よく泣くわたしが涙を流す理由。
先日、一緒に暮らす親に「何故そんなによく家で泣くのか」と言われた。その日は私は夜ご飯を親と食べたあと、涙を流していた。何か具体的な嫌なことがあったから、とかではない。泣きたくなったと思うより先に、涙がそっと静かに流れていた。そして私はそっと静かに涙と一緒にソファに座っていた。
そう言えば昔から、「どうしたの、なんで泣いているの」とよく親に心配され、時には「泣くな」と厳しく怒られてきた。「なんで怒られるんだろう」と当時は思ったりした。ただ泣いているだけなのに。今なら、起こる親の気持ちもわかる。私の泣いている理由が見えず、なにかしてあげたいけどわからず、親も困っていたのだと思う。
“わたしはなんで家でよく泣くんだろう”
今回じっくり考えてみることにした。
共感してくれる人、または私は違うよという人がいたら、教えてほしい。私も、“みんなの泣く理由”を知りたい。
1. 私は他の人に比べて泣くことが多いかもしれない
私は家に限らずそもそもよく泣く、と思う。けれど友達の前で泣くことはめったにない。振り返ってみると、一人で電車に乗っている時、一人で歩いている時、そして家にいる時、これらのシチュエーションに私の涙は集約されている。(もちろん、映画や美術作品に感銘を受けて涙することも多いが、ここではそのような感動体験による涙は除いて考える。)電車内で号泣したことも数知れず、散歩の時には音楽を聴きながらしょっちゅう涙を流している。家では家族の知る以上に泣いているであろう。
2.泣く理由
私はなぜ泣くのだろう。私はどうしてよく涙を流してしまうのだろう。私は嫌々涙を流しているのではなく、むしろ好んでいるような気もする。
私の場合具体的、説明しうる理由があって泣いている場合は少ない。
「何があったの?」と泣いていると親にそう声をかけられる。でも、私はいつでも答えられない。だって、涙を引き起こした具体的な理由がないからだ。(普段諦念のような感情で過ごし、他人に対して期待することが少ないのでそもそも具体的な出来事で傷つくことは少ない。例えば、友達が約束の待ち合わせ場所に一時間以上遅刻してきたことがあるが、一ミリも怒りの感情は起こらなかった。)
具体的な出来事に傷がつき、泣くことは少ない、しかし私は泣く回数は多いのである。
① 周りのネガティブを吸い取る、そして浄化
私は普段友達の会話の聞き役になることが多い、友達の悩みや愚痴をよく聞き、また私自身も率先して聞いている。友達からは癒し的存在として思ってもらえることも多く、私にだけはそう言った悩みを話せると言ってくれる人も多い。これは大変うれしい。もともと人には幸せになってほしいという感情も強くあり、また聞き役などに自分は適しているという自負もあるため、これからも続けたいしこれからも友達にはそういう存在として思ってもらいたい。しかし、私が望んで行っている行動にも関わらず、どうやら私の中に友人たちの抱えていた負の感情が蓄積していくようである。ちゃぽん、ちゃぽん、と言葉の水が注がれるように。
「溢れる、溢れる」
友人たちの感情が自分の中に落ちていく様子を意識して知覚できているわけではない。けれど心のコップが一杯になるように、自分が“これ以上友人たちの感情を吸い取ることはできない、溢れてしまう”という限界が定期的にくるようだ。比喩的ではなく、「溢れる、溢れる」そういう気持ちで心がいっぱいになる。私の心はせわしくなる。そうするとその悲劇的騒乱の心を鎮めるように涙が出てくる。
涙の登場、私の涙には言葉が詰まっている。
溢れ出しパニックの心を鎮めるように涙が登場する。そして私の涙には、どうやら言葉が詰まっているようなのだ。心にたまった言葉が涙に詰まっているようなのだ。
せわしない心から、言葉が涙に詰められて運ばれ旅立っていく、私の心は荷造りされた涙を見送りながら空っぽになっていく。すべての涙の輸送を終えまた新しい友人たちの混沌とした感情を引き受けるために。
私の心にたまるものは、友人たちの感情だけではない。ちらりと触れたように、私は人に幸せになってほしいと思う気持ちがある面では強いようである。
昔から国際協力やチャリティなどに関心が強いことからも推測される。そのため、友人に限らず、直接的な関わりのない人に降りかかる悲しみの影響も私は受けるのである。昨今でいうと、コロナの影響は大きい。自分が飲食店でアルバイトを行い、より他人ごとに感じられないことも関係しているが、コロナにかかってしまった人、医療従事者、コロナで経済的に影響をうけた人の話をニュースで聞くのも辛いものがある。私の想像でしかない彼らの悲しみは私の中に、ちゃぽん、ちゃぽんと溢れるまでたまっていくのだ。コロナに関わらず、海外で頻発する紛争や児童労働などの国際問題も、自分ができることはないのかと心がえぐられるような思いをする。
従って、様々な他人のネガティブを吸収してしまう私は溢れることがあるのだ。溢れたら、流すしかないのである。私の場合は、それが涙であることが専らなようだ。
② 自信を取り戻すための涙
二点目の理由として自分を保つためを挙げた。これは、①の溢れた心を鎮めるためと関連しているのではないのかと思うかもしれない。しかしここで述べたいことはそれとは異なる。自分に対して幻滅しそうになったときに私は涙を流すようなのである。
私は基本的に人と接するときは他人が心地よい気持ちになれるようなふるまいを心掛けている。つまり舞台であれば影武者やそもそもの大道具などの舞台セッティングの裏方のようなポストを自ら負うのである。
完璧になれない私をなかなか認められないわたし
他人を幸せにしたい!しかし、毎回人に対し理想的/完璧なふるまいができているかと言われればそうではない。そのため、私は行動を頻繁に振り返り反省をすることが多い。どのような行動がその状況では最適であったか、頭の中で議論が行われる。当たり前だが、複雑な状況下では明確な具体的詳細な答えがあるわけではない。しかし私の中での活発な議論は止まらない。暫定的な答えは一時置かれるが、その答えにも不安がつきまとう。
そして答えと自分をも見失う。自分を主人公へと取り戻す涙
私はぐるぐると捕まることのない答えの尻尾を追いかけ、しまいには自分自身を見失うようである。自分とは何なのか、価値のある存在なのか、ぐるぐると周りめまいを起こしている私にはそのような自身の根本をも疑うような問いが目の前に現れる。そのような時に私は涙を流すようである。自分自身のために、自分自身を癒しめまいから自らを呼び覚ますように。この時に流す涙は自身を無敵にさせる。裏方を普段好む自分を完全たる主人公へと仕立てあげる。最大限に自分を周囲から隔絶し、自分自身を最大限に哀れみ褒めたたえる。自分は素晴らしい人間なのだと涙を流しながら自分に言い聞かせる。こうすることによって、私の脳内は整い、次第に冷静さを取り戻す。一切のバランスを取り戻すようなのだ。
ここまでつらつらと述べてきたが、要するに私は周りのネガティブを吸い込み、それにより自分自身を見失い、心のバランスを見失ってしまうらしい。心にネガティブが溜まりすぎたら、それを放出し、また「私はわたし!わたしは主人公!」と自分の涙に思い出させてもらう時が必要みたいだ。私にとっては涙は相棒であり、いつでも味方の友達だ!
あなたは、どんな時に涙をながしますか?
