幼名(ようみょう)
「この子の名前をつけてくれる?」
千沙が、まだふくらみの無いお腹を押さえながら言った。父親はいない。ひとりで産み、育てるという。
「え、なんで?」
「約束したじゃない?短大の時。将来、みんなで一緒に暮らそうって」
「言ったけど」
三十になって結婚していなかったら、アパート一つ借りて、みんなで暮らそうねって。あれから十年。舞と静香は女子短大を卒業後数年のうちに結婚し、それぞれ子供を育てている。確かに私も千沙も独身だけれど、一緒に暮らすなんて、振り返れば幼い日の口約束の様に感じて、実現するなんて思っていなかった。
「一緒に暮らすなら、名前つけて欲しい」
「名前かあ。難しいね」
千沙は困窮していた。本人が悪いわけではない。弟が拡大し過ぎた事業に失敗し、家を手放し、借金を返すことになったからだった。そんな時に父親が誰だか言えない子供を妊娠。私が、親から譲り受けて、管理人のようなことをしている古いアパートに来るように誘った。
「本当の名前を付けるのは荷が重い。正式な名前は千沙が付けて、私が幼名を付ける、っていうのはどう?」
「幼名?」
「うん。子供が悪いものに連れていかれない様に、『うちの子は、あなたが連れ去るほどの価値のある人間ではありません』って、わざとおかしな名前を付けるの」
「あ、聞いたことある。うんち、とかでしょ」
「そう。大人になった変えるんだけどね」
「そうなんだ。で、なんてつけてくれるの?」
「そうだねえ」
私は数時間考え、「未満」と名付けた。
「未満?」
「うん。未満って、『未だ(いまだ)満たない』って意味なの。完璧じゃありませんよ、ってこと」
「へえ。良いね、未満。今日からお前は未満だよ」千沙がお腹をそっと撫でた。
未満は無事生れ、すくすくと育った。千沙に似て、クリクリした目と低い鼻を持つ、愛らしい赤ん坊だった。
各々の時期にありがちな発熱や発疹は一通り経験したものの、特に問題なく日々を暮らした。私は今まで通り、親の持つ不動産の管理人の仕事をしながら、千沙がスーパーやホテルの清掃の仕事に出掛ける時は、未満の面倒を見た。未満が幼稚園児とは思えない集中力と根気を見せたのは、私の父が自分の持つ山林に、自然薯や吉野葛を掘り出しに連れて行った時で、足元も覚束ないというのに、数多の似たような根の中から貴重な根を見つけ出し、掘り進めるのだった。トリュフを見つける豚ちゃんだね、と冗談でいうほど、未満の眼は確かだった。小学生になると、父すら追いつかないレベルになった。高価な根のありかを他人に知られる訳には行かないので、このことは極秘裏に行われ、未満の才能は誰にも知られることは無かった。未満は孤高の天才だった。
未満が幼名を脱ぎ捨てる日が来た。予め千沙が決めていた十歳の誕生日、未満は幼稚園や学校で呼ばれ、戸籍に記された名「誠也」という名で私たちに呼ばれることになった。誠也となった未満は、それまでの嗅覚を失ったかのように、根のありかを見つけることが出来なくなった。未満という幼名を付けなければ、あるいはその才能は開花しなかったかもしれないが、どこかに連れ去られてしまったかもしれないと思うのだった。(了)
