第15章 外縁の追撃 第4節 耳の先の影
北側へ向かった兵の足音が、古い管理路に小さく響いていた。
大きすぎない。
隠しすぎもしない。
ただ、人がそちらへ進んでいると分かる程度の音。
灰色の光は、土の奥で一度瞬き、それからわずかに北へ傾いた。
効いている。
けれど、長くは続かない。
クレフ「急ぐ」
声は落とした。
クリスとリゼが頷く。
こちらは壁際を選び、南東へ回った。
水のない古い道は、足音を妙に吸い込む。
進むたび、靴底の下で乾いた砂がかすかに鳴った。
その音さえ、敵に届く気がした。
クリス「まだ、外側の守りには触れてない」
クレフ「今は?」
クリス「さっきより近い。でも、北側の音を追ってる」
リゼ「置かれた痕跡が、反応を拾う向きを変えています。今なら抜けられます」
今なら。
その言葉に背を押される。
だが、急ぎすぎれば音になる。
音になれば、敵の耳に届く。
足を速めたい衝動を押さえ、呼吸を浅くした。
角を曲がる。
白い霧が薄く流れていた。
霧そのものは動いていない。
通路の奥から入る外気に押され、壁際を滑っているだけだ。
その先に、低い石段があった。
五段だけの古い段差。
下りた先で、通路は狭い溜まり場のように広がっていた。
壁の下には、水を流していたと思われる細い溝が残っている。
水はない。
けれど、その溝の底だけが白く光っていた。
リゼ「ここが、受け手です」
クレフ「さっきの標石の先か」
リゼ「はい。あちらが耳なら、ここは聞いたものを返す場所です」
返す場所。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
敵はただ聞いていたのではない。
聞いたものを、どこかへ返している。
その先にいる誰かへ。
クリスが弓を構えた。
矢はまだ番えていない。
それでも、弓を握る指に力が入っているのが分かった。
クリス「クレフ」
クレフ「ああ」
溝の白い光が、ふっと細くなった。
次の瞬間、灰色の滲みが浮かぶ。
水面などない。
それなのに、溝の底で波紋のように広がり、人の影に似た形を作った。
兵の一人が息を呑む。
クレフ「下がるな。足音を立てる」
兵の動きが止まった。
影は立っているように見えた。
けれど、そこに人がいるわけではない。
灰色の滲みが、人の輪郭だけを真似ている。
顔は見えない。
目もない。
それなのに、こちらを向いていると分かった。
影「……思ったより、早い」
声がした。
男の声だった。
低すぎず、高すぎない。
礼儀正しい響きすらあるのに、耳の奥に薄い棘が残る。
クレフ「誰だ」
影「名乗るほど、まだ近くにはおりません」
クレフ「なら、近くに来る気はあるんだな」
影は、笑ったように揺れた。
音はない。
ただ、輪郭が細かく震えただけだった。
影「正面を残した判断は悪くありません。あの耳を壊さなかったことも」
クリス「聞いてたんだ」
リゼ「いえ。すべてではありません。置かれたものを通じて、動きの一部を拾っただけです」
影「優秀な案内人をお連れのようだ」
リゼの表情がわずかに硬くなった。
クレフは一歩だけ前へ出た。
剣は抜かない。
抜けば、その音も拾われる。
それに、ここで斬るべき相手は、まだ目の前にいない。
クレフ「古い水路を使って、封声槽への道を探っていたのか」
影「道を探す者は、皆そうするでしょう。閉じられた扉の前で待つより、忘れられた流れを辿る方が早い」
クレフ「ここは、忘れられた道じゃない」
口にしてから、自分でもその強さに気づいた。
フォーレストが忘れたわけではない。
使われなくなっても、手入れは続いていた。
守るべきものの外側に、古い道として残されていた。
影「そう言えるほど、あなたはこの国を知ったのですか」
胸の奥が、わずかに熱くなる。
挑発だ。
答えを急がせるための言葉。
クレフ「全部は知らない」
クリスがこちらを見た。
リゼも、赤い瞳をわずかに伏せる。
知らないものは、知らない。
それを隠せば、足元を取られる。
クレフ「でも、知らないから踏みにじっていい場所じゃないことは分かる」
影の輪郭が、一瞬だけ止まった。
その間に、溝の白い光が弱くなっていく。
向こうも、長くはここにいられない。
これは本体ではない。
声を通しているだけだ。
リゼ「殿下、反応が細くなっています」
クレフ「切れるのか」
リゼ「はい。ですが、切れる前に何かを残す可能性があります」
クリス「クレフ、外側の守りが鳴りそう」
クレフ「攻撃か」
クリス「違う。探ってる。こっちを見つけるためじゃなくて、道を閉じられる前に印を残そうとしてる感じ」
影「鋭いですね、フォーレストの王女」
