※note創作大賞2024「お仕事小説部門」応募作品_お仕事ショートストーリー【営業課長の心得帖】007「オフィスでは何を飲んでいますか?」
●●支店営業二課長の京田辺一登は、いつも事務所に一番乗りで姿を見せる。
PCを立ち上げたあと、給湯コーナーに向かった彼は、電気ポットに入った前日の残り湯を流しに捨ててから、新しい水を注いでいく。
お湯が沸くまでの間、彼は自席の袖机から最近お気に入りのコーヒードリップパックを取り出し、ステンレス製のマグカップに乗せた。
暫くすると、軽やかな電子音が聞こえてきたので給湯コーナーに戻り、セットしたドリップパックにお湯を緩やかに注いで行く。
濃厚な、そしてややスパイシーな珈琲豆の香りが辺りに漂う中、彼はそっと目を閉じて、暫くのあいだ黙想を行った。
彼は、朝のこの時間をとても大切にしている。
まだオフィスが目を覚ましていない、プライベートとオフィシャルの隙間にふと足を踏み入れたような不思議な瞬間。必然的に頭も冴え渡って来るので、この特別な時間に、これまで色々なアイデアや解決策を創出することが出来たのだ。
(今日は重要な会議も無いし、久しぶりに課のメンバーとコミュニケーションを図りながら、色々インプットをしていく日にしようかな)
そう思いながら脳内のタスクを整理していると、オフィスのドアがカチャリと開いた。
「おはようございまーす」
同じ課の部下、四条畷紗季が自前のタンブラーを片手に入ってきた。レザートートバッグを自席の机に置き、PCを立ち上げる。
顔を上げた彼女は、京田辺が手にしているマグカップを見て、ふわりと微笑んだ。
「今日もいい香りですね、課長」
「この珈琲、弟の海外旅行土産なんだ。大量に送りつけて来たから、机の2段目が完全にドリップパックで占領されてしまったよ」
「ホントだ」
ぐるりと回り込んで京田辺の袖机を覗き込んだ紗季は、ふふっと笑う。
「相変わらず、課長の机は生活感無いですねー」
「あまりモノを置いておくと、異動の際に大変だからなぁ」
京田辺のデスクにはPCと筆記具、固定電話と書類箱以外のものは見当たらない。引き出しにも必要最低限の書類しか入っていないが、袖机の中段だけ大量のドリップパックが詰められているので、第三者から見ると異様な光景であった。
「いいなぁ。わたしは細かい整理が苦手なんですよねぇ」
自分の席と見比べた紗季が肩を落とす。彼女の机は決して乱雑では無いが、置いてあるモノの多さが特徴となっている。
「せめてカプセルトイは減らすか、家に持って帰ったらどうかな?」
「ううっ……可愛い猫ちゃんシリーズが次々と出るのがいけないんです」
最近ハマっている、半目の子猫シリーズのカプセルフィギュアを指先でぐりぐりしながら、紗季は自分自身に言い聞かせるように釈明を始めた。
「四条畷さんは、いつも駅前のコーヒーショップで珈琲を買って来ているの?」
机に置かれたタンブラーを指差して、京田辺が問い掛ける。
「はい、あそこの珈琲ポイントを集めているんです。朝の忙しいときも細かいカスタマイズを聞いてくれますし、キャストの方も若いお兄さんで、とても感じが良いですよ」
「あれ?私が行く時間はいつも、堅物の老紳士が対応してくれるけれどなぁ」
「その人って、お店のオーナーさんじゃないですか?」
カラカラと明るく笑う紗季。
お気に入りのドリンクを前に、他愛のない会話を続けるこの時間も、京田辺が大切にしているものの一つであった。
「そうそう、聞いてくださいよ課長、ふふっ」
思い出し笑いを堪えながら、紗季が新しい話題を振ってきた。
「どうしたどうした、期待していいのか?」
「昨日、生産部の徳庵(とくあん)さんが、ホント凄かったんですよぉ」
両手で口元を覆った紗季。既に会話が笑い口調となっている。
「昨日は……確か有志参加のAED訓練の日だったかな?」
既に同訓練を受講済だった京田辺は、丁度会議が重なっていたこともあって、今回はオブザーバー参加も見送ったのだ。
「ダメです、何度思い出しても笑いが止まらない……」
よほどツボに入ったのか、小刻みに震えながら両手をぐっと握りしめた紗季は、一旦深呼吸をして話を続けた。
「ひと通り講習が終わったあと、代表者が前に出て、ダミー人形を相手に模擬実習をすることになったんです。そこで指名されたのが徳庵さんで……」
生産部の徳庵義雄(とくあんよしお)は、製造畑一筋のベテラン社員だ。
一見堅物に見えるが、話をすると色々な引き出しを持っていることが分かるので、他メンバーからの人気も高い。
そんな徳庵だが、唯一のウィークポイントは極度のあがり症であること。 社内会議でもテンパってアタフタしてしまい、支離滅裂な話が始まるため、別名「議事録担当者キラー」とも呼ばれている。
そんな社内の事情を全く知らない外部講師は、何の悪気も無く、徳庵を模擬実習の代表者に指名してしまった。
緊張の面持ちでギクシャクと前に出る彼の姿に、参加者も固唾を呑んで見守っている。
「はい、それでは要救護者に声を掛けてください」
外部講師がそう言って、行動を促す。
ちなみに正解は、倒れている人を見つけたら耳の近くで大きな声で、肩を叩きながら『大丈夫ですか?聞こえますか?』である。
ところが、極度の緊張状態で頭が真っ白になった徳庵は、マネキン人形を抱き起こすと次の瞬間、普段聞いたことのない大きな声で「元気ですかーっ!」と叫んだのだ。
そのあと数秒間、誰もがシーンと静まりかえる中、徳庵の上司である磐船(いわふね)課長が、呆れたように言葉を掛ける。
「……トクさん、その人は元気じゃないから倒れているんだよ」
次の瞬間、会場は大爆笑に包まれたのだった。
「あかん……今日からトクさんの顔マトモに見れない……ぶふっ!」
デスクに突っ伏してひとしきり爆笑した京田辺は、目尻の涙を拭って言った。
「ですよね!私なんかリアルでその現場を目撃したから尚更キツいんですよぉ」
もう笑い過ぎてお腹痛いです、と身体をクネクネ捩り始める紗季。
京田辺はそんな彼女の姿を見ながら、こういう何気ない癒しを感じる日も大切なんだなぁ、と改めて実感したのだった。
🔹まとめ読みのマガジンはこちらから☟
