悪人が救われる理由
前回(その記事はこちら)は、親鸞の思想である悪人正機説のなかで、悪人とはどういうものかを語りました。
今回は、悪人がなぜ救われるのか語りましょう。
改めて説明しますが、悪人正機説における悪人とは、煩悩を断ち切れずに苦しんでいる凡人のことです。
つまり、悪いことをしているとわかっているけれど誘惑に負けてしまい、自己嫌悪に陥っている人のことです。
では、なぜ、そのようなダメな人間がなぜ救われるのか?
言い換えれば、なぜ、阿弥陀如来は悪人を救済することを本願にしているのかというと、自力で悟りを開くことができない人であるからです。
自力で悟りを開くことができない人は、他力救済を必要としている人です。
つまり、他力救済を必要としている人がいるから、阿弥陀如来はその求めに応じるのが自分の務めであるとお考えになるのです。
聖書でも、迷える子羊を救う話をたとえにして、同じような事を言っています。
国は違っても、悩み苦しむ弱者を救うことにこそ、神仏の存在意義があるという結論に達するのは、それが普遍的な真理だからでしょう。
ただし、阿弥陀如来に救済される対象になるには、条件があります。
それは、自分を悪人だと認め、助けを求めることです。
なぜそれが必要なのか?
病人を例に挙げて説明します。
ここでは「医者による治療」を「阿弥陀如来の救済」に見立てます。
医者が(あるいは阿弥陀如来が)真に救うことができるのは、自らの苦しみに向き合い、もはや自力ではどうすることもできないと悟って、すべてを医者に委ねる人なのです。
では、阿弥陀如来に助けてもらうには、どうすればいいのでしょうか。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで良い、というのが浄土真宗の教えです。
しかも、罪を消すために繰り返し唱える必要もないと言われます。
「本当にそんなことで良いのだろうか」と思われるかもしれません。
しかし、面倒で難しいことをしなければ極楽浄土に行けないとなれば、阿弥陀如来はすべての衆生(悪人を含む)を救済できなくなってしまいます。
また、罪を消すために繰り返し唱える念仏は、自力での「修行」と同じになってしまいます。
そして、修行は自力で悟りを開こうとする善人のやることです。
ですから、阿弥陀仏の本願による他力を信じ受け入れた時(信心を得た時)、救いが定まるとされています。
「南無阿弥陀仏」の意味は、「阿弥陀如来に帰依します」ということです。
つまり、阿弥陀如来の衆生を救うという約束を信じ、その力にすべてを預けるという意思表明なのです。
といっても、いくら念仏を唱えても、心から信じられない悩みをもつ人は少なくないでしょう。
阿弥陀如来は、そういう人でも救済すると言います。
なぜなら、迷いが生じてしまうのが、煩悩を捨てきれない悪人であるからです。
その深い慈悲があるところが、私のような悪人の心の拠り所になり、それゆえに親鸞の教えに魅力を感じるのです。
次回は、他力本願で心の平安を得られる理由を語りたいと思います。
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