第13章 封声槽 第4節 名を持ち込むな
石の扉は、低かった。
人がまっすぐ立ったままでは通れない。
かがんで、一人ずつ進むしかない高さ。
その上に刻まれた文字だけが、薄紫の光を受けて沈むように浮かんでいた。
封声槽、内縁。
開く者、名を持ち込むな。
僕はその言葉から目を離せなかった。
名前を呼ぶな、ではない。
名を持ち込むな。
その違いが、胸の奥に重く落ちる。
声に返事をしないだけなら、まだ分かる。
名前を呼ばないだけなら、耐えられる。
けれど、自分の名を持ち込むなと言われても、どうすればいいのか分からない。
僕は僕だ。
クレフという名を持っている。
グランバルトの王子で、クリスの隣に立つ者で、ここまで多くの人に呼ばれてきた名がある。
それを置いていくことなど、できるはずがない。
ミリア女王は、扉の前で白い光符を掲げた。
継続。
だが、すぐには進まない。
彼女は腰の銀符を取り出し、扉の文字へ向けてかざした。
銀の光が一度だけ細く走る。
声はない。
問いかけもない。
ただ、刻まれた文字の形だけが、会議室へ送られていく。
しばらくして、上から銀の光が返ってきた。
短い符号が、空気の中に浮かぶ。
名は声の芯。
強く思うな。
呼ぶな。
応じるな。
セリザではなく、たぶんマスクの整理だ。
その後に、もう一つの銀光が続いた。
名を捨てる必要はない。
握りしめるな。
今度はミムの言葉に近い。
僕は小さく息を吐いた。
捨てるのではない。
握りしめない。
自分が誰かを忘れるのではなく、その名に呼ばれても振り向かない。
それが、ここを越えるための条件なのだろう。
ルナシウスが先頭に立った。
扉の前で片膝をつき、奥を確認する。
白い光符は弱く揺れたが、赤には変わらない。
青にもならない。
彼は剣を抜かず、低い姿勢のまま扉をくぐった。
姿が内側へ消える。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
白い光が、扉の向こうから返った。
継続。
次にミリア女王が進む。
低い扉をくぐるには、女王であっても身をかがめなければならない。
王冠も、衣も、立場も、ここでは意味を持たない。
ただ、声に応じない者だけが通れる。
ミリア女王の背中が、扉の向こうへ沈んだ。
白。
継続。
クリスが僕を見る。
声は出さない。
ただ、先に行くかと目で尋ねている。
僕は首を横に振った。
彼女がわずかに眉を寄せる。
それでも、すぐに頷いた。
クリスが先に進む。
扉をくぐる直前、彼女の指が弓に触れた。
でも、弦は引かない。
自分を守るためではなく、呼ばれた時に手を動かしすぎないための確認のように見えた。
クリスも、内側へ消える。
白。
継続。
最後に、僕が扉の前に膝をついた。
石の縁は冷たい。
くぐろうと身を低くした瞬間、左手首の水晶片が強く冷えた。
痛みではない。
けれど、はっきりと分かった。
ここから先は、僕の名を探してくる。
僕は唇を結んだ。
名前を思わないようにするほど、名前は浮かぶ。
父上の声。
母上の声。
城で呼ばれた声。
クリスが呼ぶ声。
ラクドウが荒っぽく呼ぶ声。
いくつもの響きが、記憶の奥で立ち上がりかける。
僕はそれを、一つずつ追わなかった。
どれが本物だったか。
どれが偽物になり得るか。
考えない。
見分けない。
声で来るものは、すべて通さない。
そう決めて、僕は低い扉をくぐった。
内縁の空気は、外縁よりもさらに重かった。
広い場所ではない。
細い回廊が、黒い石の壁に沿って弧を描いている。
壁には無数の小さなくぼみがあった。
銘板の跡のようにも見える。
けれど、そこに名は残っていない。
どのくぼみも、表面を削り取られていた。
意図的に消されている。
誰の名も、そこにはない。
ルナシウスが前方で白を掲げる。
ミリア女王は壁のくぼみを見つめていた。
クリスも同じものを見ている。
誰も声を出さない。
出せない。
そのくぼみは、墓のようで、墓ではなかった。
記録のようで、記録でもなかった。
声を沈めるために、名を削り落とした跡。
そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなる。
名を失えば、声は誰にも届かない。
誰にも届かなければ、外へ出られない。
けれど、それは救いだったのか。
それとも、二度と誰にも呼ばれないという罰だったのか。
考えた先で、何かがこちらを向いた気がした。
僕はすぐに視線を落とす。
深く考えるな。
見ようとするな。
セリザがいない理由を、また思い出す。
この壁を見たら、きっと彼女は読む。
誰の名が削られたのか。
何の声が沈められたのか。
そして、その先に何があるのか。
だから、彼女はここにいない。
残ることも、戦いなのだ。
回廊の床には、外縁より細い溝が走っていた。
溝は中央の槽へ向かうのではなく、壁のくぼみから下へ沈むように刻まれている。
