願いのスープ
筍のポタージュ
発端は、弟が知り合いに頼まれてとんでもない量の筍を掘ってきたことだった。
「姉ちゃん、取りに来れへんか」と連絡があったけれど、あいにく実家は遠い。仕事でくたくただった私は、「たぶん無理やわ」とそっけない返事を返した。
ところがその日の夜遅く、今度は父から電話がかかってきた。
「筍がたくさんあんねんけど。ばあちゃんに食べさせたったら、喜ぶんちゃうか?」
その一言で、私はあっさりと陥落した。重い腰を上げ、疲れた体に鞭を打って筍を迎えに行く。我ながら本当に現金な性格だと思う。
とはいえ、93歳で入院中の今の祖母はとろみをつけたものしか飲み込むことができない。繊維の塊である筍なんて、絶対に無理だろう。
でも、祖母は筍が大好きだった。そして何より、祖母の作る筍料理は絶品だった。
私が小さい頃から特に大好物だったのは、筍の木の芽和え。
筍と同じように角切りにされたイカが入っていて、庭の山椒の香りが鼻を抜ける。今思えばめちゃくちゃ渋い味覚の子供だったけれど、祖母が大きなすり鉢で作ってくれるそれは、食卓に出るなりあっという間になくなった。
ほかにも、筍ご飯や、天ぷら。あらかじめ出汁の味が染み込んだ筍を揚げた天ぷらは、何もつけなくても美味しくて、台所で揚がったそばからつまみ食いをした。
あの味を。筍の香りを、もう一度食べさせてあげたい。
考えに考えた末、私は筍のポタージュを作ることにした。
水煮にした筍の、一番柔らかい穂先のところだけを切り出し、コンソメでくたくたに煮る。まずはそれをミキサーにかけ、これでもかというほど細かく砕いた。
筍がペースト状になったところで、少しの味噌とめんつゆ、塩を足して和の輪郭を作り、牛乳でなめらかに伸ばす。最後にとろみをつけるための片栗粉を加え、それでも残る繊維をなくすため、大きい網で一度、さらに茶漉しのような小さい網で二度、丁寧に漉していく。
出来上がったのは、見た目にはただの白いとろりとした液体。
でも、味も香りも、間違いなく春の筍料理だった。
翌日、病室へ持っていくと、祖母は「はあ、それは食べてみたいわ」と、いつもよりずっと弾んだ声を出した。
よし、と私は気合いを入れる。
まずは喉の準備体操だ。喉ならしにとろみをつけた麦茶をほんの一口、スプーンで祖母の口へ運んだ。
ごくり。
祖母の喉が動いた、その瞬間だった。
「ゲホッ、ゴホン……」
祖母が小さく咳き込んだ。
私が何かを飲ませて、祖母がむせたのはこれが初めてだった。とろみをつけていたはずなのに、うまく飲み込めずに気管に入ってしまったのだ。
私の頭は、一瞬で真っ白になった。
どうしよう、私のせいで。もしこれが原因で取り返しのつかないことになってしまったら。
筍のポタージュどころではない。血の気が引く思いで、素人なりに必死で細い背中をさすり続けていると、「こんにちは」と明るい声がした。
振り返ると、あの若い作業療法士さんが立っていた。ちょうど、リハビリの時間だったのだ。
「すみません、麦茶でむせてしまって……」
泣きそうになりながら経緯を説明する私に、彼はいつもの穏やかな笑顔で言った。
「大丈夫ですよ」
作業療法士さんは、祖母に向かって「『あー』って言ってみましょうか」「ちょっとだけ、コホンと咳をしてみましょうか」と、穏やかに、でも的確に声をかけてくれた。
彼の指示に従ううちに、祖母の呼吸はみるみる落ち着きを取り戻していく。そのまま彼に支えられながら、ベッドから車椅子へ移るリハビリも無事にこなすことができた。
リハビリの最後。
「もう一回、麦茶を飲んでみましょうか」
彼がスプーンで麦茶をすくい、祖母の口元へ運ぶ。今度はむせることなく、するすると喉の奥へ消えていった。
「顎の角度さえしっかりとしていれば、大丈夫ですよ」
