切断、理性、世界地図(コンテンツ過剰接続×ベテランち「スカすなよ。ジャパン。」の感想)
眠ることと平和を考えることは似ていると思う。
僕はここ1年ぐらいずっと眠れなくて悩んでいる。
横になって目を閉じると、自分の心臓の鼓動が気になってソワソワしてしまう。心臓が止まる想像をしてしまう。
過去に何度かパニック発作を起こしたことがあって、これはパニック障害の患者によくある予期不安というものらしい。
平和を考えることは僕にとって眠ることと同じように難しい。
眠ろうとすればするほど、僕の神経は冴え渡り、心臓の鼓動は強く頭に響く。
同じように、「戦争反対」を多くの人が叫べば叫ぶほど、その世界は「平和」から遠ざかってしまう。(白黒ポテチにNO WARと書けば平和になるわけじゃないのだ、悲しいけれど。)
最近は院試に向けて哲学史の勉強をしている。僕は理性について考える。
デカルトから出発し、カントを経由してヘーゲルで完成した近代哲学は、理性の限界を突きつけられる形で終わりを迎えた。19世紀のことだ。フロイトが無意識を、マルクスが下部構造を発見した。ニーチェが力への意志を論じ、フッサールが現象学を始めた。
どれも理性中心主義を批判し、非-理性的なものの重要性を発見/強調している点で共通している。
少し前に村田沙耶香の『世界99』を読んだことも、世界について考えたいと強く思うようになった一因かもしれない。いまは村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んでいる。狩猟者である主人公は政治結社を結党し、緻密な戦略とプロパガンダで勢力を拡大し、最終的にはクーデターを起こして日本をひっくり返そうとする。僕は夢中で読む。世界について考えたいからだ。主人公はニーチェの思想を好んでいる。
僕は世界について考える。
現在のAIや情勢やインターネットのことを考える。考えるたびに分からないと思う。僕が十分な知識を持っていないのもあるけど、それ以前に、原理的に無理なのだと思う。
東浩紀は『平和と愚かさ』で、平和を「思考不可能なもの」だとしている。平和の条件が、「戦争がないこと」であると同時に「人々が戦争のことを考えていないこと」でもあるからだ。平和について考えることは戦争について考えることであり、それは平和から遠ざかる行為である。
生成AIが進化し、様々な領域で人間を凌駕していく。僕たちはインターネットで世界と繋がることができ(だから今あなたはこの文章を読むことができている)、その過密さに僕たちは疲弊していく。
『平和と愚かさ』ではタイトルの通り「愚かさ」が論じられる。そして同じ時代に出口康夫は「できなさ」を、千葉雅也は「非意味的切断」を、福尾匠は「疎」を論じている。
それぞれの思想・概念に立ち入ることはしないが、彼らは非-理性的なものにポジティブな可能性を見出そうとする点で共通しているように思える。
そして、これらの概念が同時代的に提唱されているということは、やはり、人間の理性はまさに今、何らかの限界を迎えつつあるのではないだろうか。つまり、眠るには、“理性的に”眠ろうと試みるのではだめなのだ。
ここまできてようやく僕は、この文章を書くに至った動機について語ることができる。

今日、ポッドキャスト「コンテンツ過剰接続」がベテランちをゲストに迎えたトークイベント「スカすなよ。ジャパン。」に行ってきた。帰りの電車で考えた色々なことを整理したくて、今この文章を書いている。

僕は大学に入ってからずっと、接続と切断について考えていた。
色んな言い方ができると思うが、端的に接続が怖かった。僕は否応なく接続され続ける。僕は意味から逃れられない。資本主義から逃れられない。政治から、戦争から、言葉から、男性性から、家族から、枠組みから、そして世界から逃れられない。
どうしたら接続から逃れられるのかが知りたくてドゥルーズやレヴィナスの思想を学んだ。色々ヒントは得られたけど、最終的な答えは出ないままだった。
切断は難しい。
眠ることは切断、平和も切断、あと忘れることも切断だろう。僕が眠れないのは、平和を考えられないのは、忘れられないのは、切断の難しさに起因する。
理性はどちらかというと接続を得意とするだろう。あれとこれは似ている。これが原因であれが結果である。そういうふうに、理性には何かと何かを接続する力がある。
そして僕は、自分の、あるいは社会/世界の、接続過多(理性偏重と言い換えられるかもしれない)に悩んでいた。非-理性的な何かによる切断を求めていた。
だが、「コンテンツ過剰接続」は、そのタイトルの通り、むしろ接続を推し進めようとする。それも過剰に、ラディカルに。
カテゴリーとしては「カルチャー系ポッドキャスト」となるのだろう。「星野源と大阪万博」や「『鬼滅の刃』と参政党」みたいな感じであらゆるものを接続して喋っていく。その内容ももちろん面白くて好きなのだが、ここでは立ち入らずに、あくまで「接続と切断」「理性と非-理性」について考えることにする。
