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ネトゲもリアルも消えた——令和日本男性の”静かなる孤独”について



序 孤独男性の名前を呼ばれない一日

朝、部屋の明かりをつける。湯を沸かす。電車に乗る。改札を抜け、机に着き、画面を開く。夕方、コンビニのセルフレジで会計を済ませ、自分で袋に詰め、また部屋に戻る。

風呂に湯を張りながら、ふと思う。今日、自分の名前を、誰かに口に出して呼ばれただろうか。

呼ばれていない。挨拶はした。会釈もした。業務チャットには十七件の発言をした。だが誰も、彼の名を呼ばなかった。呼ぶ必要がなかったからだ。宛先が一意に定まる仕組みの中で、名前は呼ばれない。

これは悲劇ではない。誰も彼を傷つけていないし、彼も誰も傷つけていない。給与は振り込まれ、家賃は引き落とされ、住民税は納付されている。社会適応は、金銭という一本の細い管を通って、完璧に成立している。

ただ、その管の外側に、何もない。

本稿は、そういう男たちについての報告である。彼らは困っていない。困っていないと自分で思っている。そして実際、統計上、彼らは何一つ問題を起こしていない。問題を起こさないまま、静かに消えていくだけである。


Ⅰ 孤独は、すでに測定されている

日本の孤独は、印象論ではなく計測対象になった。二〇二一年に担当大臣が置かれ、二〇二四年には孤独・孤立対策推進法が施行された。国が毎年、全国調査で孤独感を数えている。

その数字を並べる。

二〇二五年の全国調査で、孤独感が「ある」と答えた人は四割弱。年代別で最も高いのは三十歳代のおよそ四三パーセントで、二十代・四十代・五十代も四割を超える。高齢者ではむしろ低い。孤独は老いの問題ではなく、働き盛りの問題である。共食ーー誰かと食事を共にすることーーがほとんどない人では、「しばしば・常に孤独を感じる」が一七・三パーセントに達し、月に数回でも共食する人の五・一パーセントを大きく上回る。

関係の在庫を見ると、性差が現れる。内閣府の国際比較調査では、日本の高齢男性のおよそ四割が「同性・異性いずれの友人もいない」と答えている。厚労省系の調査では、困ったときに頼れる人が「いない」と答える割合は男性が女性のおよそ三倍で、五十代以降に跳ね上がり、七十歳以上ではおよそ半数に達する。

そして終点の数字。二〇二五年、全国の警察が扱った遺体は二十万四五六二体。うち一人暮らしの自宅で亡くなっていた人が七万六九四一人。死後八日以上を経て発見された人が二万二二二二人、一か月以上が七一四八件。前年統計で、その約七割が男性である。

未来はすでに推計されている。二〇五〇年、日本の単独世帯は全世帯の四四・三パーセント。六十五歳以上男性の独居率は一六・四パーセントから二六・一パーセントへ。そして高齢単独世帯に占める未婚者の割合は、男性で三三・七パーセントから五九・七パーセントへ上がる。実数で八十六万世帯が二百六十九万世帯になる。

二〇五〇年、一人で暮らす高齢男性の六割は、生涯一度も結婚しなかった人間である。これは予想ではない。すでに生まれている人間の数を数えただけの、確定に近い未来だ。


Ⅱ 分布は同じで、帰結だけが違う

ここで、よくある誤解を一つ潰しておきたい。

内向的で、大人数の交流が苦手な人間」は男に多い、としばしば言われる。背景には、いじめの記憶、学校生活での不適応、発達の特性などが潜んでいるとも言われる。

だが、分布そのものを見ると、性差は言われるほど大きくない。

内閣府の推計では、ひきこもり状態にある人は約百四十六万人。十五〜三十九歳の二・〇五パーセント、四十〜六十四歳の二・〇二パーセントで、年代による差はほとんどない。そしてこの中高年層では、女性が五二・三パーセントと半数を超えている。自閉スペクトラム症の男女比も、診断マニュアル上は長く四対一とされてきたが、二百七十五万人規模のスウェーデンの追跡研究では、診断率が全体で約十倍に増え、女性は二十代以降で男性との差を急速に詰めた。女性は周囲に合わせて特性を覆い隠す度合いが高く、診断基準そのものが男性症例を中心に作られてきたこと、他の診断が先に付いて背後の特性が見過ごされることーーこれらが理由として挙げられている。

つまり、内向も、不器用も、生きづらさも、男の専売特許ではない。

差があるのは、素質の分布ではない。それが「孤立」へ変換される率である。

社会学者の石田光規は『孤立の社会学』で、一章を丸ごと「なぜ男性が孤立しやすいのか」に充てている。彼が同書で提示した見取り図は、本稿の背骨に近い。近代化が進めば、人間関係は家・地縁・職場のしがらみから「解放」される。だが同じ運動は、支えを持たない者から関係を「剥奪」する。
同じ一つの自由化が、ある人には解放として、別の人には剥奪として届く。そして日本社会において、剥奪の側に落ちやすいのは男性である。理由は単純で、男の関係網は職縁と家族に極端に集中しており、それ以外の経路をほとんど持たないからだ。