彼にそう教えられて、私はようやく深く息を吐き出した。
咳き込む姿を見た時は、恐ろしくて、今日はもうスープもりんごのすりおろしも諦めて帰ろうと思っていた。
でも、彼のその言葉に励まされ、「あの……スープ、飲ませてみても大丈夫ですか?」と尋ねてみる。
「大丈夫だと思いますよ」
その優しさに、思い切って甘えさせてもらうことにした。
「おばあちゃん、もう一度、たけのこのスープ飲んでみたい?」
そう確認すると、祖母は迷わず「それは飲みたいわ」と答えた。
「じゃあ、一口だけ飲んでみようか。春の香りを感じてほしいねん。たけのこ、今だけやからな」
「嬉しいわ」
小さなスプーンで、白いポタージュをそっと口へ運ぶ。
「……おいしいわ」
「もっと飲む?」
「ほしいわ」
ゆっくり、ゆっくりと。結局、祖母は三口のスープを飲んでくれた。
そのささやかで静かな時間を、作業療法士さんは横で急かすこともなく、穏やかに見守ってくれていた。
ああ、私は一人じゃないんだな、と思った。
きっと私はこの先も、春が来て筍を見るたびに思い出すのだろう。
祖母が筍を大好きだったということを。
そして、不安で張り詰めていた私を、そっと支えてくれる優しい人たちがいたということを。
長芋のスープ
祖母は、私の作ったとろろが好きだった。
いや、もともとは、祖母が作ったとろろを私が大好きだったのだ。
祖母が台所に立てなくなってから、私がとろろを代わりに作り、祖母に運んでいた。
本当は、あの味噌の香るとろろをご飯にかけて食べさせてあげたかった。けれど、今の彼女にそれを叶えることはできない。
だから私は、あの味を再現し、今の彼女が飲める精一杯の形に近づけることにした。
長芋をミキサーでこれでもかというほど細かく下ろし、そこにだし汁と味噌を溶いたものを混ぜ合わせる。生のままのとろろは喉にへばりつく恐れがあるため、しっかりと加熱した。粘りを消し、柔らかな「とろみ」に変えるのだ。
和風だけで仕上げたかったけれど、隠し味に少しの牛乳とオリゴ糖を加えると、驚くほど味がまろやかになった。
定番のりんごのすりおろしと一緒に、それを持って病室へ向かう。
今日の祖母の体調は、まあまあといったところだった。
けれど「なんかしんどい、なんかしんどい」と小さく呟いている。
「今日は、車が走ってるね」
おばあちゃんが、窓の外ではない、何もない空間を指して教えてくれる。
「女の子が乗っとう気がするわ」
その言葉に、どこか「お迎え」ではないような気がして、私は少しだけ安心する。
しかし、次に彼女は言った。
「あ、トラックが来た」
「誰が乗ってるの?」
思わず聞き返すと、彼女は事も無げに答えた。
「たかしが乗ってる」
たかし…
7年前に亡くなった、私の叔父だ。おばあちゃんにとっては、自分の息子。
まずい、と私はまた慌てて話を切り替える。おじいちゃんに続き、叔父にだって迎えに来させはしない。
……いや、でも待てよ。
よく考えれば、叔父は迎えに来るようなマメなタイプではなかった。
いつでも自由に、自分の好きなことをマイペースに楽しむような人だった。いつも前向きで明るく、シニカルで面白くて、自然と愛犬と2人の娘をこよなく愛していた叔父は、きっとあっちでも楽しくやっているはずだ。
なぜか亡くなったあとも、叔父に対しては「おばあちゃんを迎えに来ない」という根拠なき信頼感があった。
すると今度は、おばあちゃんが耳を澄ませてこう言った。
「どこかで、赤ちゃんが泣いているわ。どこの子やろう」
「どこの子やろね?」
私が合わせると、彼女はすかさず答えた。
「あんたの子やろ」ときっぱり言い切った。
私は、喉まで出かかった「私、赤ちゃんどころか結婚すらしてない」という言葉をそっと飲み込んだ。
