お茶割りは食費か ― エンゲル係数、その疲弊について
カウンターの隣に座った若い客が、近頃の食費の高さを嘆いていた。聞けば、マクドナルドですら千五百円近くになってしまうのだという。そんな馬鹿な、と思わず聞き返すと、ウーバーイーツを使っているらしい。
蕎麦屋の出前くらいしか知らない私には、意外な話であった。あれも、食費に数えるものなのか。
子供の頃、社会科の授業でエンゲル係数というものを習った。稼ぎのほとんどを食べることに費やしてしまう、それだけ暮らしが苦しいのだという証だと、そう教わった記憶がある。
あらためて考えてみると、「食費」とは何を指すのか、私はよく分かっていなかったように思う。総務省の家計調査でいう「食料」には、自炊の材料費だけでなく、外食も、弁当や惣菜のような調理食品も含まれるらしい。つまり家で作ったか、外で食べたか、届けてもらったかは、統計上は区別されない。まとめて「食料費」として計上される。
蕎麦屋の出前と、ウーバーイーツで届く一食とは、同じ「配達してもらう食」でありながら、何かが違う気がする。その違和感を、しばらく考えてみたい。
エンゲル係数は、十九世紀のベルギーの労働者家庭を調べた統計から出発しているという。当時の「食」は、ほぼ生存コストの塊であった。栄養を確保するための支出であって、そこに選択の余地はさほどなかったはずである。
ところが現代の外食は、腹を満たすだけでなく、その場の空気や時間ごと味わうものになっている。誰かと時間を共にし、時にはSNSに載せるための一食を選ぶ。健康志向で少々値の張る店を選ぶ人もいる。こうした支出が食料費として積み重なれば、係数は押し上げられることになる。しかしそれは、暮らしが苦しくなったからではなく、食に金を使うという選択をしたからである。
係数が上がったという一事だけをもって、貧しくなったと判断するのは、いささか早計であるらしい。
そもそもエンゲル係数は、何を食べたいかという好みを測るものではなかったはずである。手元にある稼ぎのうち、どれだけを食に割かねばならないか、という必要性の指数であった。だとすれば、外食が娯楽化したから係数が意味を失った、と言い切るのも性急に過ぎる。
むしろ、係数を読むときには、所得の水準だけでなく、暮らし方そのものの変化も併せて考える必要がある、というくらいに留めておくのが、身の丈に合っているのだろう。
酒は栄養ではない。それでも居酒屋の勘定は、しばしば食費として扱われる。
もう一つ、私が気になったのは、ウーバーイーツの支払いの内訳である。商品代金のほかに、配達料、サービス料が別々に明示されている。これは実質的に、「食品の対価」と「運んでもらうことの対価」が合成された支出だということになる。
蕎麦屋の出前は、配達のコストを暗黙のうちに商品価格へ溶かし込んでいた。だから「食料費」として一体的に扱っても、さほどズレはなかったのだろう。ウーバーイーツのような仕組みでは、統計上はサービス料等を別項目として扱う場合もあるらしいが、支払う側の感覚としては、それを分けて意識することはまずない。一食を頼んで、一食分の代金を払った、というだけの実感である。
統計の分類と、生活者の実感との間に、こうした小さなズレが生まれているのではないか。
統計というものは、ある時代の暮らしの姿を切り取るために作られた道具である。その意味では、時代が変われば、その数字の見え方も変わってくるのだろう。
十九世紀のエンゲルが見たら、この「食料費」の中身に何を思うだろうか。まさか、蕎麦屋の出前どころか、配達員がスマホの指示で走り回る時代が来るとは、想定していなかったに違いない。外食のエンタメ化も、配達という運輸サービスの混入も、当時の想定の外にあったはずだ。
数字そのものを疑っているわけではない。疑っているのは、その数字を昔と同じ意味で読んでしまう私たちの側である。暮らしの中身は静かに変わった。それでも数字だけは、昔と同じ顔をして並んでいる。そのズレに、統計の宿命のようなものを感じる。
このお茶割りも、食費に数えられるのだろうか。
そんなことを考えながら、今夜もグラスを傾けている次第である。