女の内向には、たいてい受け皿がある。誰かが定期的に連絡をよこす。家族の網に残る。友人が一人は残る。男の内向は、そのまま関係ゼロへ直行する。途中に踊り場がない。

この差は、命の統計にまで届く。愛知県の高齢者一万三千人余りを追跡したAGESコホート研究は、社会的排除の状態にある高齢者の早期死亡リスクが九〜三四パーセント高いことを示し、その影響が男女で異なる形で現れることを報告している。国際的なメタ分析も同じ方向を指す。社会的孤立は死亡率を約二九パーセント、孤独感は約二六パーセント、独居は約三二パーセント高める。関係の強さは、生存確率をおよそ一・五倍にする。

孤独は情緒の問題ではない。疫学の問題である。そして日本の男は、その疫学的リスクに、他の誰よりも無防備に立っている。


Ⅲ 居場所とは、「自分が来ないと成立しない場所」のことだった

では、彼らはかつて、どこに所属していたのか。

四十代から五十代の日本人男性の一部にとって、人生で最後の、そして唯一自発的に選んだ共同体は、オンラインゲームの中にあった。冗談ではなく、社会学の対象として、そうである。

二〇〇二年に日本でサービスを始めたとある韓国製のオンラインゲームは、最盛期にサーバー群を二十五個まで増やし、同時接続十万人を公式に発表した。そして二〇一二年、二十四のサーバーは十二に統合された。人が減ったからである。

海外の研究者たちは、この種の空間を早い段階で「第三の場所」として位置づけた。都市社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した概念で、家(第一の場所)でも職場(第二の場所)でもない、地位が中和され、会話が主活動で、常連がおり、家のようにくつろげる場所を指す。パブ、床屋、カフェ、そして銭湯がそれである。二〇〇六年の研究は、MMOがまさにその要件を満たすと論じた。同年の別の調査では、MMOプレイヤーの七九パーセントがギルドに所属していた。

だが、私が本稿で強調したいのは「第三の場所」の一般的な居心地の良さではない。もっと構造的なものだ。

あの世界には、役割の相互依存があった。

盾役がいなければ、誰も前に出られない。回復役がいなければ、五分で全滅する。攻撃役がいなければ、いつまでも敵が倒れない。商人がいなければ、装備が流通しない。職業ごとに機能が固定され、互いに欠けを補う設計になっていた。デュルケームが「有機的連帯」と呼んだものーー分業によって相互に不可欠になることで生まれる結びつきーーの、極めて純粋なミニチュアである。

そこから、二つの決定的なものが生まれた。

一つは、義務としてのログイン。夜九時、クランの攻城戦がある。自分は回復役だ。行かなければ、他の十四人が困る。疲れていても、風呂を後回しにしても、ログインする。誰も強制していない。だが行かないという選択が、他人に実害を与える。この「他人に迷惑をかけうる立場にいる」という状態こそが、所属の実体だった。

もう一つは、代替不能性。彼は上手いプレイヤーではなかったかもしれない。話も面白くなかったかもしれない。だがあの時間、あの編成において、彼の回復は誰にも代われなかった。

居場所とは、居心地のいい場所のことではない。自分が行かなければ成立しない場所のことである。

そしてこの構造は、生身の属性を一切問わなかった。年収も、容姿も、身長も、コミュニケーション能力も、学歴も、実家の太さも、恋愛経験も、何一つ査定されない。査定されるのは、指定された時間に来るかどうかと、自分の役割を果たすかどうかだけだ。現実の労働市場と恋愛市場で低く格付けされた男が、機能によってのみ評価される場所。それがどれほど貴重だったかは、失ってみないとわからない。

付け加えれば、あの世界は「別人格の許可」も出していた。いわゆるネカマ等である。海外のMMO研究では、利用者の半数以上が性別を入れ替えた経験を持ち、その頻度は一貫して男性のほうが高い。ある作品の調査では男性の主要アバターの三割近くが女性キャラだった。笑い話として消費されてきたが、意味は重い。自分でない誰かとして人前に出る回路を、最も強く必要としたのは男のほうだった。VTuberも、匿名の饒舌なアカウントも、系譜はここから伸びている。