そういえば、亡くなった母方の祖母も、最後は私が結婚しているという幸せな時空を生きていた。
みんなの期待を裏切って申し訳ないけれど、まあ、こんなふうにスープを運んでくる孫が一人くらいいてもいいじゃないか。
「スープとりんご、食べてみる?」
「食べたいわ」
まずは、りんごのすりおろしから。
三口食べて「おいしいわ」と喜び、一口麦茶を飲んで、また二口。
「おいしいわ」と、彼女はまた笑った。
「スープもちょっと飲んでみようか。今日はとろろやねんで」
「あ、そっちもええな」
甘いもののあとに塩味でセットさせようと、一度、麦茶を飲ませた。
その時、彼女が少しだけむせ込んだ。
たったそれだけのことで、私の鼓動は止まりそうになる。
飲ませてあげたい。けれど、もしこれで容体が悪くなったら。
迷った末、今日のスープは断念することにした。
持って帰って飲んだとろろのスープは、私が作っている時に味見したものよりも、美味しかった。
新玉ねぎと焼きナスのポタージュ
オーブンでじっくりと焼きナスを作り、皮をむいて細かく刻む。それと新玉ねぎを一緒に、めんつゆでくたくたになるまで煮込んだ。塩を少しだけ足して牛乳で伸ばし、ミキサーにかけてから一度裏ごしし、片栗粉でとろみをつける。
新玉ねぎを入れたのには理由がある。少しでも血液がサラサラになってほしい。そんな、祈りを込めたからだ。
少し食欲が戻ってきたからと、一度は点滴が外れることになって安堵したのも束の間。太ももに血栓が見つかった。
しかも脱水症状が出ているため、点滴はすぐに再開となった。
一難去ったら次は三難がそれぞれ武器を携えてやってくる…そんな気持ちになった。
病室に入ると、今日のおばあちゃんの目はうつろだった。
「どちらさん?」
初めて、私を認識できなかった。
まるでドラマか映画のワンシーンそんまんまじゃないかと思ったが、不思議と私は傷つかなかった。名前なんて忘れてもいい。私が誰だかわからなくてもいい。ただ生きていてくれるだけで、それでいい。
「ハエが止まっとうねん。嫌やわ」
ふいに、おばあちゃんが顔のあたりを気にして顔をしかめた。
空調の効いた清潔な病室に、もちろんハエなんて一匹も飛んでいない。今の彼女のうつろな瞳には、私には見えないものが映っているのだろう。
「私が払ってあげるから、大丈夫やで」
私は大真面目な顔をして、見えないハエを両手でパチンと捕まえて、ぽいっと追っ払う真似をした。
けれど、少しすると「あ、またハエが来た」と不満そうに言う。
「大丈夫やで。ハエが来るような食べ物は、もうここには置いてないから。さっきのハエも私がちゃんと捕まえたし、もう多分来ないよ」
そう言うと、おばあちゃんはほっと安堵した顔を見せた。
次にまた「ハエが来た」と言い出したら、今度は「今日はすんごい殺虫剤持ってきたからね、シューッ!」とでも言ってやろう。私は密かに次のセリフを準備して構えていたが、結局その「次」はなかった。どうやら、本当にハエは来なくなったらしい。
食欲も全くなさそうだったし、今日はスープを諦めよう。そう思った矢先、リハビリの時間がやってきた。
今日は「立ち上がる訓練」だという。先日までの、車椅子に移動してベッドに戻るだけのものから比べると、とてつもなく大きな進歩だ。
自分で立ち上がる力はなく、ほぼ作業療法士さんに支えられたままだったけれど、それでも一旦立ち上がり、3秒保って、また座る。それを2回、頑張って繰り返した。
リハビリを終え、今度は看護師さんが点滴の交換にやってきた。
「せっかく少し食べられるようになったのに、脱水になっちゃって……」
私がこぼすと、看護師さんは「水分、飲めそうなら、どんどん飲ませてあげてくださいね」と優しく言い、こう付け加えた。