名を削り、声を細くし、底へ落とす。
そんな構造に見えた。
ルナシウスが足を止める。
壁の一部に、まだ削り切られていない古い文字が残っていた。
名を失わぬ声は、帰り道を探す。
願いを残す声は、呼ぶ者を探す。
呼ばれた者、己の名で答えるな。
僕はその文字を読んで、喉の奥が硬くなった。
己の名で答えるな。
つまり、ここでは名を問われるのだ。
誰だ。
お前は誰だ。
そう問われた時、自分の名を返してはいけない。
ミリア女王が銀符をかざす。
文字の情報だけが会議室へ飛ぶ。
返答はすぐには来ない。
その短い沈黙の間に、回廊の奥で薄紫の光が揺れた。
僕は視線を向けかけて、止めた。
見すぎてはいけない。
見れば、形を与えてしまう。
そう感じた。
銀の光が返る。
反応増加。
だが、声化せず。
進行可。
短い符号だけだった。
ミリア女王が白を掲げる。
継続。
僕たちは回廊を進んだ。
一歩進むたび、壁のくぼみが増えていく。
削られた名。
消された名。
沈められた声。
そこに何人分の声があったのか、考えたくなかった。
数えれば、きっと数えられてしまう。
知ろうとすれば、向こうもこちらを知ろうとする。
そういう場所なのだ。
クリスが少し遅れた。
僕は振り返りかける。
その瞬間、胸の奥で、何かがかすかに震えた。
呼ばれた、と思った。
声はなかった。
音もなかった。
けれど、僕の名の最初の形だけが、喉の内側に触れた。
僕は足を止める。
返事をしない。
振り向かない。
でも、クリスが遅れている。
助けが必要かもしれない。
その迷いが、ほんの少しだけ胸に生まれた。
次の瞬間、横から白い光が入った。
クリスの光符だ。
継続。
彼女は大丈夫だと知らせている。
僕は息を吐いた。
声に頼らなくても、確認できる。
そのために、光符を持っている。
本物かどうかを見分けるのではない。
声に確認を任せない。
それだけで、少しだけ足元が戻った。
ルナシウスが前方で青を掲げた。
停止。
全員が足を止める。
回廊の先に、小さな扉があった。
先ほどの低い扉よりもさらに古い。
石ではなく、黒い金属で縁取られている。
扉の中央には、何も書かれていない。
文字もない。
紋章もない。
取っ手すらない。
ただ、扉の前の床にだけ、古い一文が刻まれていた。
ここより先、名を置け。
僕はその文字を見た瞬間、体の奥が冷たくなった。
置け。
捨てろ、ではない。
置いて進め。
ならば、戻る時には拾えるのか。
それとも、置いた名はもう戻らないのか。
考えかけて、やめた。
この場所は、考えた隙間に入り込んでくる。
ミリア女王が扉の前へ進む。
白い光符は弱いままだが、消えてはいない。
彼女は腰の銀符を取り出し、床の文字へ向けた。
銀の光が走る。
会議室へ送る。
返答を待つ。
長い沈黙。
その間、黒い扉の向こうで、薄紫の光が細く滲んだ。
まるで、扉の隙間から誰かがこちらを見ているようだった。
僕は左手首の水晶片を握る。
冷たい。
冷たさの奥で、また何かが触れる。
今度は、僕だけではなかった。
クリスも、ルナシウスも、ミリア女王も、同時にわずかに身を強張らせた。
名を探されている。
そう分かった。
声はまだ届いていない。
けれど、声になる前の何かが、僕たちの名の形をなぞろうとしている。
上から白い光が返った。
進行可。
ただし、扉前で停止。
名を問われても返すな。
その符号を受け取ったミリア女王は、静かに頷いた。
ルナシウスが青を下ろす。
白を掲げる。
継続。
黒い扉の前で、僕たちは立ち止まった。
誰も話さない。
誰の名も呼ばない。
それでも、扉の向こうは僕たちを知ろうとしている。
ここから先へ進むには、名を握りしめたままではいけない。
けれど、名を失えば、自分が何者かも揺らぐかもしれない。
僕は目を閉じた。
自分の名を捨てるのではない。
奪わせるのでもない。
ただ、声に差し出さない。
そう決めて、目を開く。
黒い扉の向こうで、薄紫の光がもう一度だけ揺れた。
待っている。
名を返す者を。
名を手放せない者を。
第5節へ続く
第13章第4節「名を持ち込むな」でした。
今回は、封声槽の内縁へ進む節になりました。
これまでの「声に返事をしない」から、さらに一段深く、「名を持ち込むな」という危険が示されます。
名前を呼ばれないようにするだけではなく、自分の名を強く握りしめること自体が、声に道を渡すかもしれない。
そんな場所へ、クレフたちは踏み込んでいきます。
壁に残された削られた名、名を失わぬ声は帰り道を探すという戒め、そして黒い扉。
封声槽は、ただ声を封じる場所ではなく、名前と記憶そのものに触れてくる場所なのかもしれません。
クレフたちはまだ誰の声にも返事をしていません。
けれど、声の方は少しずつ、こちらの名を探し始めています。
次は、黒い扉の先へ進みます。
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