「勝ち組の男は女を羨まない」という、大きな勘違い
はじめに
婚活論で一定の支持を集める某氏——恋愛婚活コンサルタントである——が、こう書いていた。
世の中は強者であるほど男性に優しく、
弱者であるほど女性に優しい仕様になっている。
だから勝ち組の強者男性で女性が羨ましいと言う人は殆どいない。
きれいな対称性だ。強者の軸では男に、弱者の軸では女に、社会の優しさが振り分けられる。そして上端にいる男たちは女を羨まない——だからこの「仕様」は正しい、と。
本稿は、この一文の前提そのものを否定する。「強者男性は女を羨まない」——これは観察として端的に間違っている。彼女は二つの別の感情を一語に潰し、片方の不在を見て、もう片方まで不在だと結論した。具体的には、崇敬の不在を、羨望の不在と取り違えている。
先に一つ断っておく。本稿は「女の人生は実際に楽だ」とも「男のほうが不幸だ」とも主張しない。後で触れるとおり、「女はイージーモードだ」というのは事実認定ではなく、男の側が抱く知覚である。本稿が示すのは、その知覚を含めた羨望が、彼女の言う「殆どいない」とは裏腹に、男のあらゆる階層に広く存在する、という一点だけだ。
そして私は男として、内側からこれを書く。彼女が外から眺めているものを、私は内側で見ている。その差が、最後に効いてくる。
某氏の論証を、梁一本まで剥がす
主張を構成に分解すると、こうなる。
命題A(大): 社会は強者ほど男を、弱者ほど女を優遇する仕様である。
観察B(小): 強者男性で「女が羨ましい」と言う者は殆どいない。
接続: Bだから、Aが正しい。
巨大な構造命題Aの全荷重が、観察Bという一本の梁にかかっている。寿命、自殺率、労災死、孤独、親権の帰趨——Aを直接測る指標は一つも出てこない。出てくるのは「強者男性は羨望を口にしない」という、たった一つの観察だけだ。
ならば問うべきはただ一つ。その観察Bは、そもそも本当なのか。
結論を先に言う。本当ではない。某氏は、男の内面で起きている二つの異なる現象——崇敬と羨望——を区別できておらず、片方の薄さを、もう片方の不在と読み違えている。
某氏が見たのは「羨望の不在」ではなく「崇敬の不在」
強者男性——年収・資産・地位・容姿のいずれかが高い男——と接して、某氏が実際に観測したものは何か。それはおそらく、彼らが女を崇めないという事実だ。女を神聖視せず、特別扱いせず、どこか冷めている。某氏はこの冷たさを見て、「満たされているから女に興味も羨望もないのだ」と解釈した。
だが、この冷たさの正体は満足ではない。幻滅である。
年収や地位や容姿が上がっていくと、男は「人として」ではなく「資源として」値踏みされる場面を、高い解像度で大量に浴びるようになる。
これは印象論ではない。
国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査は、結婚相手に求める条件に、男女で測定可能な非対称があることを一貫して示してきた。
両性とも最重視するのは「人柄」だが、その次の層で、女性は男性の「経済力」「職業」を、男性が女性のそれを重視する以上に重く見る。最新の第16回調査(2021年)では、男性が女性の経済力を重視・考慮する割合が48.2%(前回41.9%)まで上昇したが、それでもなお「男は女の容姿と若さを、女は男の経済力を」という非対称の骨格は崩れていない。
評論家の荒川和久氏は、この構図を「金で選ぶ女、年で選ぶ男」と要約している。内閣府・経済社会総合研究所の分析(2025年)はさらに踏み込み、女性の高学歴化と所得向上で、結婚に際し女性が設定する「留保条件」が上がり、見合う男性が減ったことを婚姻率低下の一因とする。
留保条件——男が一定の資源水準を超えて初めて選択の土俵に乗る、ということだ。地位が上がるほど、男は「土俵に乗った資源」として評価される頻度も解像度も上がっていく。
この状態の症状を、最も正確に言語化した男がいる。