「検査したらね、だいたい何か見つかっちゃうことが多いですからね。もともと、あまり水分を摂られない方だったんですか?」
そうだ。おばあちゃんは昔から、あまり水分を摂らない人だった。「私、トイレがかたいの(トイレが近くない)。」そんなよくわかんない自慢をしていた元気だった頃の祖母を思い出す。
ほら、そんな習慣のツケが今、こんなふうに回ってきちゃってるんじゃない…
けれど、看護師さんの「検査をしたら何か見つかっちゃう」という言葉に、私はなんだかひどく救われた気がした。
そりゃそうだ。私だって今、全身を細かくチェックされたら何かしら見つかる自信しかない。ましてや、彼女は93歳なのだ。
何も見つからない方がおかしい。
看護師さんが去った後、少し体を動かしてお腹が空いたのかもしれないと思い、最後にもう一度だけ聞いてみた。
「食べてみる?」
「うん」
小さく頷いたので、焼きナスと新玉ねぎのスープをそっと口に運んでみる。
すると彼女はずっと吸い込んで、そのままじっと、次のスープが来るのを待っているのだ。
二口、三口、四口、五口、六口、七口。
「香ばしくておいしい」
そう言って、結局八口も食べてくれた。
「りんごのすりおろしも、食べてみる?」
「うん」
こちらも一口、二口と進み、結局大きなりんごの四分の一個分をすべて食べてくれた。
なんだか涙が出そうなほど、嬉しかった。
『飲めそうなら、どんどん飲ませてあげてくださいね』
看護師さんの言葉が、頭の中でリフレインする。
ああ、もうこれは、今の私の人生のすべてをかけたミッションだ。
大げさかもしれないけれど、本気でそう思った。
かぼちゃの煮物のスープ
病室のドアを開けると、そこにはパッチリと目を開けた祖母がいた。
「あぁ、来てくれたんか。嬉しいわ」
昨日までの霞がかったような空気はどこへやら、私を認識して喜んでくれる声には、確かな輪郭があった。
椅子の脚を小さく鳴らして隣に座る。
「今日ね、私の誕生日やねん」
そう伝えると、祖母は「今日やったか、おめでとうな」と、弾むような声で祝ってくれた。
今日持ってきたのは、かぼちゃのポタージュだ。昨日作った煮付けにコンソメを足し、二度丁寧に濾して、牛乳でなめらかに伸ばしたもの。バターは入れず、かぼちゃそのものの優しい甘みだけを残している。今日は肌寒かったので、魔法瓶の中で温めてもってきた。
「ちょっと熱いけど、いいかな?」
「熱い方が嬉しいわ」
一口、二口。スプーンを口元へ運ぶたび、祖母の喉が心地よく動く。三口、四口……気付けば十口。
いつもは数口で口を閉ざしてしまう祖母にとって、過去最高の記録だった。
「すごい! 最高の誕生日プレゼントになったわ」
少し弾んだ声で伝えると、祖母は照れたようにまた「おめでとうな」と目を細めた。
少し休憩していると、嚥下のリハビリを担当する作業療法士の女性がやってきた。邪魔にならないよう壁際で見守らせてもらう。
リハビリは、丁寧な歯磨きから始まった。それが終わると、お口の体操だ。
「では、パ・パ・パ・パ、と言ってみましょう」
療法士さんの声に合わせて、祖母も律儀に唇を動かす。
「パ・パ・パ・パ」
「はい、いいですね。次は、タ・タ・タ・タ、宝船のタですよ」
「パ・パ・パ・パ」
「……次は、サ・サ・サ・サ、と言ってみましょうか。サラダのサですよ」
「パ・パ・パ・パ」
何を促されても、祖母は「パ」だけで全てのお題を乗り切っていた。大真面目な顔で繰り返される乾いた破裂音に、静かな病室の空気がふっと緩む。
ひとしきり口を動かした後、療法士さんがサイドテーブルに置いていた「奮発したりんごのすりおろし」に気づいてくれた。
「いつもはゼリーなんですけど、よかったらこちらを食べさせましょうか?」