クリスの指が、弓の弦に触れた。
クレフ「クリス」
クリス「分かってる。撃たない」
声は静かだった。
怒りを抑えているのが分かった。
影「あなた方は、よく預け合う。道も、背中も、判断も」
息が止まりかけた。
それは、ここへ来る前に交わした言葉に似ていた。
だが、同じではない。
敵がすべてを聞いていたわけではない。
こちらの動きから、そう見えているだけだ。
リゼ「この者は、感情ではなく配置を読んでいます」
クレフ「ああ」
守る者。
読む者。
進む者。
残る者。
敵は、それを関係ではなく、配置として見ている。
なら、こちらが守るべきものは、そこにある。
クレフ「そうだ。僕たちは預け合う」
影が揺れる。
クレフ「でも、それは駒を置くことじゃない」
一歩、前へ出る。
兵が止めようとした気配がしたが、手で制した。
クレフ「信じて任せることだ」
灰色の影が、初めて大きく歪んだ。
笑ったのか。
怒ったのか。
判別できない。
影「では、その信頼ごと試しましょう」
溝の底の白い光が、突然途切れた。
同時に、壁の継ぎ目から細い灰色の線が走る。
北ではない。
南東でもない。
こちらの背後へ向かっている。
クレフ「後ろだ」
クリスが矢を番えた。
リゼが壁へ手を伸ばす。
兵たちが振り返る。
灰色の線は、足元を抜けて後方へ伸び、こちらと退路の間を細く断とうとしていた。
退路。
ルナシウスに預けた道。
そこを狙われた。
クレフ「走るな。線を踏むな」
声が自然に出た。
兵たちが止まる。
クリスの矢が、灰色の線の先へ向く。
リゼ「切れば反応が跳ねます」
クレフ「なら、止める」
リゼ「どうやって」
クレフは剣の柄に手を置いた。
抜くには、まだ早いと思っていた。
だが、今は違う。
斬るためではない。
守るために抜く。
青い宝石が、低く光った。
灰色の線が、こちらの足元で震える。
クレフ「ルナシウスに預けた道を、勝手に断たせるわけにはいかない」
剣を抜いた。
金属音が、古い管理路に細く響く。
その音に反応するように、灰色の線が一瞬だけ膨らんだ。
だが、踏み込まない。
振り下ろさない。
剣先を床すれすれに置き、線と退路の間に立てる。
青い光が、床の石に薄く広がった。
灰色の線は、それ以上進めず、震えたまま止まった。
影「……なるほど」
声が遠くなる。
影「剣を、壁にした」
クレフ「道を守るためなら、剣は斬るだけじゃない」
灰色の影が薄れていく。
消える寸前、顔のない輪郭がこちらへ傾いた。
影「では、外縁で」
その言葉を最後に、溝の光が消えた。
白い霧だけが残る。
しばらく、誰も動かなかった。
剣先の向こうで、灰色の線が細い煤のように崩れていく。
クリス「……今のが、敵?」
クレフ「本体じゃない」
リゼ「はい。声と反応だけです。ですが、向こうはこちらを認識しました」
クレフ「こっちも、向こうを見た」
剣を収める。
手のひらに、まだ震えが残っていた。
恐怖ではない。
たぶん、怒りでもない。
預けた道を狙われたことへの、静かな熱だった。
クレフ「退路を確認する。ルナシウスへ伝令。後方の線に注意」
兵「はっ」
クレフ「それから、進む」
クリス「外縁へ?」
クレフ「ああ」
リゼが、消えた溝の先を見ていた。
リゼ「今の反応で、外縁側に残っていた道が一つ開きました」
クレフ「誘いか」
リゼ「おそらく」
クリス「行くの?」
息を整えた。
敵はこちらを認識した。
退路も狙われた。
それでも、ここで戻れば、敵に次の時間を渡すことになる。
クレフ「行く」
白い霧の奥で、外の空気がまた流れた。
敵は、外縁で待っている。
こちらも、もう見られているだけではない。
剣を抜いた音を、敵は聞いた。
なら次は、その剣で何を守るのかを見せる番だった。
第15章第5節へ続く
第15章第4節を読んで頂きありがとうございます。
今回は、敵本体ではなく、古い水路の反応を通じた「声」と「影」に、クレフたちが初めて向き合う回でした。
敵はただ道を探っているだけではなく、こちらの配置や動き、預け合った役割まで読み取ろうとしていました。
そして、その狙いはクレフたちの前方だけではなく、ルナシウスに預けた退路にも向けられます。
クレフはここで、剣を敵を斬るためではなく、道を守るために抜きました。
「預けた道を守る」という選択は、第1節から続いてきたクレフの成長の答えでもあります。
敵はこちらを認識し、こちらも敵の存在を確かに捉えました。
次回は、敵が残した誘いとも罠とも取れる外縁側の反応へ、さらに踏み込んでいきます。
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