お笑い芸人のケンドーコバヤシ氏だ。「女体は好きだが女は嫌い」という彼の一言は広く知られているが、文脈を誤解してはいけない。これは満ち足りた勝者の軽口ではなく、テレビ番組で女性への根深い不信——共演者が「漆黒の闇」と評したほどの——を語る中から出てきた言葉だ。彼の別の証言が構造を明け透けにする。
インタビューで彼は、関係性としては聞き上手で落ち着いた女性が本当は好きだと語る一方、身体的な欲望は若さに抗えないという趣旨を述べている。欲望(desire)と敬意(esteem)が、本人の中で分裂している。 性的・美的な欲望は無傷で残り、人としての信頼だけが壊れている。「女体は好きだが女は嫌い」とは、この分裂の標語だ。
これが、某氏の見た「冷たさ」の中身である。満足ではなく、削れた崇敬。そして——ここが決定的だが——崇敬が薄いことは、羨望が薄いことを少しも意味しない。 某氏は「女を崇めない」を「女を羨まない」と等号で結んだ。その等号が、彼女の論証の折れ目だ。
崇敬は満たされ度と逆に走り、羨望は全階層に残る
崇敬と羨望は、別の軸だ。そして崇敬の軸は、某氏の「満足」仮説とは逆向きに走っている。
弱者男性・非モテ男性ほど、女を崇拝する。手の届かないものは神聖に見える。彼らは女を理想化し、崇め、そして同時に羨む。一方、強者男性やモテ層——ナンパ師、モテコンサル、ヤリモク男性——ほど、女を見下す者が多い。これはその界隈の言説自体に顕著な傾向だ。重要なのは、彼らが性的には最も成功しているという点である。
性的成功と女性への敬意は、まったく別々に動く。むしろ逆相関することさえある。崇敬は、満たされ度が上がるほど削れていく。
もし某氏の言う通り「崇めない=満足」なら、最も女を見下す層が最も満たされ、最も女を崇める層が最も飢えている、という話になる。だがそれは「満足」の話ではない。崇敬の高低は、女との距離と幻滅の度合いを表しているだけで、満足とは何の関係もない。
では羨望はどうか。崇敬とは逆に、羨望はほぼ全階層に残っている。 対象は「女の恋愛・結婚・人生のイージーモード」——男がそう知覚するもの——だ。繰り返すが、これは事実ではなく知覚でいい。女の人生が本当に楽かどうかは、本稿の論旨に関係ない。関係あるのは、男がその知覚を抱き、それを羨む、という事実のほうだ。
弱者男性は、この羨望を崇拝と一緒に、わりと素直に表に出す。「女はいいよな、選ぶ側で」と。だが強者男性は、崇敬が削れているぶん、同じ羨望を侮蔑の形で出す。「女は楽でいいよな」「イージーモードだろ」——見下しと羨望が同居した、あの口調で。某氏は、この侮蔑混じりの言い方を、羨望としてカウントしない。だが「楽でいいよな」は、羨望の一形態だ。それも、かなり典型的な。
つまり某氏は、羨望が崇敬を脱いで侮蔑をまとった姿を、羨望だと認識できていない。「殆どいない」のではない。彼女のカウンターが、その形の羨望を拾えていないだけだ。
なぜ某氏に、強者の羨望は聞こえないのか
某氏の観測装置には、構造的な穴が三つある。
第一に、いま述べた語り口の問題だ。強者の羨望は侮蔑に偽装して出る。崇敬の高い弱者男性のような「女が羨ましい」という素直な形を取らないので、羨望として集計されない。
第二に、表明コストの問題だ。そもそも男が「女が羨ましい」と素直に口にすること自体に、強い社会的ペナルティがかかる。それは弱さや非男性性の告白とみなされる。だから羨望は、崇敬を失って強がる必要のある強者ほど、ますます侮蔑に偽装される。某氏が観測しているのは、男の内面ではなく、内面を素直に口にすることのコストだ。
第三に、観測者の位置の問題だ。女性である某氏は、男の発話を外側からしか観測できない。観測できるのは「女は楽でいい」という表面の侮蔑だけで、その底にある羨望には手が届かない。彼女はその侮蔑を額面どおり受け取り、「だから羨んでなどいない」と読んだ。だが侮蔑は、羨望が消えた証拠ではない。羨望が崇敬を失ったときに取る、ありふれた形にすぎない。
