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鏡中の祝言 *第一章*

【あらすじ】
内気で暗く、人見知りだった子ども時代のつばきを、どんなときも無条件に受け入れ、全肯定してくれたのは最愛の祖母だった。
36歳になったある日、祖母の遺品である三面鏡を開いた瞬間、まばゆい光に包まれ、昭和25年へと迷い込む。無事に現代へ戻るものの、手のひらにはあの時の擦り傷が残っていた。夢だと思っていた出来事は、紛れもない現実だった。
再び鏡を開くと、今度は2005年の自身の結婚式前日へ――
なぜ36歳の私が、26歳の自分のもとへ導かれたのか。出会うはずのない二人の「私」が手を取り合い、祖母へ果たせなかった想いを届けるため、運命が動き出す。時を超え、一つの後悔を愛へと変えていく、涙のファンタジー。

【第一章】 「寿美江の焔」
終戦後、少しずつ暮らしを立て直し、皆が明日の希望を探しながら生きていた時代のお話。

当時、横浜の町にとても評判の良い青年がいた。
名前は春彦。
すらりと背が高く、まともな教育さえ受けられなかった時代にできる限りの勉学を自分から学び、頭が良く物知りで、顔立ちが役者のように整っていた。
いや、どんな二枚目役者よりも、役者らしく美しく整っていた。
だが、彼が周囲の人間を魅了したのは、そんな天から与えられた恵まれた容姿だけが理由ではなかった。
春彦は、誰に対しても分け隔てのない、底なしに優しい心を持っていたのだ。
腰の曲がった近所の老人を見かければ必ず立ち止まって深く頭を下げ、泥だらけの子どもがいれば自ら膝を折って目線を合わせて微笑みかける。
人の悪口を決して口にせず、怒鳴るようなこともない。
春彦が声を荒げたり、不機嫌そうに顔を歪めたりしたところを見た者は、ただの一人もいなかった。
周囲からは「仏の春さん」と呼ばれるほどだった。
そのため、うら若き女性たちから熱烈に慕われるのは当然のこと、男性からも特別な好意を寄せられることが度々あるほどだった。
昭和20年代というまだ保守的な時代において、すれ違いざまに女性から見初められて声をかけられることも日常茶飯事。
それどころか、見知らぬ女性が彼の後を憑りつかれたように追うストーカーにさえなるという、今聞けば漫画のような逸話を持つほどのいい男だった。
しかし、そんな完璧な春彦にも、たった一つだけ、致命的な弱点があった。

優しすぎるのである。

誰かに頼まれごとをされれば、どんなに無理な内容でも断れない。
食事や酒に誘われれば、自分の都合を後回しにしてでも断れない。
だから、当然のように女性から向けられる過剰なまでの好意も、傷つけることを恐れてなかなか断ることができなかった。

春彦が20代半ばを迎える頃には、彼の家には数え切れないほどの縁談が舞い込んでいた。
そんな多くの婚姻話の中でも、周囲から特に有力視されていた女性が3人いた。
一人目は、誰もが街頭で振り返るほどの圧倒的な美人。
二人目は、お茶やお花だけでなく様々な知識も備えた教養と品のある娘。
三人目は、名家の令嬢。
誰がどう見ても、条件としては申し分のない相手ばかりだった。

その熾烈な3人枠の中の一人に、寿美江という裕福な商家の娘がいた。
寿美江は、7人きょうだいの末っ子でとても裕福な家庭に生まれ、家族中から我が儘を許され可愛がられて育った。
欲しいものは何でも手に入ったし、言いたいことを我慢したことなど一度もない。
とても気の強い娘だった。
とにかく短気で、負けず嫌い。
周囲の人間からは、「あの娘は気が強すぎる。嫁に行った先が苦労するに違いない」と陰で噂されていたほどだった。
背は低く、3人の候補の中でいえば一番小柄で、美人かと問われれば、誰もが少し言葉を濁して首を傾げるような顔立ちであった。
寿美江自身もその事実はよく分かっていた。
だからこそ、春彦という一世一代の男をめぐる戦いにおいて、自分が圧倒的に不利な立場にあることも残酷なほど理解していた。

