黒岩哲夫の事件簿 File.02「逆転の矢印」
1.依頼(不機嫌な遺産相続)
「親父は最期まで、俺を馬鹿にしてたんです」
事務所のソファにふんぞり返り、青年は吐き捨てるように言った。
彼の父親は資産家だったが、金庫に残されていたのは金目の物ではなく、一枚の紙だけ。そこには太いマジックで『一番の宝物はこっちだ』という文字と、右側を指す「矢印(→)」が書かれていただけだった。
「矢印の先には何があったんだ?」
黒岩がドーナツの粉を払いながら尋ねると、青年は鼻で笑った。
「ただの『ゴミ箱』ですよ。親父は俺に、遺産なんてやるもんか、お前はゴミだと言いたかったんでしょうね」
2.推理(水の記憶)
「ふむ……。ゴミ箱、か」
黒岩は現場の写真を受け取ると、じっと目を凝らした。
紙が置かれていたテーブルの上には、丸い輪のようなシミが残っていた。
「おい若造。このテーブルの上には、以前『何か』が置かれていなかったか? 丸くて、透明なものが」
青年は少し考え込み、「ああ、そういえば親父が大事にしていた金魚鉢がありましたけど……割れちまったんで片付けましたよ」と答えた。
「そうか。それが『レンズ』だったわけだ」
黒岩は立ち上がり、事務所の棚から丸いガラスの花瓶を取り出した。
3.解決(光のイリュージョン)
黒岩は紙に大きく矢印(→)を書き、青年の前に置いた。
「いいか、よく見てろ」
黒岩は紙の手前に花瓶を置き、そこに並々と水を注いだ。
水が溜まっていくにつれ、青年の目が大きく見開かれる。
ガラスと水を通した向こう側で、右向きだった矢印が、ぐにゃりと歪み……くるりと「左向き(←)」に反転したのだ。
「なっ……矢印が、逆になった!?」
「ゴミ箱の反対側には、何があった?」
黒岩の問いに、青年はハッとして言葉を詰まらせた。
「そこには……俺が子供の頃、親父と一緒に撮った『家族写真』が……」
4.解説(種明かし)
呆然とする青年に、黒岩は優しく解説を加える。
「これは『光の屈折』だ。円柱形の入れ物に水を入れると、それが凸レンズの役割を果たす。ある程度の距離を離すと、光が交差して、左右が反転して見えるんだよ」
父親は、いつも金魚鉢越しにその紙を見ていたのだろう。
矢印が指していたのは、ゴミ箱ではなく、反対側に飾られた最愛の息子の写真だったのだ。
5.結末(歪みのない真実)
「俺……親父のこと、何もわかってなかった……」
青年は涙を拭うと、今すぐ実家に帰りますと飛び出していった。
事務所に静寂が戻る。
黒岩は残ったドーナツを口に放り込み、空になった花瓶を透かして外の景色を見た。
「世界ってのは、何を通して見るかで、全く違って見えるもんさ。……甘え」
黒岩哲夫の事件簿、一件落着。
【黒岩哲夫の事件メモ】File.02:光の屈折(Refraction of Light)
光は、水やガラスなど密度の違う物質を通るときに、進む向きが変わる(屈折する)。
円筒形のコップや金魚鉢に水を入れると、強い「凸レンズ」と同じ働きをして、焦点より後ろにある景色は左右が逆さまに映るんだ。
これを応用すれば、ただの矢印も秘密の地図に早変わりする。
もし人との関係が歪んで見えるときは、間に余計な色眼鏡やフィルターを挟んでないか、確かめてみることだな。
