「便所の落書き」はどこへ消えたか——匿名が本音を守った時代から、匿名が本音を殺す時代へ
序
深夜二時、ブラウン管の白い光を顔に浴びながら、僕らは名前のない画面に向かって本当のことを打ち込んでいた。
会社への呪詛、親への鬱屈、誰にも言えない性癖、明日には忘れてしまう程度の絶望。
書き込みボタンを押した瞬間、それは「名無しさん」という誰でもない誰かの言葉になって、無数の他人の呪詛の中へ溶けていった。
翌朝には、自分がどのスレのどこに何を書いたのかさえ思い出せなかった。
それでよかった。むしろ、それがよかったのだ。
あれから二十年が経った。
いま、僕は同じ愚痴を、金曜の夜の居酒屋で、たった一人の信用できる相手にだけ、声に出して言う。ネットには一文字も書かない。書けば何が起こるか、知っているからだ。
平成、本音はネットにしかなかった。
令和、本音はリアルにしかない。
この一行の反転が、本稿の主題のすべてである。
二十年のあいだに、本音は住む場所を追われた。かつて本音を匿ってくれた匿名という毛布は、いまでは本音を狩り出す猟犬の鼻に変わった。同じ「匿名」という言葉が、正反対の仕事をするようになった。この不都合な対称性を、僕はどうしても書き残しておきたかった。たとえそれが、この文章自体を危険にさらすとしても。
一 「便所の落書き」という思想
なぜ平成のネットには、本音が書けたのか。
答えは単純で、あの場所が「世間の外」にあったからだ。
1999年に生まれた巨大匿名掲示板は、投稿者に名前を要求しなかった。全員が「名無しさん」だった。開設者自身がその場所を「便所の落書き」と呼んだ。この自嘲には、実は思想が宿っている。便所の落書きとは、書き手が特定されないことを大前提にした表現形式だ。誰が書いたかわからないからこそ、人は普段は口が裂けても言えないことを壁に刻む。責任の連鎖が断ち切られた場所でしか、人間は本当に醜くなれない。
ここで一つ、日本文化論としての補助線を引いておきたい。匿名の告発や罵倒は、決してインターネットの発明ではない。江戸の街角には落首や落書があった。権力者への嘲笑、世相への皮肉、名前を伏せた告発の文が、夜のうちに高札場に貼り出された。研究者のなかには、この落首・落書の系譜がそのまま21世紀の匿名掲示板に流れ込んだと見る者がいる。つまり日本には、実名では言えない本音を、名前を消した「場」に預ける文化的な回路が、もともと備わっていたのだ。
平成のネットは、この回路の現代版だった。会社の肩書き、家庭での役割、近所での評判——そうした実生活のしがらみ、すなわち「世間」から完全に切断された外部。そこでは大企業の課長も、田舎の高校生も、等しく名無しだった。属性が剥ぎ取られ、ただ言葉だけが残る。だからこそ、人は本音を吐けた。
本音というものは、光の下では生きられない。それは世間の目が届かない暗がりを必要とする。植物が根を土の中に隠すように、人間の本当の感情は、匿名という土の下でしか呼吸できない。平成のネットは、その土だった。地面の下だからこそ、根は好きなだけ伸びられた。
いま思えば、あれは奇妙に牧歌的な光景だった。誰もが好き放題に醜かった。差別的な放言も、湿った恨み言も、太宰めいた自己憐憫も、すべてが名無しの海に等しく浮かんでいた。そこには一種の平等があった。全員が匿名であるという平等。全員が無責任であるという平等。全員が、明日には忘れられるという救いの平等が。
二 世間が、画面の中に引っ越してきた
その土が、掘り返された。
平成のネットを本音の器たらしめていた「匿名性」は、令和にかけて、三つの装置によって順番に解体されていく。ネットは外部から内部へ、世間の外から世間の中枢へと、静かに反転した。装置は三つある。制度と、技術と、記憶だ。
一つめは制度。2001年に生まれたプロバイダ責任制限法は、当初は牙のない法律だった。匿名の投稿で傷ついた者が相手を特定しようとしても、サイト運営者とプロバイダを相手に二段階の裁判を戦わねばならず、時間も金も膨大にかかった。実質的に、匿名は守られていた。だが2021年の改正——2022年施行——が、この手続きを大幅に簡略化する。さらに2024年には法律そのものが「情報流通プラットフォーム対処法」へと衣替えした。いまや、書き込みは人格へと逆向きにたどられうる。「匿名だから特定されない」という、平成のネットのすべてが乗っかっていた大前提が、制度的に無効化されたのだ。壁の落書きに、書いた者の指紋が浮かび上がるようになった。
