悪人正機説の悪人とは
前回(その記事はこちら)は「歎異抄」を読んで、救われたと書きました。
なぜ救われたかというと、「こんな自分でも天国に行けるかもしれない」と思えたからです。
天国に行けば、昨年亡くなった母と再会できます。
そう思うと、母を失う辛さが和らいだのでした。
前回の記事でも触れましたが、「歎異抄」は、司馬遼太郎やアインシュタイン、哲学者のハイデガー、鈴木大拙、三木清、吉本隆明など、多くの著名な知識人を魅了してきました。
「歎異抄」のどこに魅力があるのか、4回に渡って語りたいと思います。
「歎異抄」とは、親鸞の弟子の唯円が親鸞の教えを説明した書です。
親鸞の教えで有名なのは、「悪人正機」説です。
悪人正機説とは、阿弥陀仏が救いたいと本当に願っているのは悪人であるということです。
その説明を聞くと、「そんなのはおかしい」と考えるのが普通の反応だと思います。
確かに、善人こそ救われるべきなのに、悪人が救済の対象であるなんて、どう考えてもおかしな話です。
それなら、どんどん悪いことをやって、悪人になったほうが得になってしまいます。
唯円が、「歎異抄」を書かなければならないと思ったのは、唯円が生きていた当時もこのような誤解が生じ、親鸞の教えが正しく伝わっていないのを嘆いたからでした。
つまり、異説を嘆き、親鸞の教えを正しく伝える必要があると考えたので、「歎異抄」というタイトルをつけたのです。
悪人正機説を正しく理解するには、悪人とはどのような人を指すのか、正しく理解する必要があります。
今回は、その答えを語ることにします。
結論から言うと、親鸞の考える悪人とは「凡夫(凡人)」のことです。
凡夫とは、煩悩にまみれ、その誘惑に負ける弱い人のことです。
言ってみれば、悪人というより、ダメ人間です。
そして、「ああ、なんて自分はダメな人間なのだ。もう自分ではどうすることもできない」と自覚した人が悪人だと言います。
なぜなら、自分の弱さや情けなさを自覚できないと、自分が悪人であると認めることができないからです。
しかし、親鸞の考えている善人像を知ると、ほとんどの人間はこの悪人になってしまいます。
悪人が煩悩に負ける弱い人だとすると、善人は煩悩に負けない強い人になります。
では、どのような煩悩に負けてはいけないのか?
仏教では、仏教徒が守るべき5つの戒律があります。
それは、以下のものです。
不殺生戒 →生き物を殺さない。
不偸盗戒 →盗みをしない。
不邪淫戒 →不道徳な性行為をしない。
不妄語戒 →嘘をつかない。
不飲酒戒 →酒を飲まない。
どうでしょう。「すべてを守れる」と胸を張って言える人はいるでしょうか?
親鸞も同じでした。
性欲が強かった親鸞は、性欲に負ける自分は落第生だと落ち込み、「こんなダメな自分(悪人)でも救われる道はないか」と悩みぬき、そしてたどり着いたのが「悪人正機」という発見だったのです。
次回は、悪人がなぜ救われるのか語りたいと思います。
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