『カースケのザリガニ』(物語)
一羽のカラスが地上に向かって急降下しています。その視線の先に、獲物を捉えて離しません。ぐんぐん近づいてくる地上。
獲物は、小さな生き物です。飛んでくるカラスに気づいて逃げ出すより前に、大きなクチバシに挟まれてしまいました。
「やった!」
カラスは心の中で喜びの声をあげました。空の上で見ていた友達のカラスも、大きな声を張り上げました。
「やった! やったな! カースケ」
カースケは獲物を落とさないようにしながら、空に戻ります。
「やったよ、カンイチ」
「おっと、口を開けて喋ると落っことしちゃうぜ」
「うん、気をつけるよ」
「さ、じいちゃんとこに戻ろうぜ」
「うん」
並んで飛び始めるとすぐに、カンイチが大きな声をあげました。
「カースケがやったぞー! 初めて獲物を獲ったぞー!」
遠くの山に跳ね返って聞こえるほど、大きな声です。すると、どこからともなく仲間たちの声が聞こえてきました。
「やったなカースケ、おめでとう!」
「一人前だな、おめでとう」
カースケの巣は、山の奥にあります。
羽根をゆっくり羽ばたかせ、巣に降りていくカースケ。獲物をクチバシから落とします。
「じいちゃん、俺、ひとりでやれたぜ。木の実じゃなくて肉だぜ。食べな」
「ああ。遠くで仲間たちの声が聞こえたよ。ありがとうな。もう、一人前だな」
「うん、だからほら、食べな」
空から、もう一羽、大きなカラスが降りてきました。
「父ちゃん」
「カースケ、父さんも嬉しいぞ」
「うん、じいちゃんは歳だから飛ぶのはもう難しいだろ。だからこれからは俺もかんばる」
「頼もしいな」
父親が高い木の枝を見上げました。カンイチがとまっています。
「カンイチ、カースケにいろいろ教えてくれてありがとう」
「俺は、そばで応援してただけだ」
カースケがもう一度羽ばたき、巣からフワリと飛び立ちました。
「父ちゃん、俺また行ってくるよ」
「無理するなよ、次は木の実でいいんだからな」
父親に返事をして、カンイチが木の枝から飛び立つのを確認すると、カースケは羽ばたきのスピードを一気に速めました。
空高く舞うカンイチとカースケ。
山を一望します。
「なあ、俺、ザリガニがいるとこ知ってんだ。カースケにも教えてやるよ」
「ザリガニって?」
「固い皮の中に柔らかい身が詰まってんだ。さっきのやつよりデカいぜ。水路のあたりに居るんだ」
「水路って、街の近くじゃないの? 人間の街にはまだ行くなって、父ちゃんから言われてる・・・」
「俺も言われてる。人間の街に行くのはよっぽど食べるのに困った時だけだ、ってな」
「ふぅん・・・。何でかな」
「・・・聞いた話だけどさ、人間とはあんまりいい関係じゃないらしい」
「人間と・・・俺たちカラスが? どうして。言葉が通じないから?」
「う~ん。俺にはわからねえ。でも水路は街の中ってわけじゃねえ。大丈夫さ・・・。あ。あっちの方向だぜ」
二羽のカラスが、山の麓に向かって小さくてなっていきます。
しばらくすると、カンイチが木の枝にとまりました。
「あそこだ」
コンクリートで固められた大きな枠から、水が少しずつ流れ出ています。
カースケも、木の枝にとまってそれを見ました。
するとカンイチが何かに気づいたようです。
「・・・あれ、人間だよな。人間がいるじゃないか」
二人の男の子が、コンクリートの影から見えてきました。二人とも網のついた棒を持っています。
「あいつらもザリガニを狙ってるのかなぁ」
「あいつらに先越されちまうぜ」
二匹は、もう少しだけ水路に近い木の枝に飛び移りました。
「あいつらより先に見つけて、俺たちが先に獲ろう・・・いや、おい、あの箱の中見ろよ、あいつら一匹、ザリガニもう獲ってるぜ」
「あの赤いの? あれがザリガニ?」
「ああ、そうだ。あれをいただこうぜ」
「そうだね、獲っても食べなかったのかな。置いてあるんだからいいよね」
