第13章 封声槽 第1節 開かれる床
南側倉庫へ向かう廊下は、すでに人の気配が消えていた。
窓の外から差し込む光だけが、石の床を細く照らしている。
少し前までなら、何の変哲もない城の一角だった。
備蓄品を置くための倉庫。
床が弱いから近づくなと伝えられてきた、古い区画。
けれど今、その言葉の意味はまったく違うものに変わっていた。
床が弱いのではない。
床の下に、触れてはならないものがある。
ミリア女王は、扉の前で足を止めた。
その背後に、僕とクリス、ルナシウスが並ぶ。
少し離れた廊下の角には、ラクドウが立っていた。
腕を組み、いつものように壁にもたれている。
だが、その目だけは笑っていなかった。
ラクドウ「ここから先は任せた。戻る道は俺が見る」
ミリア「お願いします」
ラクドウ「おう。何が来ても、ここは通さねえ」
その言葉は頼もしかった。
頼もしいはずなのに、なぜか胸の奥が少しだけ重くなる。
戻る道。
その言葉が、前よりもずっと大きな意味を持って聞こえた。
ミリア女王が、近衛兵たちへ静かに視線を向けた。
ミリア「以後、この廊下へは誰も入れないでください。異音がしても、声が聞こえても、命令があるまで動いてはなりません」
近衛兵「はっ」
ミリア「声で届いた命令は、すべて無効です。それが私の声に聞こえても、です」
近衛兵たちの表情がわずかに強張る。
だが、ミリア女王は言葉を止めなかった。
ミリア「私が命じる時は、必ず光符を使います。赤が灯るまでは、この場を動かないこと」
近衛兵「承知しました」
本物か偽物かを見分ける必要はない。
声で届く命令は、すべて信じない。
そのために、光符を決めたのだ。
ここがどういう場所なのか、細かい説明を受けていなくても分かるのだろう。
近衛兵たちは、ただ深く頭を下げた。
ルナシウスが、扉の前に膝をつく。
その手には、ミルが整えた遮断符があった。
灰色の符ではない。
薄い青を帯びた、冷たい光の符だ。
監視ではなく、遮断。
道を見張るためではなく、道を渡さないためのもの。
ルナシウス「配置を始めます」
ミリア「お願いします」
扉の左右。
床の継ぎ目。
壁の角。
一枚ずつ、符が置かれていく。
符は貼り付けられた瞬間、石に吸い込まれるように淡く沈んだ。
強い光ではない。
むしろ、そこだけ音が薄くなるような静けさが広がっていく。
クリス「変な感じね。光っているのに、暗くなるみたい」
クレフ「うん。音が遠くなる」
僕は左手首の水晶片に触れた。
震えは弱い。
けれど、消えたわけではない。
床下にある気配は、まだこちらを待っている。
ただ、遮断符が置かれるたびに、その気配との間に薄い布が重なっていくようだった。
ルナシウス「外側の配置、完了しました」
ミリア女王が連絡符を確認する。
会議室と繋がる符は、まだ開いたままだった。
開封前の最終確認だけは、声で行う。
ただし、一度床を開けた後は、合図を光符に切り替える。
その手順も、すでに決めてある。
ミリア「こちら南側倉庫前。外側の遮断符を配置しました」
少し間を置いて、ミルの声が届いた。
ミル「会議室側、確認しています。監視符に乱れはありません」
マスク「薄紫の脈は反応していますが、太くはなっていません。今のところ、道にはなっていない」
ミム「そのまま進めよ。ただし、床を開けた後は声を減らすのじゃ」
ミリア「承知しています」
セリザの声は聞こえない。
会議室で、ミムのそばにいるはずだ。
必要になるまで見ない。
それも、決めたことだった。
ミリア女王は連絡符を伏せた。
その瞬間、廊下の空気がさらに静かになる。
ここから先は、言葉を少なくする。
名前を呼ばない。
声に返事をしない。
必要な合図は、光で送る。
白は継続。
青は停止。
赤は即時撤退。
言葉にすれば簡単だ。
けれど、実際に扉の前に立つと、その決まりがどれほど重いものなのか分かる。
もし、誰かの声が聞こえたら。
もし、助けを求める声がしたら。
もし、それが知っている人の声だったら。
僕は本当に、返事をしないでいられるだろうか。
クリスがそっと僕の袖に触れた。
何も言わない。
それだけで、十分だった。
ミリア女王が短く頷く。
ルナシウスが倉庫の扉に手をかけた。
古い木扉が、ゆっくりと開く。
音はほとんどなかった。
遮断符が、軋みを吸ったのかもしれない。
扉の向こうにあったのは、やはり普通の倉庫だった。
壁際には空の木箱が積まれ、古い布が埃をかぶっている。