私が勧めた時は一口で「もうお腹いっぱい」と言っていたのに、プロが匙を握ると、祖母はさらに四口、しっかりと食べた。
それどころか、「このリンゴ、美味しいから食べてみ」と、療法士さんに味見を勧めていた。自分の食べさしのりんごのすりおろしを振る舞うお節介な姿がおかしくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
窓の外では、少し冷たい風が吹いている。
けれど、二度濾したポタージュのなめらかな黄色と、すべてを凪ぎ払うような「パ・パ・パ」の音。そして、誇らしげな祖母の声。
こんなにも穏やかで、少しだけ笑えるやり取りを壁際で眺めていられるなんて。今年の誕生日は、間違いなく、これ以上ないほどに満たされていた。
特別なりんごのすりおろし
雨の日の病院への道のりは、少しだけ厄介だ。
駅から続く上り坂を、少しでも早く着きたくて急ぎ足で駆け上がった。病室にたどり着く頃には、肌寒い日だというのにじんわりと汗をかいていた。
今日の手土産は、すりおろしたばかりのりんごだ。
病室のドアを開けるときは、いつも一瞬だけ息を詰める。ベッドの上の祖母は、横を向いて静かに眠っていた。
「おばあちゃん」
そっと声をかけると、彼女はゆっくりと目を開けた。
あ、今日はなんだかいい日な気がする。そう直感させるような、焦点の合った、はっきりとした目の開き方だった。
「……来てくれて、嬉しいわ」
心の底からふっとこぼれ落ちたような声だった。私こそ嬉しいよと内心で応えながら、持ってきた小さなタッパーを開ける。
「りんご持ってきたけど、食べる?」
「食べる」
すりおろしたりんごを、スプーンで一口、二口と口に運ぶ。いつもなら数口で満足してしまうのに、今日の祖母は違った。ゆっくりと、けれど確かなペースで食べ進め、気づけばタッパーの半分が空になっていた。
今までで一番たくさんの量を食べてくれたのだ。
「美味しいわ」
祖母が目を細めて言う。そうだろう、そうだろう。だってこれは、お高いりんごなのだから。
いつもの八百屋の店先で、安いりんごと高いりんごが並んでいるとき、祖母の病院へ持っていく日に限っては、迷わず高い方を買うことにしている。やはりお高いりんごは違うのだと、私は勝手に信じ込んでいる。それはもう味の問題というより、私にとっての「願いのりんご」であり、小さな「魔法のりんご」なのだ。半分も空になったタッパーを見つめながら、その魔法が確かに効いていることを実感する。
機嫌よくりんごを食べ終えた後、私は祖母の手や足をゆっくりとさすり始めた。
足の裏に触れると、ひんやりと冷たい。私の手はもともと熱を持ちやすいタイプなので、その温度差がくっきりとわかる。
「あったかくて、気持ちいいわ」
祖母が言う。私は少しでも自分の熱を送り込むように、その薄く冷たい足を両手で包み込んだ。
「おばあちゃんの足、冷たくて気持ちいいわ」
そう返すと、祖母は少しだけ不思議そうな顔をした。
「冷たくて気持ちいいから、この冷たいの、ちょっともらうな」
冗談めかして笑うと、祖母は弱々しく、けれどふわりと笑って応えた。
「……あんたにあげるわ」
ただ、それだけの会話。
病室の窓ガラスを、雨の雫が音もなく滑り落ちていく。私の手のひらから祖母の足先へ、静かに温度だけが移っていく。
「あげるわ」「もらうな」。そんななんでもない言葉のキャッチボールができるだけで、今日はなんていい日なんだろうと思う。
魔法のりんごが満たしてくれたお腹と、この静かな熱の交換が、もう少しだけ続けばいい。
ただそれだけを願う、雨の日の午後のことだった。
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