カースケは感じていました。自分がまだ幼い時には、じいちゃんや父ちゃんがこうやって食べ物を獲ってきてくれてたんだ、と。そんな想いが、カースケの胸に勇気を宿らせます。
「俺、行ってくる」
カンイチの「頑張れよ」という声を聞きながら、カースケは翼を広げて急降下を始めました。
ザリガニの動きは、さほどすばしっこそうではありません。あれなら、たやすくくわえて戻ることができそうだと、カースケは想像しました。
体の重心をコントロールしながら降りていきます。
ザリガニのいる箱のすぐ横を目指して着地しようとしたその時、男の子の一人がカースケに気づきました。
「あ! 俺の・・・! ザリガニ!」
一瞬の勘で、カラスにザリガニを持って行かれると思ったのでしょう。水しぶきを上げながらジャンプするかのように、男の子が箱に向かって飛んできました。それでも、男の子の手が届くより先に、カースケのクチバシがザリガニを捉えました。手ごたえを感じるカースケ。すぐさま飛び立とうと、羽根を強く羽ばたかせた時でした。
「痛ってぇー!」
男の子が目のあたりを押さえて悲鳴を上げました。ザリガニのどこか尖った部分が男の子の顔を引っ掻いてしまったのです。指の先が少し赤くなっています。・・・血です。
人間に怪我をさせてしまった。
そんなつもりはなかったのに。カースケは気が動転してしまいます。くわえていたザリガニを落としてクチバシを男の子の顔に近づけました。
「ごめん、ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
男の子の顔の真ん前で、バサバサと羽根を動かすカースケ。男の子にとっては、たまりません。カラスが自分を襲ってきたかのように感じます。
「カースケ、おい、やめろ、無駄だ。言葉は通じないんだ」
カンイチも近づいてきて、水路は騒然とします。
「カースケ、戻るぞ」
ようやく、カンイチの言葉を冷静に受け止めるカースケ。男の子から離れていきます。
あ・・・!
でも、じいちゃんにあげるザリガニを諦めるわけにはいきません。素早い動きでもう一度ザリガニをくわえると、カンイチと並んで空高く戻っていきました。
それから、季節が巡りました。
山の麓の片隅で起きたこの小さな出来事は、初めから無かったことのように、この世界の記憶から薄れていってしまいそうな、そんな頃のことです。
あるマンションの一室。玄関の扉が開いて、一人の少年が帰ってきました。
面倒くさそうにぶら下げたスーパーの袋を、キッチンのテーブルの上に置きます。
「ん。パン粉、あった」
「あった? あぁよかった。惠介のおかげで今晩エビフライ食べられるわ」
母親には答えず自分の部屋に行こうとする惠介に、「カードも置いといてよ」と、もう一度声が飛びます。買い物に使ったクレジットカードです。「いっしょに置いてるー」と言いながら、惠介は部屋のドアを開けました。
しばらく、何をするでもなくベッドに寝転んでスマホをいじっていると、母親がドアから顔を覗かせました。
「惠介、あんたベランダでアイス食べなかった?」
「んなことしないよ。なんで」
「だよね。今ね、ベランダにアイスの棒が落ちてたのよ・・・」
さっき、買い物のときに食べながら帰ったけど・・・それは言わずにおきました。
「上の階のゴミが落っこってきたんじゃねぇの?」
「・・・かもね」
納得して戻るのかと思ったら・・・母親はさらに声をかけました。
「ゲームやってないんだ、最近は」
「ゲームなんか飽きたよ。小学生じゃあるまいし」
「じゃ、エビフライ手伝う? 惠介が手伝ってくれたら、スペシャルエビフライができちゃうなあ」
「やらないやらない」
「あ、そ」
肩を落としてドアを閉めていく・・・と、思ったら。
「何でもいいけど、時間を大切に使いなさいよ」
ドアが、ようやく閉まります。
時間を大切に、か。
恭一は何やってっかな。・・・遊びに出かけてもいいけど、夕方だしこれからだと中途半端だな。
友達のことを考えていたら、メッセージが来ました。恭一からです。
──商店街行かない?