棚には壊れた燭台や、使われなくなった器具が置かれていた。
人が長く入っていなかった匂いがする。
けれど、腐った臭いはない。
湿った地下の匂いもない。
ただ、古い。
それだけの空間だった。
ミリア女王は中へ踏み込まず、入口で足を止めた。
ルナシウスが先に入り、床を確認する。
僕とクリスは扉の外側に残った。
今は、決めた順番を崩してはいけない。
ルナシウスは倉庫の奥へ進み、前に確認した床の継ぎ目の前で膝をついた。
そこだけ、石の色が少し違う。
四角く囲まれた古い床板。
補修ではない。
隠し蓋だ。
ルナシウスは腰から小さな白い光符を取り出し、床の四隅に置いた。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
すべてが淡く光ったところで、彼は振り返らずに右手を上げた。
白。
継続の合図。
ミリア女王が静かに息を吐く。
そして、倉庫の中へ足を踏み入れた。
僕とクリスも続く。
その瞬間、左手首の水晶片が冷たくなった。
震えではない。
熱を奪われるような、底のない冷たさ。
僕は声を出しかけて、飲み込んだ。
返事をしてはいけない。
声を増やしてはいけない。
クリスが隣でこちらを見る。
僕は小さく頷いた。
大丈夫。
そう言う代わりに、頷いた。
ミリア女王が床の前に立つ。
ルナシウスは隠し蓋の縁に細い金具を差し込んだ。
無理にこじ開けるのではない。
封の向きを確かめ、動かしていい場所だけを探っている。
床の下から、何かが鳴ることはなかった。
代わりに、沈黙が深くなる。
音がないのではない。
音が落ちていく。
そんな感じだった。
白い光符が、一度だけ揺れた。
だが、赤には変わらない。
青にもならない。
ルナシウスは静かに力を込めた。
石の蓋が、ほんの少しだけ浮く。
空気が動いた。
その瞬間、倉庫の中に冷たい気配が広がった。
風ではない。
匂いでもない。
それでも、何かが下から上がってきた。
僕は唇を固く結んだ。
声は聞こえない。
誰の名も呼ばれていない。
けれど、胸の奥に、聞こえない声の形だけが触れる。
白い光符が揺れ続ける。
ミリア女王は手を上げなかった。
止めない。
進める。
ルナシウスがもう一度、石蓋を持ち上げる。
重いはずなのに、音はほとんどなかった。
遮断符がすべてを吸っている。
石蓋の下に、暗い隙間が現れた。
ただの穴ではない。
下へ続く石の段が見える。
古い階段だ。
狭く、黒く、まっすぐに沈んでいる。
クリスが息を呑む気配がした。
ミリア女王は階段を見下ろしたまま、動かなかった。
その横顔は、恐れていないわけではなかった。
けれど、逃げようともしていない。
自分の城の下にあるもの。
歴代の王が隠してきたもの。
その前に、今の女王として立っている。
僕はその背中を見た。
誰かを守るために、先に立つ背中。
ミリア女王の背中は、封声槽へ続く闇の前でも揺らがなかった。
階段の奥から、淡い紫の光が一度だけ滲んだ。
光符は白のまま。
道は、まだ開ききっていない。
声も、まだ届いていない。
けれど、入口は開いた。
ミリア女王が、声を出さずに手を上げる。
白。
継続。
僕は左手首の水晶片を握った。
冷たさは消えない。
それでも、足は下がらなかった。
封声槽。
南の王家より預かりし声。
その底へ続く階段が、今、僕たちの前に現れている。
僕たちは、まだ誰の声にも返事をしていない。
声に道を渡さないまま、最初の扉は開かれた。
第2節へ続く
第13章第1節「開かれる床」でした。
今回から第13章「封声槽」が始まりました。
南側倉庫の床下に隠されていた階段がついに開かれ、クレフたちは封声槽へ続く入口の前に立ちます。
ただし、ここで重要なのは「声に返事をしない」こと。
本物か偽物かを見分けるのではなく、声で届いた命令そのものを信じない。そのために光符を使い、声に道を渡さないまま進む準備を整えています。
ラクドウの「戻る道は俺が見る」という言葉も、今後の大きな意味を持つ場面として置きました。
封声槽の奥に何が沈んでいるのか。
南の王家より預かりし声とは何なのか。
いよいよ物語は、王城の地下に隠された核心へ向かっていきます。
少しでも続きが気になったら、スキして頂けると嬉しいです!
#グランバルト物語 #ファンタジー小説 #創作 #note創作 #連載小説 #異世界 #王道ファンタジー #長編小説 #物語好きと繋がりたい
