【3.11】私は何も失わなかった
2011年3月11日、宮城の内陸部、震度6強~7だったか曖昧。
20歳、大学生活にも慣れてきたころ。
ファミマのオープニングスタッフでバイトをはじめて3週間弱。
地震発生後に動揺してバイト先へ様子を見に行くと、ピカピカだった店舗に割れた酒の瓶が散乱して、ワインの赤色が床を染めていた。
猫背のおっさん店長は、ため息をつきながら笑っていた。
田舎でもともと日が沈めば暗い町なのに、家の灯りも街灯も信号も全て消え失せてしまった夜。やっとこさ帰ってきた父の車に乗って過ごしたとき、アパートの駐車場から見た星が眩しくてあまりに綺麗だったこと。
同時に、カーラジオから石巻や気仙沼の海岸に多数の遺体が打ち上がっているニュースが繰り返し繰り返し放送されていたこと。
澄んだ夜空と残酷な災害、視覚と聴覚で受け止めるものが違いすぎて、昨日の夜と今日の夜の温度や匂いが違いすぎて、なんだか逆に少し冷静になっている自分がいた。
当時、まだガラケーで動画文化も今ほど発展してなくて、大津波の映像をちゃんと見たのは1週間後に電気が復活した夕方で、本当に衝撃を受けた。
自分が家族と住んでいたアパートは、家具家電はそこそこダメになったけど、建物は無事だったし、周りの人たちも無事だった。学校も、バイト先も、よく行くイオンも建物は全部無事だった。
やがていろんな催し物の中止の知らせが、毎日ラジオから流れて来た。
めちゃくちゃ楽しみにしていた5月3日のライブチケットも、早々にただの紙くずになった。
今でこそ、台風やらアーティストの急病、コロナ渦で延期・中止とか多発してたし、そんなに驚かなくなってきたけど、当時はチケット裏に書いてある【万が一中止の場合は払い戻しー】なんて、微塵も起こると思っていなかったから、その時地震が起きて以降、初めてすごく泣いた。
「そらそうでしょうよ、会場は遺体収容所になってんだし。」
家族に淡々と言われて、そんなことで泣いている自分は贅沢が過ぎるんだなと思って、それからすぐ自己嫌悪に陥った。私なんかのくだらない悲しみは全部閉じ込めようと思った。
たくさんボランティアに参加して、沿岸部の瓦礫掃除、写真洗浄、仮設商店街の手伝いとか、色々させてもらった。
東日本大震災で、私は何も失わなかった。
助かってほしい家族や友人は、すべて助かった。
どんな災害でも、被害の大きさは場所によって明確に違う。
何一つ残らない甚大な被害に見舞われた被災地がある一方で、日常に少しの損失と影響が出ただけの、絆創膏5枚くらい貼っておけばとりあえずやり過ごせるような場所もあるだろう。
自分の心に「もっと大変な人がいるから」という蓋をする。これくらいどうってことない、弱音を吐いてはいけないんだと思い込む。
でも、誰かの前で強く居たとしても、ひとりの時にまでそう思う必要はなかったと、今は思う。絆創膏レベルでも「痛かったね」と自分に優しくすればよかった。
怖かったのなら、辛かったのなら、悲しいのなら、泣いたらよかった。
涙が出てくるきっかけを、大切にすればよかった。
どこかで大きな災害が起こるたび、一番大変な人たちが少しでも救われることを願うし、一番じゃないからと耐えている人にも、自分の心をそっと撫でられる時間が訪れることを願います。