だが、寿美江はそこで引き下がるような女ではなかった。
諦めるつもりなど、最初から毛頭ない。
春彦と初めて出会ったその瞬間から、寿美江の心は決まっていた。
「私は、この人と結婚する」
その理由は、彼の美しすぎる顔だったのか。
底なしの優しさだったのか。
知性だったのか。
あるいは、そのすべてが放つ光に当てられたのかもしれない。
とにかく寿美江は決めたのだ。
決めたらもう、彼女には「敗北」という二文字は存在しなかった。

ところが、当の春彦は、猛烈にアプローチを仕掛ける3人の女性の間で激しく揺れていた。
いや、揺れていたというより、優しさのあまり「決められなかった」というのが正しい。
彼は、誰一人として傷つけたくなかったのだ。誰か一人を選ぶということは、残る二人を深く絶望させ、悲しませることを意味する。
それが、春彦の持つ脆いほどの優しさには耐えられなかった。
春彦が一人で悩み、決断を先延ばしにすればするほど、周囲の人間はやきもきし、状況は膠着していった。

そんな膠着状態が続いていた、ある日のことである。
寿美江は強い口調で父親に談判を始めた。
「お父さま、私に最高級の鏡台を買ってください。それから、上質な総桐の箪笥も。今すぐにです」
父親は驚いたが、何しろ目に入れても痛くない末っ子の頼みである。
言われるがままに、金に糸目をつけず、見事な職人技が光る鏡台と箪笥を買い与えた。
寿美江の要求はそれだけに留まらなかった。
彼女は呉服屋を呼びつけると、目の肥えた者が唸るような最高級の着物や帯を、次から次へと仕立てさせ始めた。
それはどう見ても、一世一代の「嫁入り道具」だった。
しかし、彼女には婚約者などいない。
春彦との結婚が決まったわけでも、お見合いが進んでいるわけでもない。
それどころか、春彦は他の女性たちとの間で身動きが取れなくなっている最中なのだ。
呆れ果てた家族が「一体どういうつもりなんだ」と問い詰めると、寿美江は傲然と言い放った。
「私は春彦さんの妻になる。だから支度をしているの」
その迷いのない眼差しに、家族は誰一人として反論できなかった。
末っ子の寿美江には、昔から誰も逆らえないのだ。
気づけば広間には、当時としては家が一軒も二軒も建つのではないかと思えるほどの、絢爛豪華な嫁入り道具一式がずらりと揃えられていた。

すべての準備が整ったその日、寿美江は春彦を自邸へと呼び出した。
突然の呼び出しではあったが、春彦はいつもの穏やかな微笑みを浮かべて何も知らずに商家の門をくぐった。
しかし、通された広間の襖が開いた瞬間、春彦は息を呑んだ。
だだっ広い畳の部屋に、それは整然と並べられていた。
西日の光を浴びて妖しく光る、一分の隙もない美しい漆塗りの鏡台。
重厚な存在感を放つ、最高級の総桐の箪笥。
そして、狂おしいほど鮮やかな色彩の糸で織り上げられた、極上の着物と帯の山。
それらはどれも、この困窮の影が残る昭和の時代において、手に入れようとしても手に入らない、最高峰の品々だった。

春彦は大きく目を見開いた。
「これは……一体、何事ですか?」
いつも通りの、さざ波一つ立てない優しい声。
しかし、その声には明らかな困惑が混じっていた。
寿美江は、その豪華な品々を背にして、静かに座っていた。
彼女の顔は、恐ろしいほどに無表情だった。
ただ、その凍りついた瞳の奥には、すべてを焼き尽くすような鋭い炎がバチバチと音を立てて燃え盛っていた。
「私の、嫁入り道具です」
寿美江の声は低く、よく響いた。
「ずいぶんと立派なものですね。素晴らしい」
春彦は精一杯の優しさで、感心したように微笑みかけ、場を和ませようとした。
だが、寿美江の視線は真っ直ぐ前を向いたまま微動だにしない。
次に彼女はこう呟いた。