クジやってるんだって
──行かない
今晩エビフライだし
──なんだよそれ
──冷めたらマズイじゃん
それにおこづかいもうないし
あいつもヒマなのか。
そんなメッセージをやりとりしていたら、また部屋のドアが開きました。
「惠介、ちょっと、来て」
「なんだよ、また何か足りないの?」
「じゃないの。ベランダにまたアイスの棒が落ちてるのよ」
犯人は自分じゃないけど、興味はある・・・惠介は母親とベランダに向かいました。
ベランダの端に、アイスの棒が一本、確かに落ちています。
「さっきのは捨てたの?」
「うん。今日二本目。・・・誰かの嫌がらせかなぁ、嫌だな」
あからさまに嫌そうな顔をしています。
「ちょっと、あれ拾って捨てといて」
そう言って、茫然と視線を空に移す母親。ある一点で、その視線が止まります。
「あ」
一呼吸おいて、もう一度。
「あ!」
「なに」
アイス棒を持った惠介が立ち上がります。
「カラスじゃない? カラスの仕業よ」
少し先の電柱のてっぺんに、一羽のカラスがとまっているのが見えます。
惠介はカラスが嫌いです。
うるさく鳴いたり、ゴミ置き場を散らかしたりするからという理由ではありません。一年ほど前、カラスに襲われたことがあるからです。と言ってもトラウマになるほどの記憶ではありませんし、あの時できた眉毛の横の傷は、よく見ないとわからないくらいに消えていますから、カラスは嫌いという漠然とした想いが胸に残っているだけ。それでも、カラスがこのベランダにまで近づいたとなれば、体がぞわっと震える気分でした。
「そうよ、きっとそうだわ。あーぁ、なんでカラスに目をつけられちゃったかなあ」
母親は、これを〝アイス棒事件〟と呼び、夕飯のときの話題にしました。
惠介にとっては、せっかくのエビフライのおいしさが半分になってしまいそうな話題でした。
次の日。
登校中の惠介に、新たな出来事が起きました。
それは信号待ちをしていた時のこと。
惠介の足元に、空からアイスの棒が落ちてきたのです。
驚いてすぐに上を見ると、一羽のカラスが飛んでいて、電線にとまりました。
え。
昨日と同じカラス? アイス棒、俺に宛てたものだったのかよ・・・。
カラスは、少しの間惠介を見つめたかと思うと、すぐに遠くへ飛び立っていきました。
単なるイタズラか?
でもなんで俺なんだ?
カラスが嫌いという気持ちは、今はどこかに行ってしまっています。ただただ、なぜカラスが自分にアイスの棒を運んでくるのか・・・それだけが気になりました。
中休みの時間、恭一のクラスを訪ねました。
「なあ、キョイ」
恭一のことです。
「あのさ、」
惠介は、昨日のアイス棒事件と今朝の信号待ちの出来事を、事細かに恭一に話しました。
「それってさ、お前のことを好きになったんじゃない? そのカラス。だってさ、お前コンビニとかでよくアイス買って食ってんじゃん。カラスが空からそれを見ててさ、アイスがお前の好物だ、って思ったんだよ、きっと」
まぁ確かに、ベランダの事件は昨日アイスを食った直後ではあったな・・・。
「いやぁ、でも、俺がカラスに好かれる理由がねえよ」
「じゃ、その逆か。お前がアイスの棒をポイ捨てするのを目撃して〝ゴミを捨てるな!〟って怒ってる、とか」
「キョイって想像力豊かだなー。そんなこと、あるかよ・・・」
下校時間、そんな二人に起きた出来事は、恭一の空想を後押しする決定的なものでした。
校門を出るとすぐ、一羽のカラスが恭一と惠介の目の前に降り立ったのです。
まわりの生徒たちがざわめきます。遠巻きに見ながら「何かくわえてる」と呟いたり、速足で逃げたり。
でも恭一と惠介は、その場にとどまりました。あまりに驚きすぎて動けなかった、というのが正直なところかもしれません。
間近に見るカラス。クチバシにザリガニをくわえています。
そのザリガニをヒョイと地面に置き、軽く羽ばたいて校庭の脇の柵の上にとまりました。