Ⅳ Discordは、あれとは別の次元のものである

「今でもオンラインで人と繋がっているじゃないか」という反論があるだろう。Discordがある。ボイスチャットで毎晩誰かと話している人間もいる。

だが、あれは別物だ。同じ「オンラインの繋がり」という語で括ってはいけない。ここは定義を切っておきたい。

かつてのMMOにあったのは、構造的相互依存である。役割が固定され、欠員がゲーム内の失敗として即座に表面化する。関係は、関係を維持しようという意思とは無関係に、システムによって強制的に継続させられる。誰も「君との友情を大切にしたい」とは言わない。ただ「木曜九時な」と言う。それだけで三年続く。

現在の主流にあるのは、選択的親密性である。マッチメイキングは二十分で完結し、終われば解散する。名前も覚えない。Discordのサーバーは繋がりの器を提供するが、役割の構造を提供しない。参加は任意で、抜けても誰も困らない。抜けたことに気づかれない場合すらある。

社会学者アンソニー・ギデンズは、現代の関係を「純粋な関係性」と呼んだ。外的な条件(家、村、経済的必要)に支えられず、その関係から得られる満足だけによって維持される関係のことだ。純粋な関係は自由である。そして、極めて脆い。満足が途切れた瞬間に終わり、終わっても誰も咎めない。

Discordの繋がりは、この純粋な関係性のデジタル版である。良質だが、負債がない。

そして負債こそが、関係の実体だった。誰かに借りがあること、誰かが自分をあてにしていること、行かなければ迷惑をかけること。この「不自由」を全部取り除いた結果、我々の手元には、いつでも解約できる快適な関係だけが残った。解約できる関係は、実際に解約される。四十を過ぎ、仕事が忙しくなり、体力が落ちれば、まず最初に消えるのがそれだ。

だから、ネトゲの衰退は「若者の遊びが変わった」という話ではない。男が最後に持っていた、義務を伴う共同体の型が、一つ消えたという話である。


Ⅴ 現実の側でも、同じことが同時に進んでいた

同じ二十年間に、物理空間でもまったく同型の現象が起きていた。

銭湯は、一九六八年の一万七九九九軒から、二〇二五年には一五六二軒になった。九割減である。毎年およそ五パーセントずつ減り続け、十年後には千軒を割ると見られている。

盆踊りも消えつつある。札幌市内にある開催会場は約二十か所で、二十年前の半分になった。理由は騒音への苦情で、公園を貸してもらえないのだという。除夜の鐘を昼に移した寺、やめた寺がある。公園には二〇〇〇年代以降、禁止事項の看板が並ぶようになった。遊具に年齢制限のシールを貼る運用は、海外にはほとんど見られない、日本特有の慣行だという。

ロバート・パットナムは『孤独なボウリング』で、アメリカにおける社会関係資本の崩壊を、ボウリングリーグの消滅という一点から描き出した。ボウリング人口は増えたのに、リーグに所属してボウリングをする人が激減した。人々は今も同じ場所で同じことをしている。ただ、一緒にしていない。

日本で起きたのは、その日本版である。風呂には入る。ただし自宅で。祭りは見る。ただし配信で。ゲームはする。ただしソロで。

パットナムは社会関係資本を二つに分けた。同質的な仲間を強く結ぶ結束型と、異質な他者に橋を架ける橋渡し型。銭湯も、盆踊りも、狩場も、ギルドも、その両方をきわめて安価に供給していた。金も、社交スキルも、自己開示も、ほとんど要らなかった。

消えたのは娯楽ではない。目的を持たずに、同じ場所に、黙って並んでいられる場所が消えたのだ。会話をしなくても、そこにいるだけで人の中にいられる場所。所属の意思表示を要求しない場所。

そして男の紐帯は、歴史上、ほとんどこの形式でしか作られてこなかった。向かい合って自分について語り合うのではなく、同じ方角を向いて同じ作業をする。会話の九割は段取りの確認である。それで足りた。というより、それ以外の様式を、彼らは習ったことがない。

近所付き合いは煩わしい。喫煙所は不潔だ。宴会は苦痛だ。盆踊りはうるさい。銭湯は他人の裸が視界に入る。一つひとつの苦情は、いずれももっともである。誰も間違っていない。清潔で、平等で、誰も傷つけない社会を、我々は正しく選んだ。

その正しさの合計として、並ぶ場所だけが、きれいに消えた。


Ⅵ 村は消えていない。互助だけが消えた

我々は村を捨てたつもりでいる。だが実際に起きたのは、村の消滅ではなく、村の選択的な再編である。

村が持っていたのは三点セットだった。相互扶助と、干渉と、監視。このうち扶助だけが落ち、干渉は「苦情」という形式に、監視は「タイムライン」という形式に載せ替えられて生き延びた。

苦情を言えば盆踊りは止まる。名乗る必要はない。責任も負わない。かつての村なら、祭りを止めさせた人間は翌日から回覧板が回ってこなかった。今は誰が言ったかわからない。制度は、無記名の悪意を効率よく実行する装置になった。