「春彦さん、私と結婚してください」

あまりに真っ直ぐな言葉に、春彦の思考は完全に停止した。
彼は開いた口が塞がらないまま、固まってしまった。
どう答えるべきか、誰を傷つけずに済むか、彼の優しい頭脳が必死に答えを探そうとした。
しかし、寿美江は、彼に考える時間など微塵も与えるつもりはなかった。
彼女は呼吸一つ乱さず、次の言葉を紡ぎ出した。

「もし、私と結婚してくださらないのなら――このすべての嫁入り道具を、今、この場所で、すべて燃やします」

あまりに突飛で、あまりに苛烈な言葉。
普通の娘が言ったなら、ただのたちの悪い冗談か、狂言の類だと笑い飛ばせただろう。
しかし、目の前にいる寿美江という女性は、一度口にしたことを絶対に曲げない、恐るべき意志の強さを持っている。
春彦は、泣くとも笑うともつかない表情のまま、並べられた最高級の道具たちを見つめた。
これらを燃やすことになれば、寿美江の人生そのものが灰になる。
彼はゆっくりと視線を戻し、寿美江の顔を凝視した。
間違いない。
彼女の目は、本気だった。
脅しでも、狂言でもない。
もし自分がここで断れば、彼女は次の瞬間にはこのきらびやかな世界を文字通り地獄の業火に変えるだろう。
春彦は生まれて初めて、底知れない恐怖を感じた。
そして同時に、これまで自分を縛り付けていた「誰も傷つけたくない」という生ぬるい迷いが、彼女の圧倒的な覚悟の前に、一瞬で消し飛ばされるのを感じた。
永遠のようにも思える長い沈黙の後、春彦は小さく、しかし、はっきりと頷いた。
その声には、いつもの曖昧な優しさではなく、一人の男としての確かな覚悟が宿っていた。

「これらを燃やさなくて済むようにしましょう。寿美江さん、私と結婚してください」

春彦がそう口にした瞬間、それまで凍りついた鉄のようだった寿美江の顔には、無邪気な満面の笑みが浮かんだのだった。

こうして、二人は晴れて夫婦となった。
街の人々は、この型破りな結末を聞いて、誰もが驚き、そして一様に納得したようにこう噂し合った。
「あれほど優しすぎて決められない男には、あのくらい強くて一本芯の通った女が、おあつらえ向きのちょうど良い相棒だったのだ」と。

この激しい恋の闘争を勝ち抜いた二人は、のちに私、山田つばきの祖父母となる。
まぁ、正確に言えば、勝ち抜いたのはおばあちゃんなのだが。
私は、幼い頃から親戚やご近所の集まりのたびに、このおばあちゃんの「嫁入り道具放火未遂事件」の武勇伝を何度も耳にしてきた。
てっきり面白おかしく脚色したおとぎ話の類だろうと笑っていたのだが、誰に聞いても、どの親戚に尋ねても、寸分の狂いもなくまったく同じディテールで語られるため、どうやらこれは紛れもない歴史的事実のようだ。

ある日、こたつでコーヒーを飲んでいたおじいちゃんに、私はかねてからの疑問をぶつけてみた。
「ねえ、おじいちゃん。おばあちゃんに『結婚してくれないなら、嫁入り道具を全部燃やす』って脅されたの、本当の話?」
白髪を綺麗に整えた、今なお美しく端正な顔立ちのおじいちゃんは、私の不躾な問いに言葉を返すことはなかった。
ただ、湯気の向こうで、静かに、どこまでも優しく微笑むだけ。
その笑顔には、かつて街中の人を魅了したという「春彦青年」の面影が、そのまま残っているように感じた。
諦めきれず、今度は台所で私の大好物である酒蒸し饅頭を仕込んでいるおばあちゃんのもとへ。
「おばあちゃん、おじいちゃんと結婚したくて、本当に嫁入り道具を燃やそうとしたの?」
するとおばあちゃんは、手を止めることもなく、楽しそうにさらりと言った。
「そうだよ。だって、おじいちゃんとどうしても結婚したかったからね」

何十年という歳月が流れ、すっかりおばあちゃんになったけれど、その瞳の奥には、かつて最高級の嫁入り道具の前で燃え盛っていた、一歩も引かない、決して負けないという強固な愛の炎が、今もなお静かに、力強く宿っていた。

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