「やっぱりあのカラス、お前に・・・」
恭一が、言葉の途中で「あ!」と声を上げました。
「ザリガニ!」
カラスが置いたザリガニを見たとき、惠介も思い出していました。一年前のあの出来事を。恭一にも、その記憶が蘇ったのです。
「水路にザリガニ捕りに行った時さ、カラスに持ってかれたことあったよな」
興奮が高まってきて、惠介に近寄ります。
「お前あのとき怪我したよな。あのときのカラスが〝詫び〟に来てるんじゃねえの? あのときはザリガニ持ってってごめん、とか、怪我させてごめん、とか」
そんなこと、あるだろうか。
でもそう言われるとそんな気もします。
「お前」恭一が続けます。「ザリガニ、拾い上げてやんなきゃ、だぞ」
「え?」
「詫びに来てるんだから、応えないと」
恭一の中ではストーリーが出来上がっているようです。
そうか。
一年前のあのとき、俺のザリガニを持ってったから(捕って遊んでただけで別に俺のというわけではないけど)、代わりにアイスの棒を持ってきたのかな。どこかで俺がアイス食ってるのを見かけて俺の好物だと思ったのか・・・。
でももう一年も前のことだぞ?
あ。まさか、俺の居場所を一年かけて探してようやく突き止めた・・・? そんな・・・。
考えながら、惠介は地面に置かれたザリガニに手をかけました。
柵を見ると、カラスはこちらを見ています。
拾い上げて、恭一を見ました。
すると、恭一の視線がカラスを追うのがわかりました。飛び立ったのです。
「な、このあと、付き合ってくれよ」
惠介が言いましたが、恭一も同じ気持ちでした。
「ああ。行くんだよな、あそこ」
言いながら、もう速足になっています。
二人はそれぞれの家に一度戻って、自転車で待ち合わせをしました。
風を切る二人。
街から離れて、人の住まないようなエリアに入っていきます。
それでも道はアスファルトで舗装されていて、タイヤが心地よい音を立てています。ただ、次第にカーブが多くなり、山肌も近くに感じるようになりました。
「最近ずっと来てなかったな、ここ」
二人は自転車をとめて、今、あの水路に向かっています。
懐かしい風景を見ながら、一年前の記憶を辿ります。
ここだ。
ザリガニを奪われたちょうどその場所に、さっきカラスが置いていったザリガニを置きました。そしてその隣に、開封したてのアイスを。ここに来る途中で恵介が買ったものです。母親のクレジットカードではなく、自分のおこづかいの残りで買いました。
「これで伝わるかな」
「うん。もう気にすんな、ってな」
見上げると、いつのまにかカラスが二羽、高い木の枝にとまっています。
恭一と惠介が顔を見合わせました。
「おーい」
自然と、語りかけ始める恵介。
「あのときのことは全然気にしちゃいない。このザリガニはお前が持ってけ」
恭一は、二羽を見つめて黙ったままです。
「アイスは〝詫び〟のお返しだ。俺の好きなもの。美味しいぞ」
あの二羽が、さっき校門でザリガニを置いていったカラスかどうかは定かでないのに。
それでも、言い終えた恵介に、恭一が満足げな視線を送ります。
じゃ、行こうか。
言葉は交わさずとも、そんな雰囲気で二人が自転車に向かいます。
ハンドルを手に取って、スタンドを蹴り上げた恵介が木の枝を振り返ると、二羽はまだそこにいました。
カラスのカースケ・・・。
惠介は心の中でそう言って、もう一度声を張りました。
「お前を、カースケと名付ける! カースケ、もう俺を探さなくていいんだぞ。自分のために時間を使えよ、時間を大切にな!」
恭一をチラッと見て・・・
「隣の、お前はカンイチだ! じゃあな」
二人は自転車にまたがって、来た道を戻っていきました。
木の上の二羽は、どんな会話をしているのでしょう。
それは、人間にはわかりません。
でもきっと、嬉しく、気分の晴れやかな会話に違いない。そう思います。
おわり