三つの穴は、同じ一つの故障に行き着く。某氏の測定器は、羨望の総量ではなく、羨望が社会的に許された表現を取る確率を測っている。 そして強者男性は、その許された表現を最も取りにくい位置にいる。だから目盛りはゼロを指す。中身がゼロだからではない。
検証不能という、上端だけに課される税
崇敬と羨望の取り違えとは別に、某氏が「優しい指定席」と描く上端には、彼女の図式では見えない固有の損失がある。「自分自身が愛されているか」を、検証できなくなるという損失だ。
資源が大きいほど、向けられる好意の真贋判定が不能になる。その好意は、年収に向けられたのか、地位にか、容姿にか、それとも本当に自分という人間にか——切り分ける手段が、資源の大きさに比例して失われる。信号に対してノイズが大きすぎて、信号だけを読み取れない。
皮肉なことに、中央値の男のほうがこの一点では恵まれている。差し出せる資源が乏しい男は、それでも誰かに愛されたとき、「これは資源ではなく、俺自身への好意だ」と信じられる。検証可能な愛は、地位とともに失われていく。宝くじの高額当選者が当選後にかえって人間関係を切り詰めるのと、同じ構造だ。彼が浴びる好意の総量はむしろ増える。だが、そのうち「自分自身に向けられた分」を切り分ける術は、増えた好意の陰で消える。
これは上端に支払わされる税だ。そして羨望は、この税を覆い隠す。税を払う本人ですら、それを「自分は恵まれている」と読み替えることがあるからだ。某氏が描く「優しい指定席」は、外から見た像でしかない。
そもそも「羨望」は、社会の優しさを測れない
ここまでは某氏の前提Bが偽であることを示してきた。だが仮にBが真でも、なお問題が残る。そもそも「羨望」は「社会の優しさ」を測る計器ではない。
ある集団に社会が優しいかどうかは、別の集団がそれを羨むかどうかでは測れない。測るなら、その集団が実際にどんな結末を迎えるか——アウトカムを見るしかない。そして本来見るべきアウトカムは、某氏の図式にとって不都合な方を向いている。
自殺。厚生労働省と警察庁の統計では、2024年の自殺者は2万320人。うち男性は女性の約2.1倍で、この比率は何年もほとんど動かない。人口10万人あたりの自殺死亡率でも、男性22.9に対し女性10.3と、2倍以上の開きがある。2025年に自殺者数は統計開始以来初めて2万人を割ったが、男性が女性のおよそ2倍という構造は変わらない。
労働災害死。2023年の労災死は755人。その約3割が建設業、次いで製造業、陸上貨物運送業——いずれも就業者の大半が男性の現場だ。社会の最も危険な底辺労働を担い、そこで死ぬのは圧倒的に男だ。
住まいの喪失。厚生労働省の全国調査では、路上生活者の性別はほぼ一方に偏る。令和3年度の生活実態調査では、有効回答1,300人のうち男性が1,241人——95.5%。2025年1月の概数調査でも、確認された2,591人のうち男性2,346人、女性163人。家を失い路上に流れ着く人間の九割以上が、男だ。
社会の底で死に、傷つき、家を失うのが主に男だという事実は、少なくとも某氏の「弱者には女に優しい」地図とは、きれいには重ならない。だが私はこの数字を「だから男のほうが冷遇されている」という主張のために使うのではない。
私が言いたいのはただ一つ。
これらこそが「社会の優しさ」を測るときに見るべき指標であって、「強者男性が女を羨むかどうか」ではない、ということだ。体重を知りたいのに、温度計を覗いているようなものだ。針がどこを指していようと、それは体重について何も語らない。
予想される反論に、先に答えておく
某氏の側からは、三つの切り返しが来るだろう。順に潰しておく。
