゼラス「けれど、ゾマーではない」
リゼ「では、何者ですか」
ゼラス「それは次に」
クレフ「次を選べると思うな」
剣先を礎石へ向ける。
青い光を広げる。
リゼさんが白い印を起こし、クリスの矢が最後の継ぎ目を射抜いた。
白い光が礎石を囲む。
灰色の糸が、まとめて浮いた。
ゼラスの姿が大きく揺れる。
ゼラス「本当に、迷わないのですね」
クレフ「迷っている」
ゼラスの目が止まった。
クレフ「それでも止まらない」
白い返りが走った。
灰色の糸が切れる。
礎石から、声の通り道が剥がれ落ちた。
ゼラスの姿が薄くなる。
消える直前、青年は静かに笑った。
ゼラス「なら、次は選ばせます」
クレフ「何を」
ゼラス「白い印を守るか。白い印の意味を知るか」
灰色の姿が崩れる。
残ったのは、薄い冷気と、ほどけた灰色の名残だけだった。
声はもう響かない。
白い印の返りだけが、静かに城壁の内側へ戻っていく。
クリスが弓を下ろした。
クリス「……あれが、ゼラス」
クレフ「ああ」
リゼ「ですが、今の姿が本体かどうかは分かりません」
クレフ「それでも、もう影じゃない」
フォーレスト兵「クレフ殿下……今の者は」
クレフ「今見たことは、女王陛下とセリザにだけ伝える。名は広げるな」
フォーレスト兵「はっ」
声の支点は止めた。
これで、ゼラスはこの場所から白い印へ声を投げられない。
だが、終わってはいない。
白い印を守るか。
白い印の意味を知るか。
その二つを分けてきた以上、次の仕掛けはそこにある。
クレフ「セリザのところへ戻る」
クリス「うん」
リゼ「急ぎましょう」
古い見張り台の礎石から離れる。
灰色の糸はない。
声もない。
けれど、ゼラスの言葉だけが残っている。
私は敵です。
けれど、ゾマーではない。
敵の名は掴んだ。
声の支点も止めた。
その先へ進むために、白い印の返りを背に城壁の内側へ走った。
第15章第11節へ続く
第15章第10節を読んで頂きありがとうございます。
今回は、灰色の名残を追った先で、ついに灰色の青年の正体へ踏み込む回でした。
第9節でクレフたちは、敵の問いそのものに答えるのではなく、その問いを投げた声の支点を掴みました。
その支点があったのは、今は使われていない古い見張り台の礎石。
そこに残されていたのは、白い印を壊すための強い印ではなく、白い印の流れに声を絡めるための細い結び目でした。
敵は、力で守りを破るだけではなく、言葉で守る者の心を揺さぶろうとしていました。
けれどクレフは、問いの中身に飲み込まれず、声を置いた場所だけを見ます。
そして支点を断ったことで、灰色の影はついに人の姿を取りました。
現れたのは、会議室で出会っていた旅の青年、ゼラス。
彼は自ら「私は敵です」と告げます。
けれど同時に、「ゾマーではない」とも語りました。
ゾマー軍の攻勢に合わせ、白い印を眠らせ、声を通して問いを投げてきた者。
その正体は見えました。
けれど、目的まではまだ見えていません。
ゼラスが最後に残したのは、白い印を守るか、白い印の意味を知るか、という選択でした。
守ることと知ること。
その二つを分けて迫ってくるところに、彼の次の狙いがあります。
第15章の追撃は、灰色の仕掛けを追う段階から、ゼラスという人物そのものへ向き合う段階へ入りました。
次回もよろしくお願いいたします。
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