二つめは技術。かつてのタイムラインは、自分がフォローした相手の言葉しか流れてこない、閉じた庭だった。炎上に触れるのは、誰かがわざわざ拡散したときだけで、その速度もどこか牧歌的だった。ところが、あるプラットフォームがオーナーを変え、「おすすめ」という名の受動的な奔流を全面に押し出したとき、構造は決定的に変わった。すでに賛否が飛び交い、火がつきかけた投稿——つまり炎上の「タネ」——が、こちらの意思とは無関係に、次々と目の前に投下されるようになった。あるメディア論者はこれを「炎上製造装置」と呼んだ。相互監視の目が、アルゴリズムによって自動化され、全ユーザーの網膜に実装されたのである。かつて趣味の合う者どうしがつながる場所だったものは、他人の粗を探して晒す共同作業の現場になった。
三つめは記憶。平成のネットの最大の慈悲は、忘却だった。書き込みはスレッドの奔流の中で流れ去り、その場限りで消えていった。だが令和のネットは何も忘れない。スクリーンショットは永遠に残る。数年前の一言が掘り返され、文脈から切り離されて、いまの断罪の材料にされる。村が個人の過去を決して忘れないように、ネットは「村の記憶」を完璧に実装してしまった。
制度が実名性を、技術が相互監視を、記憶が忘れなさを——それぞれネットに移植した。この三つが揃った瞬間に、何が起きたか。
ネットは、「世間」になったのだ。
三 日本には「社会」がなく、「世間」がある
ここで、本稿の背骨となる一つの概念を導入したい。歴史学者・阿部謹也の「世間」論である。
阿部は、日本には西欧的な意味での「社会」が存在せず、そのかわりに「世間」が機能してきた、と論じた。社会とは、対等な個人が契約とルールによって取り結ぶ関係の総体である。これに対して世間とは、明文化されないまま人々を縛る、暗黙の了解と同調の網である。世間には入口も出口も、成文の規約もない。ただ「みんながそう思っている」という空気が、法よりも強く個人を支配する。誰も命令していないのに、全員が従っている。それが世間だ。
日本人が本音と建前を使い分けるのは、この世間に適応するための古い技術である。本音をそのまま出せば、世間の和を乱す。だから表向きには建前を掲げ、本当の気持ちは奥にしまう。この二重構造は、身分制度の厳しかった江戸期に、上に逆らえない者たちが身を守るために磨き上げた処世術にまで遡るとされる。要するに本音と建前とは、世間という監視装置の下で生き延びるための、日本人の防御反応なのだ。
そして、ここに本稿の核心的な定式が立ち上がる。
令和のネットは、日本で最も苛烈な「世間」へと変質した。
炎上とは何か。それは、現代の村八分である。世間の掟に触れた者を、共同体が一斉に指弾し、居場所を奪う儀式だ。謝罪動画とは何か。それは、村の広場に引き出された者が頭を垂れて赦しを乞う、贖罪の儀礼にほかならない。そして恐ろしいことに、この村には境界がない。かつての村は地理的に閉じていたから、逃げれば済んだ。だが画面の中の村は日本中に、世界中に開かれている。逃げる先の「外」が、もう存在しない。
かつて評論家は、日本社会を支配する不可視の力を「空気」と名づけた。その場を覆い、逆らう者を許さない、あの独特の圧力である。令和において、この空気はもはや一つの部屋、一つの会議室にとどまらない。それはネットワーク全域を、雲のように覆い尽くしている。どこにログインしても、その空気が待っている。
平成のネットは、世間の「外部」だった。だからこそ本音を吐ける聖域たりえた。令和のネットは、世間の「中枢」になった。だから本音を吐けば、村八分にされる。同じ場所が、二十年で正反対の意味を帯びた。避難所が、監視塔に変わったのだ。
四 本音の亡命
行き場を失った本音は、どこへ向かったか。
まず起きたのは、沈黙である。近年しきりに語られる「発言しない自由」や「見る専」——見るだけで書かない層の増加——は、けっして若者の内向化などという浅い話ではない。それは、極めて合理的な経済判断の帰結だ。
かつてのネットでは、多少過激なことを書いても、その場限りで流れて消えた。発言のコストは限りなく低かった。ところが令和では、軽い冗談が切り取られ、数年前の投稿が掘り返され、匿名の批判が一斉に押し寄せる。「間違えること」の社会的コストが、天井知らずに高騰したのだ。本音を書くという行為は、もはや割に合わない。だから人は書かない。沈黙は弱さではなく、費用対効果を冷徹に計算した末の、最適解なのである。
そして、口をつぐんだ人々の本音は、二段階で退避していく。
第一の退避先は、閉じた場所だ。鍵をかけたアカウント、少数の相手とだけつながるクローズドなアプリ、記録の残らないダイレクトメッセージ。開かれた広場から、鍵のかかった個室へ。SNS疲れという言葉とともに、人々は「素の自分をさらけ出しても笑い合える」小さな囲いの中へと引きこもっていった。皮肉なことに、この渇望は平成の末期にすでに予言されていた。当時、疲弊したユーザーの心理は「素性が知られないまま好き勝手に言いたい、けれど倫理が完全に壊れているわけではない」場所への飢えとして、正確に言い当てられていたのだ。その飢えが、令和になって、いよいよ満たされる場所を失った。
