第二部 第八章 二人のアスラン
「イリヤに本を買っていってあげるって約束したんだっけ」
とは言っても、イリヤの読んでいない本なんて、見つけられるのかな?
アスランは顔をしかめて、都の図書館のような、イリヤの部屋を思い浮かべた。
「ああ、それはよかった」
アスランの言葉に、ミネは大急ぎでうなずくと、後ろの護衛たちに目配せした。
「イリヤ様と約束なさったのなら、なおさらです。ああ、大丈夫ですよ、その間、ミネは一人で買い物を済ませてきますから」
ミネはアスランの質問攻めから逃れられるとばかりに早口でそう言うと、自分は買い物の続きをしにさっさとアスランの元から立ち去ってしまった。
「あ、もう、ミネったら…」
あっという間に通りの向こうへ消えたミネに、アスランは口を尖らすと、ため息をついた。
「しょうがないなあ、もう」
不自然に顔を隠したアスランは、屈強な男たちがぞろぞろとひきつれて本売りの方へ近づいた。
「いらっしゃい」
小さな箱に腰をかけた本売りの男は、アスランをちらりと見上げて手の中の酒瓶をチャポチャポと音をさせて振った。
まだ昼間だと言うのにもう大分飲んだ様子で、男の顔は真っ赤で、息も酒臭い。
酔っぱらって、商売ができるのかな。でもここから動いてミネとはぐれてもいけないし…。
酔っぱらいの前から立ち去ろうかどうしようかと迷うアスランを気にすることなく、男は上機嫌でアスランに話しかけた。
「学生さんには見えないが、文字が読めるのかい?」
「あ、はい」
男の問いについ素直に答えてから、アスランははっとして口を押さえた。
文字を読める人が珍しくないとはいえ、その教育は大抵アスランよりも年上になるころから始められる。
だから、アスランのような子供で文字を読めるということは、その言葉でそれなりの身分を証明したことに変わりなかった。
しかし、男はそれ以上のことを聞くでもなく、肩をすくめて並べた本を酒瓶で示した。
「君の興味を惹くような本がこの中にあるといいけどね」
「中を見てみてもいいですか?」
「もちろん」
アスランは地面にしゃがみこむと、一番分厚い本を手にとって妙にごわごわとした頁をめくった。
「この本…紙じゃないんですか?」
「ああ、それは羊皮紙だよ。山羊の皮をなめしてつくるんだ」
「じゃあとっても古い本なんですね」
アスランが感心したように言うと、男は真っ赤な顔に奇妙な笑みを浮かべた。
「古い? そうだな、俺も長く生きてるもんでね」
「そうなんですか?」
アスランは少し顔をしかめて、目の前の男の顔を見た。
身なりが汚いせいであまりよくはわからないが、男はせいぜい二十歳かそこいらといった風情で、長く生きているというなどという言葉はどうにもそぐわない。
男は自分に疑いの眼差しを向けるアスランに、チャポンと瓶の中身を揺らして空を指した。
「信じられないかもしれないが、俺はあの大樹と同じくらい、長生きしてるんだぜ」
「…大樹と同じくらいって、そんなこと」
ない、と言いかけてアスランは黙った。大樹を見る酔っぱらった男の目が、微かに潤んでいるように見えたからだ。
「…久しぶりにクゼイへ戻るといけないな。どうも調子が狂って結局酒を飲まなきゃいられなくなる。いつもなら一滴だって飲まないってのに」
「お兄さんはここの人じゃないの?」
独り言のようにしゃべりながらも酒瓶を傾ける男に、アスランは聞いた。
「さて、俺の長い人生でどこが故郷かと聞かれても、あちこち転々としてる身じゃ、どこが故郷ってこともないもんだ。ま、ここは思い出の土地ではあるけどね」
男はアスランの手の本をトントンと指で叩いた。
「俺はいろんなとこを旅して、そこで見たことを本に綴ってんだ。俺に出来ることといったら、それくらいでね」
「じゃあ、これは大事な本なんじゃないですか? それなら僕…」
「いいや、いいんだ。君が欲しいのなら、ここにある本全部持っていってくれ。俺が持っていたって、何の役にも立たないからな」
