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初めての能は、読む・聴く・観るから。〈序破急と令和の鑑能〉

序破急とは世阿弥が能に援用したもので

序:静かな導入
破:展開や変化
急:終わりに向け速く、クライマックス

能の構成、また五番立(能楽の構成)にも用いられている。
これは、ストーリーのみならず謡、所作にも当てはまり、手や足の動きにもみられる。

さて、数百円から一千円で音楽や映画・ドラマが聴き放題・見放題のサブスクリプションがあり、スマホやタブレットでいつでも・どこでも動画視聴ができることが当たり前になってきた。中には倍速視聴で効率的に作品を鑑賞する人もいる。さらに一本数十秒のショート動画が流行る。
タイパやコスパが求められ娯楽が手元で完結する時代。

能はどうかというと、舞台で演じ、言葉は古語に独特なリズム、演目により上演時間は1〜2時間程で、チケットは席や公演によって変わるが5000円はする。

お金をかけなくても、手元で時間の余白が埋まるのが現代の特徴だ。
能を観るために足を運ぶことはハードルが高いと感じやすい。
加えて、格式張ってそう、難しそうというイメージを持つ人もいるだろう。

しかし、決して難しいものではない。
全く知らない、もちろん、興味はあるがという人に向けて。
気軽に読んでみてほしい。
私が喜ぶ。

マナー

結論、特別なマナーはない。
大声で話さない。
電子機器はマナーモードにするか電源を切る。
会場内(客席)で飲食はしない。勝手に写真や動画撮影はしない。
また、これといったドレスコードもない。
過度な露出や、サンダルなどは避けた方が良いが、スニーカーで行くのはあり。
絶対着物で行くこと、というような決まりはないので、常識の範囲内で好きな服装を楽しんで良い。もちろん着物の人もいる。各々好きな服装をしている。

能が難しそう、なんだかよくわからないというイメージはマナーだけではないはず。

幽玄

“幽玄の世界“という、能でしか聞かないようなこの“幽玄“。
言葉自体、聞いたことはあるとだろう。
幽玄とはどのようなことか、わかる人はどれほどいるのか。
「〇〇な世界へ」の〇〇が想像つかなければ、忌避
能の幽玄とは、言葉や形で直接表せない奥深さ、余韻、柔らかな美しさを意味する。

幽とは、隠れて見えない、かすかなこと。
幽霊という者はいるようで、隠れているのか殆どの人は見えない、かすかなものだ。
玄とは、黒い色、奥深いこと。
玄米は黒い。玄人(くろうと)はある分野に深く精通している、専門家。

この2つの漢字が合わさったものが、幽玄という。

テーマ

“伝統芸能=堅苦しいもの“ではない。
能は、室町時代から続く仮面劇・歌舞劇で、歴史上の人物や神話を題材にした物語が殆ど。
今で言うとミュージカルに近しい。
古語と独特なリズムの謡や囃子に、舞で構成されている。

題材は、源平合戦でお馴染みの平敦盛、源義経や、源氏物語、羽衣伝説等があり、周知のものもあるだろう。

ここで「木曽願書」のあらすじを引用する。

木曽義仲(きそよしなか)は、平家を討とうと、五万騎を率いて、越中・加賀の国境、砺波山(となみやま)に陣を取る。
一方、平家十万余騎は越前から攻め下り、倶利伽羅峠近くで両軍が睨み合い、明日決戦の様相となる。
近くに新しい社殿が見えたので、義仲は在所の人に尋ねる。さっそく右筆(文章を扱う役目)の大夫坊覚明を呼び、後世のため、戦の勝利のために願書を書かせ、一同と共に神宮へ参拝、願書を読み上げ鏑矢を奉納し、勝利を祈念する。
次の早朝、木曽の臣下今井兼平が大将となり、木曽五万騎は平家に攻め入る。
神宮の社殿に神火が燃え上がり木曽の兵の闇を照らす。
平家がたは、驚き逃げようとするが、七万余騎がひしめきあい、馬もろとも倶利伽羅峠に落ちてしまい、木曽軍の思わぬ勝利となる

木曽願書(黒川能 上座)

倶利伽羅峠の戦いは、小中学校の授業で学習する範囲であろう。
大河ドラマにもありそうな。

併せて、鑑賞前に一読いただけると幸いなことを記す。

読む-導入-

あらすじを読む。さらに深く理解したいとなれば、詞章を読んでみる。
詞章とは、能の台本のようなもので、古文で書いてある。

先ず、あらすじを読み、さっとでも内容を理解していることは、重要だと考える。
これは、俗にいうネタバレとは違い、より楽しむためのものだ。
どんな物語なのかを先に知っているだけで、大まかな流れが掴める。これから能を見てみようという人は、あらすじだけでも読んでみてほしい。
現代語訳されておりわかりやすい。

私が今まで行った公演では、演目とあらすじ、出演者、配役が載っているパンフレットのようなものが配布さていた。

能を見たけどつまらない、内容がわからない、ということがゼロになるわけではないだろうが、大まかな流れを知っておくことで理解度が増す。

ここに木曽願書の詞章を引用する。(一部抜粋)

ーそもそもこれは、木曾義仲とは我ことなり
ーかしこに平家、両軍あひささえ龍虎の威をふるひ、獅子象の勢ひ、帝釈修羅の思ひをなし
ーあの茂みの中に、新しき社壇の見えたるは、いかなる神を勧請申したるぞ尋ねて来たり候へ