「それは羨望ではなく、負け惜しみだ。『女は楽でいい』は、手に入らなかった者の酸っぱい葡萄にすぎない」。 ——だが酸っぱい葡萄も、羨望の一形態だ。イソップの狐は、葡萄を欲しがっていたからこそ「あれは酸っぱい」と言った。欲しくないものを、人はわざわざけなさない。けなすのは、欲しいのに届かないか、手に入れたが幻滅したときだ。どちらにせよ、無関心ではありえない。そして決定的なのは、それが羨望なのか負け惜しみなのかを、某氏は外側から判定できないという点だ。「女は楽でいい」という同じ一言を、彼女は「羨望ではない」と読み、私は「羨望だ」と読む。同じ観測が両方に開かれている以上、その観測は彼女の「羨まない」を証明しない。またしても、測定器の問題に戻ってくる。
「ナンパ師の見下しは虚勢で、本心では女を崇めている」。 ——それはこちらの主張を弱めるどころか、強める。仮に虚勢だとしても、彼らが崇敬を表に出さないという事実は動かない。本稿の主張は「強者男性は崇敬を示さない=某氏が満足と誤読する冷たさを示す」であって、内心に崇敬があるか否かではない。虚勢説を採れば、某氏はなおさら、表層の冷たさを内面の満足と取り違えていることになる。
「強者男性は実際に満たされているから、何も言わないのだ」。 ——言わないのではない。言える形が侮蔑しか残っていないだけだ。そして満たされているか否かは、そもそも羨望の有無では測れない(前章の計器の話だ)。「満足だから言わない」と「言える語彙がないから言わない」は、外からはまったく同じ沈黙に見える。某氏は、その沈黙を都合のいいほうに読んだ。
三つの反論は、いずれも同じ場所に着地する。某氏は、羨望と崇敬と満足と負け惜しみを、外側からの観測だけでは切り分けられない。にもかかわらず、彼女はそれらを一語に潰し、最も自説に都合のいい一点に賭けた。
まとめ
某氏の論証を、一行に畳む。
彼女は、崇敬の不在を羨望の不在と取り違え、羨望の不在を満足と取り違えた。 二重の取り違えである。強者男性が女を崇めないのは事実だ。だがそれは満足ではなく幻滅であり、しかも崇敬が薄いことは羨望が薄いことを意味しない。その羨望は、崇敬を失って侮蔑をまとい、表明コストに押されて「女は楽でいい」という形で漏れる——某氏のカウンターが拾えない形で。仮に強者男性の羨望が本当に薄かったとしても、薄さは満足を証明しない。だが実際には、薄いのは羨望ではなく崇敬のほうだ。
「強者男性は女を羨まない」——この観察は、崇敬と羨望を分けた瞬間に崩れる。男は、あらゆる階層で、女の(と彼らが思い込む)イージーモードを羨んでいる。変動するのは羨望ではなく崇敬であり、その崇敬は、満たされ度が上がるほど削れていく。某氏が「満足の証」と読んだものは、その削れた崇敬の影にすぎない。
最後に一点、別の角度から。
この言説が何をしているかを見ておきたい。
動機は問わない——外から人の内面を断定するのは、まさに本稿が某氏に対して批判した過ちだからだ。問うのは機能だけだ。
「強者男性は女を羨まない/社会は強者男性に優しい」という主張は、結果として、女性が強者男性のみを選ぶという選択的配偶行動を、「社会の自然な仕様」として描き直す働きをする。そしてそれは、たまたま、その主張を掲げる側が占める位置を、都合よく正当化する形になっている。
これが偶然なのかどうかは、読者が判断すればいい。私はただ、梁の折れた橋の上で、その橋が誰にとって心地よく架かっているかを指差すだけだ。
結び
繰り返す。私は「女の人生は楽だ」とも「男のほうが不幸だ」とも言っていない。イージーモードは男の知覚であって、事実認定ではない。社会が強者男性ほど優しい、という命題Aそのものも、正しいかもしれない。
私が示したのはただ一点だ。命題Aを支える唯一の梁——「強者男性は女を羨まない」——は、崇敬と羨望を取り違えた偽の観察であり、論拠として機能していない。男は羨んでいる。某氏に、その声が崇敬の衣をまとっていないというだけの理由で、聞こえていないだけだ。
——梁が折れている橋は、向こう岸が正しい場所にあるかどうか以前に、渡れない。
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