タイムラインは、井戸端が持っていた評判機能だけを継承した。誰が失言したか、誰が落ちぶれたか、誰が独身のまま四十を超えたか。情報は流れる。だが、そこから助けは一度も出てこない。

清潔で、公平で、コンプライアンスが行き届き、誰も無礼を働かない社会。そこには、他人に負債を作る回路がない。負債こそが関係の実体だったのに、それを不作法として禁じてしまった。

だから令和の孤独は、悲惨ではない。静かで、清潔で、潔癖で、無害である。それがいちばん厄介なところだ。悲惨であれば、誰かが助けに来る。無害な孤独には、誰も来ない。


Ⅶ 虚無の正体と、三つの構え

夜中に襲ってくるあの感覚ーー寄る辺なさ、と呼ぶしかないものーーの正体を、最後に言い当てておきたい。

あれは、承認が足りないのではない。匿名アカウントに四千人のフォロワーがいる男も、年収が一千万を超えた男も、部下を十二人持つ男も、同じ感覚に襲われる。足りていないのは承認ではない。

宛先が消えているのだ。

今日一日を、誰に向かって生きたのか。この金を、誰のために稼いだのか。この痛みを、誰に報告するのか。宛先の欄が空白のまま、日が暮れる。その空白が積み上がったものが、虚無の正体である。デュルケームが社会的統合の欠如として記述したものを、個人の側から見ると、こう見える。

では、どうするか。「友人を作れ」とは言わない。それができるなら苦労していないし、四十を過ぎて他人を増やす作業は、たいていの場合、消耗のほうが大きい。

代わりに、三つの構えを置く。処方箋ではなく、姿勢の話である。

一.宛先を、人から作業へ移す。 他人の応答を必要とする充実は、他人の都合に支配される。返信の来ない相手、実現しない誘い、進まない交渉。そこに宛先を置く限り、手綱は永久に自分の手に戻らない。だが、応答を必要としない没入がある。作る、調べる、書く、直す、鍛える。誰にも見られていないことは、欠損ではない。見られるために生きなくてよい、という条件である。虚無は、見られていないことから来るのではない。見られるために生きようとして、見られないときに来る。

二.向き合うことを諦め、並ぶことを回復する。 男の紐帯は、告白や相談で作られたことがほとんどない。並んで、同じ方角を見て、黙って作業していれば成立した。だからやるべきは友人を作ることではなく、関係を目的にしない場所に、定期的に身を置くことだ。同じ時間に行くジム。同じ席に座る食堂。名前も知らない常連。マーク・グラノヴェッターは、就職情報をもたらすのは親友ではなく「弱い紐帯」だと示した。人生を動かす情報も、緊急時に効く一本の連絡先も、たいてい薄い関係から来る。薄い関係は、自己開示なしで作れる。深い友情を目標にするから始まらないのであって、薄い常連関係なら、今日から作れる。

三.有限性を、恐怖ではなく段取りとして先取りする。 二万二二二二人という数字を、恐怖として読めば呪いになる。段取りとして読めば自由になる。国は二〇二四年、身元保証・死後事務・生活支援を担う事業者のガイドラインを策定し、翌年には業界団体もできた。身元保証も死後事務委任も、いまや契約できる。それは関係の代替ではない。関係がなくても尊厳は保てる、という確認である。恐れているものを書類に落とし込むと、恐怖は事務になる。事務になったものは、夜中に襲ってこない。


終 夜明け

統合されたサーバーの、統合された街に、今も露店が数軒だけ並んでいる。誰も買わない品物を、誰かがまだ並べている。かつて十万人が同時に接続していた世界の、残り火である。

それを見て、ログアウトする。そして眠る。

朝が来る。カーテンの隙間が白くなり、部屋の輪郭が戻ってくる。誰かが持ってきてくれたわけではない。孤独を憐れんで昇ってきたわけでもない。夜明けは、そういうものと一切無関係に、ただ来る。

そこが救いなのだと思う。

この社会は、もう誰の背中も押してくれない。潔癖で、正しく、無関心である。だが同時に、我々を罰しにも来ない。村は監視だけを残したが、その監視も、実のところ、あなた個人には何の関心も持っていない。誰も見ていないということは、誰の許可も要らないということだ。

四十を過ぎ、社会関係資本の欄が空白のまま、それでも朝は来る。来てしまう。ならば、その朝を何に使うかだけは、自分で決められる。関係の欄が空白の人間に残されているのは、実のところ、時間という、他の誰にも奪われない資本だけである。

宛先のない一日を、それでも生きてみること。
名前を呼ばれない日の終わりに、自分でその名を呼んでやること。

どんな人間にも、夜明けは来る。
無害な男たちにも、静かに、平等に、来る。

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