善悪で成仏を決めないのはなぜか
これまで3回に渡って親鸞の思想である悪人正機説について語ってきましたが、今回が最終回です。
今回は、阿弥陀如来が善悪で救済を決めない理由を語ることにします。
さて、「善人が天国へ、悪人が地獄へ行く」というのが一般的な考え方です。
ところが、親鸞は「悪人正機説」において、「悪人であっても念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できる」と説いています。
なぜなら、阿弥陀如来はすべての衆生(生きとし生けるもの)を漏れなく救済することを目指しておられるからです。
そのため浄土真宗では、閻魔大王による裁きを受けるという考え方はなく、亡くなるとすぐに阿弥陀如来の力によって極楽浄土へ往生し、同時に仏にもなれる(往生即成仏)とされています。
なぜ、阿弥陀如来がそのようにまで慈悲深いのか、その理由について考えてみることにしましょう。
私が読んだ『歎異抄』の漫画では、親鸞が弟子の唯円に「これから私の言うことに決して背かないか?」と尋ね、唯円が頷くと、「それじゃ、今から人を千人殺してこい」と命令しました。
もちろん、唯円は「そんなことはできません」と拒否しました。
すると、親鸞はこう諭しました。
「殺さないのはお前の心が良いからではなく、殺すべき因縁が備わっていないからだ」と。
因縁とは、人間が過去にもつ業です。それによって善悪は左右されるというのです。
前回、阿弥陀如来のあるがままの世界は、「空と縁起の世界」だと述べました。
その世界における自分という存在は、他の関係のなかで成り立っています。
そのため、人は他からの影響を受けざるをえなくなります。
そこに「業」が含まれるわけです。
もっと分かりやすく説明しましょう。
たとえば、悪さをする人間は、生まれつきそういう「性格」だからだとします。
しかし、その性格はその人が選んだものでしょうか?
顔も性格も親も、誰も自分では選べません。
この世に生まれてオギャーと泣く前の世界、つまり前世の業が素行の悪さに影響しているとしたら、それは果たして本人にすべて責任があるといえるでしょうか?
また、子供の頃は素直でかわいかったのに、大人になると素行が悪くなる人もいます。
もしその変化に、両親の不仲、友達からのいじめなどが関係したらどうでしょう。
これも、本人だけの責任とは言えなくなりませんか。
誰でも何かに影響を受けて、人生が狂ってしまう可能性はあります。
予期せぬ不幸もいつ襲ってくるかもわかりません。
ずっと永遠に変わらないでいられるものなど存在しないのです。
また広い視野でみると、煩悩を断ち切れない悪人がいるから、人類は存続できているとも言えます。
性欲に負けない善人ばかりの世界であったら、子孫を残すことができないからです。
煩悩とは欲です。欲は人が生きるために必要なものです。
性欲、食欲がなければ、生きていけません。
お金に執着するのも、お金があれば飢餓から救われる安心感があるからではないでしょうか。
お酒が飲めない人が酒におぼれないのは、善人だからでもありません。
また、正義も悪も立場によって変わるものです。
戦争がいい例です。戦争をしている国はそれぞれが、自分の国が正義だと思っています。
戦争で人を殺すのも、命令に従わなければ、自分がどんな目に遭うかわからないという恐怖からではないでしょうか。
それも自分でコントロールするのは難しい問題です。
そう考えると、善悪を明確に決めるのは困難であるのではないでしょうか。
現世や人間を創造したのが神様であるとするならば、余計に悪人だけに罪を負わすわけにはいかなくなります。
背景を考えれば、阿弥陀如来でなくても、慈悲の心が湧いてきます。
阿弥陀如来が善人悪人を問わず、無条件に成仏させたいと思うのは、以上のような理由からではないでしょうか。
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