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【短編】味 その3

 店はお昼食までの営業だ。近くの会社や工場の昼休みは一時に終わる。一時を回ると、客足が急に途絶える。私が店を閉めようとした時、
「まだ、大丈夫ですか?」
 と若いサラリーマン風の男が暖簾のれんをかき分けて顔を覗かせた。
「すみません。もうお仕舞いなんですが……」
 と断る私を遮って、
「どうぞ。いらっしゃいませ」
 母は男を招き入れた。私はじろっと母をにらんだが、何も言わなかった。
「暖簾、仕舞って頂戴」
 母は手が止まっている私に指示を出しながら、席にお茶を運んだ。
「うちは表の看板にあるように、日替わりの定食が二種あるだけです。肉料理と魚料理、どちらにしましょうか?」
「今日の献立は何ですか?」
「肉料理がハンバーグ、魚料理がかれいの煮付けです」
「では、煮付けをお願いします」

 男は最初の数口は掻き込む様子だったが、その後はゆっくり味わいながら咀嚼そしゃくしているようだった。
 その客は三日続けて来た。大体同じ時間だった。二日目は肉料理を注文した。

 そして三日目は魚料理を頼んだ。

 男は会計の後、レジの前から直ぐに立ち去る素振りを見せなかった。しばら逡巡しゅんじゅんしていたが、
「あのー、こんなこと言っては何ですが……」
 と話し出した。
「初めてここに来た時は、腹が減り過ぎていて、偶々たまたまこの店に飛び込みました。正直、味は期待していなかったんです。腹さえ一杯になればいいか位で……。それが、普通の料理なんだけど、とても美味しくて.三日連続で来てしまいました」
「あら、められているのかしら」
 母が微笑む。
「あっ、すいません、失礼なことを言ってしまいました。実は、私、幼い頃母を亡くしてまして……。ですから食卓に並ぶのは、親父が作ってくれる簡単な料理、目玉焼きとか野菜炒めとか、スーパーで買った惣菜や弁当とか、そんな物ばかりでしたから、お袋の味というものを知らないんです。会社に入ってからも、寮生活が長くて、食事にはすっかり無頓着むとんちゃくになっていました」
 この人は、母に自分の話を聞いて貰いたいんだと、何となく感じた。母もそう思ったようだ。母は黙ってうなづきながら、先をうながした。
「母の顔も写真でしか知らないんですけど、生きていれば年の頃は丁度女将さんぐらいかなって。そう思いながら食べていたら、こういうのがお袋の味かと思えてきたんです」
「まあ、そうなの」
「ここ数日、この先の会社に出張で来ていたんです。電車で片道三時間。うちは小さな会社で宿泊費も出ませんから日帰りです。ほとんど一日掛かりです。できれば人に押しつけたいくらいだったんですけど、今ではここに来るのが楽しみに変わりました」
「それは嬉しいわ。ご結婚なさってるの?」
「はい。子供も五才になる男の子が一人います。それで、私は、仕事で一人外食した時、美味しくてまた食べたいと思ったら、味を一所懸命覚えて帰って、家内に作って貰うんです。手前味噌で恐縮ですが、家内は結構料理が上手なんです。私の説明を元に、それらしい味に何となく仕上げてくれるんです。二度三度と食卓に並ぶと、それはもう私と子供にとってお袋の味になるんです」
「そうなの。いい奥さんね。じゃあ今日のも、そのレパートリーに入れてもらえるの?」
「はい。もちろん、その積りです。もしレシピを教えてもらえれば、もっとこの味に近づくと思うんですが……」
「そうよね。でもね、レシピはないのよ。調味料の量は適当だし、煮る時間も適当なの。四十年やってきた適当だから、私にはそれが普通なの。だから上手く言葉では教えられないの。ごめんなさいね」
「そうですか。それでは今日の味をしっかり妻に伝えて、再現してもらうことにします」
「そうして。だって魚の大きさも違うし、種類も違う。季節によって脂の乗りなんかもね。いつも同じ味を出すには、それぞれに合わせて調味料の量も煮る時間も変える必要があるの。だから適当なの。決して大雑把ではないのよ。それに美味しいと思う味は、人それぞれで違うのよ。例えば炎天下で作業している人だと少し塩っぱめにして、赤ら顔の人だったら血圧に気を使っていそうだから塩分を控え目にするとか、人に合わせてその都度変えているの。だからあなたが美味しいと思った物が、今のあなたにとって一番美味しい物なのよ」
すごいですね」
「凄いのは奥さんよ。だって私達は一回切りでしょう。でも奥さんは、毎日毎食家族のために一所懸命料理を作っている。それも美味しいものをね」
「また出張で来ることがありましたら、寄せてもらいます。ご馳走様でした」
 男は深々と頭を下げて出て行った。


「そんな話、私、初めて聞いたわ」
 私は洗い物をしながら母に言った。
「えっ? 何?」
「さっきの適当って話よ。それに人によって味を変えているって話。お母さん、ずっとそんなこと考えながら料理してたの?」
「一々考えないわよ。もう私の体に染みついた感覚なの」
「そう。でもどうして、もうすぐ店を閉める積りだと言う話、しなかったの?」
 私は尋ねる。
「そうね、何となく言い出せなかったの」
「もし、又あの人が来ることがあったら、がっかりするんじゃなくて」
「そうかも知れないわね。でも、仕方ないのよ。こういうことは。人はいずれ死ぬ。その時、営みは終わる。そういうものなの、人生って。でも、あの人の中に、私の料理が想い出として残るわ。私はそれでいいの。それで満足よ」

「閉めること、ないわよ」
 つい大きな声が出た。母はびっくりしたようだが、小さく首を振りながら、
「でも体の方が、段々言うことをかなくなってきてね……」と言った。
「私がやるわよ」
 咄嗟とっさに私の口を吐いて出た。

 私は子供の頃から、この店で働いている母の姿しか見ていない。いつだったか、母から店を閉めるかも知れないと聞かされた時、「いいんじゃない。お母さんの店だもの」と軽く答えていた。
 後々この店をどうするのか、母から相談を受けたらその時考えようと思っていた。

「えっ」
「お母さんは、側で見ててくれればいいわ。お母さんの味をどこまで受け継げるか分からないけど、楽しみにして来てくれる人がいる限り、私が続けてみるわ」
「ありがとう。でも、仕込みとか、仕入れとか、朝から晩まで大変よ」
「分かってるわ。私だって、お母さんの背中、もう何年も見てきてるんだから……」
「旅行はできなくなるわよ」
「いいわよ。行きたい所もないし」
「遊びにも行けないわよ」
「一緒に行く友達もいないし」
「結婚も遅れるかも」
「ちょっとぉ。やる気をなくすようなことばかり、言わないでよ。私がやるのに反対なの?」
「そうじゃないけど。私みたいになるわよ」
「いいじゃない。私、母さんの生き方、好きよ」
「バカ。親を揶揄からかうんじゃないよ」

 後は頼んだよ。母は、明日の仕込みに入る前に、一休みするようだ。いそいそと居間に向かう。

「そんなこと言われると、恥ずかしいじゃないか」
 母のつぶやきが聞こえた気がした。

<終わり>

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