比較対象として千葉雅也『動きすぎてはいけない』を挙げてみたい。このタイトルが意味するところはすなわち「接続しすぎてはいけない」ということである。
接続を程よく断ち切る非意味的切断によってこそ、全てが接続され渾然一体となってしまったネットワークから身を離し、仮固定された個体性を保つことができる。
僕はこの理論が(理解しきれてはいないなりに)割としっくりきていたのだが、先述の通り「コンテンツ過剰接続」は(表面的には)真逆のテーゼを掲げていると言えるだろう。過剰接続のすすめはすなわち「動きすぎなければいけない」ということになる。
では、過剰接続の先には何があるのだろうか。その答えの片鱗のようなものを今日のトークイベントで見たような気がする。
つまり、全てを接続し、緻密な地図(例えば「スカしマップ」)を作り、清濁併せ飲んで、その結果すべてが政治的に見えてしまったりして、接続=世界からの逃れられなさに絶望し虚無に陥ったその先にこそ、真に個人的なものが立ち上がってくるのではないだろうか。
煙草を吸ったり排泄をしたり映画を見て泣いたりする、極めて個人的な個人。
過剰すぎる接続のその先で、緻密な世界地図の余剰としての個人が、ノイズとしての〈私〉が、歪で特異なものとして立ち上がる。
そこで初めて僕は、ネットワークから切断された僕を発見する。ネットワークに還元され得ない僕、と言った方が正確かもしれない。
そして、過剰な接続を徹底するためには、緻密な地図を作る/読むという理性的な作業とともに、まるで旅行先の子どものように目の前の景色に没頭することが要求される。子どもは地図を見ない。
そして、この没頭がなければ、接続の過剰性は不徹底なものにしかなり得ず、いわゆる『花束みたいな恋をした』的なことになってしまう。
そろそろ結論を出そう。僕は今、「接続の徹底による切断」という逆説的な事態を論じている。そして、それは子どものような没頭によってはじめて可能となる。具体的に、僕自身のことを考えてみよう。
僕は今、世界が過密だと感じ、理性の限界を感じている。もっと知識を得て考える必要があると感じている。同時にそのことのキリのなさにも気づいている。どれだけ(理性的に)考えても世界は平和にならないし僕は眠れないだろう。
一方で、僕には好きなものがある。好きな音楽、好きな短歌、好きな芸人。今はやっぱり哲学史と『愛と幻想のファシズム』が一番面白い。
ならば僕は、欲望と感情に従って、哲学史に没頭し、『愛と幻想のファシズム』に「潜る」べきなのだ。子どものように。
これは、コンテンツが現実世界から切り離されたユートピアになるという話ではない。「個人的なことは政治的なこと」であり、あらゆるコンテンツは世界と否応なく結びついている。
それでも僕はコンテンツに「潜る」べきなのだ。コンテンツは地図上の一点に位置する。その一点に潜る体験(の繰り返し)を通して、地図はより緻密で厳密なものになり、接続のネットワークはより強固できめ細かいものになっていくだろう。そして、それがある閾値を超えたときにこそ、僕はネットワークからの切断を果たすことができるのではないか。今の僕はそんな予感を強く感じている。
ここまで書いてなお、言いたいことを全然うまく言葉にできていない感覚がある。だがそれは、今僕が理性の外側について語ろうとしている以上、仕方のないことだと思う。『急に具合が悪くなる』でいうところの、「不可能を可能にする」瞬間の話をしているのだ。
「過剰な接続による切断」という不可能を可能にするためには、単に理性的に地図を作るのではダメで、何かに潜る必要がある。僕が潜った穴は、それが本であれTwitterであれ映画であれ、かならず世界に通じている。だから、潜ることを経てこそ、ラディカルで極端な過剰接続がなされ得る。そしてその先でこそ、切断という不可能が可能になる。潜ること。僕は潜らないといけないのだ。
※『平和と愚かさ』で、村上春樹『ねじまき鳥クロニカル』の主人公が井戸に潜ることについて論じられています。それと関連づけて、理性の限界を越え出て「不可能を可能にする」行為としての「潜る」ことについて考えるつもりでした。後日追記します。
※非-理性的なものの例として、祈りと身体が挙げられると思います。そのあたりも、できれば「潜る」ことと共に論じたいです。
※「コンテンツ過剰接続」ではラディカル・オプティミズムが取り上げられていて、それについても考えたいと思っています。
※同イベントの感想ツイートで「全てのコンテンツは関係し合っているが、同時に一切関係がない」というものを見ました。まったくその通りだと思います。そして、いかにして「関係なく」なるか、が今の僕の(あるいは時代の?)課題だと思っており、「井戸に潜ること」にそのヒントがあるんじゃないかと考えています。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