第二の、そして最後の退避先が——リアルである。
ここで言うリアルとは、単なる「対面」のことではない。それは、記録されず、拡散されず、明日には誰の記憶からも薄れていく、あの平成の便所の落書きが持っていた性質そのものだ。金曜の居酒屋で、信用できる一人にだけ吐き出す愚痴。それは録画もされず、スクリーンショットも撮られず、引用リポストで晒されることもない。言葉は空気に溶けて消える。
つまり本音は、二十年かけてぐるりと一周し、「記録されない匿名の告白」という自らの原点に帰り着いた。ただし、その場所はもはやネットの中ではない。
本音とは本来、聞かれないこと、残らないこと、赦されることを前提にしてはじめて成立する告白である。平成のネットは、その条件を満たしていた。令和のネットは、そのすべてを裏切った。だから本音は、ネットを捨てた。
五 不都合な対称性
ここまでを、単なる「本音の引っ越し」の話だと思われては困る。もっと深い場所で、何かが反転している。反転しているのは、匿名性と本音の関係そのものだ。
平成——顔の見えない場所でだけ、本音が言えた。
令和——顔の見える相手にだけ、本音が言える。
匿名が本音の味方だった時代から、実名(あるいは特定されうる半匿名)だけが本音の器になる時代へ。本音が安心して宿る場所が、公から私へ、匿名から顕名へと、きれいに裏返った。
だが、対称性はもう一段深い。真に不都合なのは、こちらだ。
平成のネットでは、個人が匿名になれた。名無しの海に紛れ込むことで、一人ひとりが群衆の中に消えることができた。匿名性は、弱い個人を強い世間から守る盾だった。
令和のネットでは、群衆が匿名になり、個人が実名になった。炎上の中で標的にされる当人だけが特定され、名前を晒され、顔写真を掘り起こされる。一方、その個人に石を投げる何万という群衆は、依然として名無しのまま、一切の責任を負わずに立ち去っていく。攻撃する側が匿名で、攻撃される側が実名。この非対称こそが、本音を殺すのだ。
同じ「匿名」という言葉が、平成では弱者を匿う毛布であり、令和では弱者を撃つ群衆の覆面になった。匿名が本音を守った時代から、匿名こそが本音を殺す時代へ。言葉は一文字も変わっていないのに、その働きだけが正反対になった。これほど不都合な対称性が、ほかにあるだろうか。
——正直に告白すれば、僕はいま、この一文を書きながら、かすかに手が震えている。
この文章もまた、名前を伏せて書かれている。だが平成の便所の落書きとは違って、僕はこの文章が忘れられるとは思っていない。どこかの一行が切り取られ、文脈を剥がされ、意図とは正反対の意味を貼りつけられて晒される——その可能性を、書きながらずっと計算している。かつて匿名は、僕にこう囁いた。「安心しろ、誰も君を見つけられない」。いま同じ匿名が、こう囁く。「油断するな、いつでも君を見つけられる」。同じ声が、正反対のことを言う。本音について書くこの文章そのものが、本音を書けなくなった時代の証拠になってしまっている。これ以上の皮肉があるだろうか。
結 僕らの便所は、もうない
かつて、この国には落首を貼り出す高札場があった。名前を伏せた本音を、街の壁に刻める場所があった。平成の僕らにとって、その壁は掲示板の白い画面だった。深夜、誰にも知られずに、自分の一番醜い部分を吐き出して、翌朝には忘れられる。そういう場所が、確かにあったのだ。
いま、その壁は塗り替えられた。落書きには指紋が浮かび、書いた者の名が浮かび上がり、消したはずの一行が十年後に蘇る。だから僕らは、もう壁には書かない。本音は居酒屋の片隅へ、鍵のかかった個室へ、二人だけの声のやりとりへと退いていった。それはたぶん、健全なことなのだろう。無責任な放言が淘汰され、誰も傷つかない世界に近づいた——そう言うこともできる。
できるのだが。
夜中に一人、誰にも読まれないつもりで壁に向かって本当のことを書きつける、あのどうしようもなく孤独で、どうしようもなく自由だった時間を、僕はもう二度と取り戻せないのだと思うと、胸の奥がわずかに軋む。あれは決して立派なものではなかった。むしろ醜く、湿っていて、卑小だった。けれどあの醜さを吐き出せる場所があったからこそ、僕らは翌朝、何食わぬ顔で建前の世界へ戻っていけたのではなかったか。本音を捨てる場所を失った人間は、その本音をいったいどこへ持っていけばいいのだろう。
便所の落書きは、どこへ消えたのか。
それは消えたのではない。追い出されたのだ。世間になったネットから、まだ世間になっていない、記録もされない小さな暗がりへと。そして僕は、次にその暗がりさえ光に照らされる日が来るのを、静かに恐れている。
その日が来たとき、僕らの本音は、この国のどこにも、居場所を持たなくなる。
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