木曽願書(黒川能 上座)

なんとなく書いてあることはわかるだろう。

現代語訳せよという問題ではない。
漏れずに理解するのは、古文に精通している玄人か、タイムリーに古典を勉強している学生くらいかもしれない。

なんとなくでいい。最初はなんとなくのその軽い1歩がとても大きい。
あらすじ読んだ、ストーリーわかった、御の字だ。

聴く-変化-

能は古語と独特なリズムで演ずると書いたが、これは普段から聞き慣れていないものだろう。
先程の詞章を、読んでそれなりに推測できても、実際に聞いてみただけでは、半分もわからない。
まるでタイムスリップしているかのよう。
発声も日常のそれとはまるで違う。

洋画を字幕で観る人はいると思うのだが、字幕なしと字幕ありでは物語の理解度が違う、さらに吹き替えとなるとどんな印象を受けたかも変わる。
聞きなれずに字幕もないと、目の前のシーンに集中できず、話もわからない。
これではつまらないと感じてしまうだろう。
洋画を何度か観るうちに、フレーズが聞き取れるようになるのと同じように、古語も耳が慣れていく。

ただ、言葉を全て聞き取れたとしても、内容まで理解できたかというのは異なる。
古語を現代の意味で推測することは、聴くだけではなかなか難しい。
だからこそ、あらすじを読んでから観ることは必要に思う。

聴いてほしいのはそれだけではない。
囃子の演奏や地謡もとても重要。

囃子方とは、太鼓、大鼓(おおつづみ)、小鼓(こつづみ)、笛から構成されており、楽器を担っている。
「ヨオォォォォォォ」「ハッ」などの掛け声が様々あり、それらが一体となって情景や場面の盛り上がりが伝えられる。

例えば、映像作品において、演者は語らずに音楽のみで情景を伝える場面があるように、能でも、囃子方は舞台上の場面を作り出している。

そこに、地謡が加わる。コーラスに似ているものだ。
囃子と地謡が、悲哀、激憤、歓喜、愉快、これらの心情を観客に届けている。

観る-終着-

始めに見ているではないか、と思われるだろう。
しかし、ここでの観るは動き、仕舞や所作のこと。
これらは能の流派によって特徴が違うのであるが、それは割愛しよう。

前半の静かな動きから、後半の舞。まさに静から動になる。
後半の舞も、常に動きが大きいというものでもなく、静から激しく足を踏み鳴らし、勢いよく腕を振り上げ、急に拍子が変わるなど。

能といえば、能面を思い浮かべると思うが、シテは面をつけていることが殆どで、演者自身が表情を変えて何かを伝えることはできない。
しかし、面をどのようにつけるか、演者の動きで与える印象が変わる。

能面に表情がない。
とは言い切れず、角度が変わると、光の当たり方で見えかたが変わる。
正面では笑みが溢れているようでも、少し角度に変化があるだけで、含みを持った怒りの表情にも見えることがある。

能面の陰影で印象が変わる。

そこへ演者の動きが加わり、登場人物の複雑な心情が表れる。

初見では、急な舞に惹きつけられても、静かな足運びは味がないと感じるかもしれない。
しかしこの静かさ、ゆっくりな運びがあるからこそ、勢いのある動き、急な運びが際立つ。
それが、観客の高揚感につながる。
舞だけなく、煌びやかな装束や扇もそう。

演者が持つ扇は舞のダイナミックさや、反対に繊細さを表している。
それだけではない。
盃など道具に見立てることもある。
それは、能の極限まで削られた美的感覚ではないかと思う。
小道具をたくさん使うことなく、観客の想像を掻き立てる役割だ。
落語もそうだと思うが、扇を箸に見立てて蕎麦をすすっているように見せたり、はたまた、大きく音を鳴らし臨場感を出したり。

このように、扇ひとつで舞の華やかさを引立てることに加え、小道具にもなる。

演者の動きや装束、ひいては情景や場面の展開の奥深さを、ここでの観るに集約している。

余白

つらつらと記したが、『面白い』という感想だけが正解とはしていない。
実際に足を運び、鑑賞してみたが合う合わない、興味がうつらないこともある。

要因は様々考えられる。
時間が長い。
大きな舞台転換等がなく背景も変わらない。
言葉もイマイチわからない。
舞台袖に帰って終わったのかと思えばまた出てきた。
などがあげられる。

昨今のタイパ重視のエンタメを享受して、数秒に1度は大きな展開に慣れていたら、そもそも能自体つまらなく感じるのではないか、というのが私の所感だ。

映画の上演時間が短くなりつつあるが、能は数百年以上もその型は殆ど同じだ。
1時間から2時間ある舞台で、ことあるごとにクライマックスのような大きな展開はなく、後半になるにつれ徐々に盛り上がりがある。
いきなりサビのような展開はこない。

捉え方に正解はなく、曖昧さを愉しむのも、能の奥ゆかしさである。
どんな感想を抱いても、間違いということはない。

見たことがないけど難しそう・堅苦しそう・つまらなさそうという食わず嫌いのまま、能を遠ざけないでくれたらいいなという希望。

エンタメが手近に、時短に、答えがある、そんな令和であるが、
伝統芸能へ足を運び、余白と余韻、幽玄を少しでも多くの方へ届けられたらいいなという期待。

序破急は何事にも通ず、どんなものでも導入はある。
その誘いをここに。

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