男はやっと酒瓶を地面に置くと、並べてあった数冊の本を重ね、すべてアスランのほうへ押しやった。
「大事に持っていてくれりゃ、それでいい」
「それはもちろんです。でも、本当にいいんですか?」
「いいと言ってるだろう」
「それなら…」
アスランは本を後ろの護衛に渡し、ミネから渡された金貨を出そうと、慌ててポケットの中をまさぐった。
しかし、あんまりアスランが慌てたせいか、ポケットの中から金貨の代わりに、例の金の髪飾りがぴょこんと飛び出し、涼やかな金属音を立てて地面を転がった。
「わ、ごめんなさい、それ…」
転がった髪飾りは、男のぼろぼろになった靴にこつんと当たって小さく跳ね返ると、大樹の葉の隙間からこぼれ落ちた空の光を精いっぱい反射してぴかりと光った。
「…これは、君の?」
男は腰をかがめてその髪飾りを拾い上げると、目の前にかざしてじっと眺めた。
「はい、ええと、でも…」
男の言葉に思わずうなずいてから、アスランは男の自分が髪飾りなど持っているのはおかしいことに気付いて、何と言うべきか言葉を失った。
「…それとも、どこかで拾ったか?」
一気に酔いがさめたような男の真剣な目が、アスランを問いただすような光を宿してこちらを見つめる。
「あの…そうじゃなくて、人にもらったんです…」
「もらった? そうか…」
男は一気に年を取ったような声でそう言うと、黙ったままアスランに髪飾りを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
アスランはその髪飾りを受け取ると、ポケットに仕舞い、代わりに本の代金を男に渡そうとした。
「あの、お兄さん、これ本の代金…」
「金は要らないよ」
男はアスランの金貨をちらりと見ると、疲れ果てたように額に手を置いて答えた。
「でも、お兄さんは本を売って生活をしているのでしょ? だから…」
「この本は金のために綴ったわけじゃない」
「でも…」
困惑するアスランに、男ははっきりと首を振った。
「金などなくても、俺は生きていける。いや、生きると言うよりは、死ねないと言うべきか…。これは間違いを犯した俺に、神が与えた罰なんだろうな」
男の最後の言葉は、目の前のアスランの耳にやっと聞えるほどの、小さなつぶやきだった。
しかし、すぐに男は自分の口から出た言葉をかき消すように、アスランに向かって明るい声で言った。
「ま、とにかく金は要らない。君がその本から何か得ることがあれば…」
「小アスラン様! 御本はいかがでしたか?」
「ミネ!」
通りの向こうから、せかせかとこちらに向かってくる小太りの人影に、アスランは振り返った。
「アスラン? 君はアスランというのか?」
ミネの呼び声に手を振り返すアスランに、男は少し驚いたように声を上げた。
「偶然だな。俺もアスランっていうんだ」
「本当ですか?」
「ああ」
二人のアスランはお互いの顔を見て、目を瞬いてから、思わず笑った。
少し古風な名前の二人が、田舎の小さな市場で出会ったことは、アスランには何か不思議な縁のように感じられた。
しかし、今はのんびりと話している暇はなさそうだった。
「小アスラン様!」
「今、行くよ!」
せっかちに自分を呼ぶ声に手を振って答えながら、アスランは男を振り返った。
「…それじゃ、お兄さん。僕もう行かなくちゃ」
アスランは、自分と同じ名前の本売りの男に、すっかり打ち解けたような気分で言った。
「ああ、またな、アスラン」
男も無邪気な笑みで、乾杯するようにアスランに酒瓶を掲げた。
「うん。アスランお兄さんも、お酒はほどほどにね」
アスランはそう言うと、大急ぎでミネの元へ走っていく。
本売りの男はその小さな背中を見送ると、空を見上げて酒瓶の底に残った、最後の一滴を喉の奥に垂らし込んだ。
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