社会党の黄昏——飛鳥田市政から村山政権まで、半世紀の政治的記憶
プロローグ:社民党党首選を眺めながら
社民党の党首選のニュースを見ていて、ふと思った。本当に社会党は消えてしまうのかもしれない、と。
いや、正確には、社会党はもうとっくに「消えて」いる。一九九六年、社会民主党と名を改めた時点で、少なくとも名称上は終わりを迎えた。しかしそれでも、どこかに残滓のようなものがあると思っていた。かつて自民党と二大政党的な緊張関係を保っていたあの巨大野党の面影が、まだ社民党という小さな器の中に生き続けているはずだと。だが、その器もいよいよ空になろうとしている。
生まれた頃の市長——飛鳥田一雄という存在
私が生まれた頃、横浜市長は飛鳥田一雄であった。
一九六三年から七八年まで横浜市長を務めた飛鳥田は、革新市政の旗手として全国的な知名度を誇っていた。美濃部亮吉の東京都政、蜷川虎三の京都府政と並んで、革新自治体ブームを象徴する存在であり、「飛鳥田の横浜」はその中でも際立ったショーケースであった。
もちろん物心がついた頃に飛鳥田市政の詳細を理解していたわけではない。しかし後に振り返れば、自分が生まれ育った時代の空気の中に、社会党という政治勢力は確かに色濃く存在していた。革新自治体が各地に広がり、自民党の長期支配に対するオルタナティブが現実の政治の中で息づいていた時代である。
高度経済成長の歪み——公害、急激な人口増加、インフラの整備不足——に対して、「革新」の旗を掲げる勢力が住民の支持を集めていた。社会党はその中核にいた。
一九七五年を語る前に、この背景は押さえておく必要がある。社会党はすでに一九五五年の結党以来、衆議院で百席前後を維持し、護憲・非武装中立・日米安保反対という三本柱を掲げて自民党に対峙してきた。いわゆる「五五年体制」の一翼を担う巨大野党として、その存在感は国政だけでなく地方政治にも深く浸透していたのである。
一九七五年という座標——ニュースを見始めた頃
一九七五年、私はまもなく中学生になろうとしていた。テレビのニュースをぼんやりと見るようになり、政治という得体の知れないものが世の中を動かしているらしいと、うっすら感じ始めた頃の話である。
時の総理大臣は三木武夫であった。ロッキード事件の嵐が近づきつつある中、クリーンなイメージで担ぎ出された三木は、「三木おろし」という党内圧力と格闘しながらも政権を維持していた。自民党内部の権力闘争は熾烈で、田中角栄が金権政治の象徴として批判を受け、その後継としての三木政権は、ある意味で自民党が自己浄化を演じようとした一幕でもあった。
野党の側はどうだったか。日本社会党は委員長に成田知巳を擁し、依然として衆議院で百席を超える勢力を保っていた。その左に日本共産党が食い込み、中道勢力として公明党と民社党が存在感を示していた。
公明党は創価学会を支持母体とし、一九六四年の結党以来、都市部の無党派層や中小企業経営者を取り込んで急速に勢力を拡大していた。
民社党は社会党の右派が分裂して一九六〇年に結成した党で、穏健な社会民主主義と日米安保容認を掲げ、労働組合の中でも同盟系(全日本労働総同盟)と結びついていた。この両党は社会党と共産党の間にあって政界の「中道」を形成し、単純な自社対立の図式を複雑にしていた。
自民、社会、公明、民社、共産。この五党がそれぞれの重力を持ちながら存在していたのが、中学生の目に映り始めた政治の風景であった。
世界の風と日本の政治
一九七五年前後の世界は激動の中にあった。ベトナム戦争が終結し、サイゴンが陥落したのが一九七五年四月。アメリカの威信は大きく傷つき、デタントの時代が続いていたが、冷戦の構造は依然として世界を二分していた。
日本の社会党にとって、この冷戦構造は存在意義の根幹に関わるものであった。日米安保条約への反対、自衛隊違憲論、非武装中立路線。これらは単なる政策論争ではなく、社会党のアイデンティティそのものであった。しかし皮肉なことに、冷戦が緩和されるにつれて、この路線の説得力もまた揺らぎ始める。
国内では高度経済成長が終わり、石油ショック後の低成長時代が始まっていた。豊かさを享受し始めた中産階級にとって、「反対」と「護憲」だけを叫ぶ野党の言葉は、次第に空虚に響き始めていた。
ロッキード、そして保革伯仲
一九七六年、ロッキード事件が爆発する。田中角栄の逮捕。自民党への国民的不信が頂点に達し、同年の衆議院選挙では自民党が大敗を喫した。三木の後継として福田赳夫が政権を担った。
この時期、「保革伯仲」という言葉が生まれた。自民と野党の議席が拮抗し、政権交代が現実の可能性として語られた時代である。社会党にとっては千載一遇のチャンスのはずだった。
同年、飛鳥田一雄が社会党委員長に就任する。横浜という現場から国政野党の頂点へ。この転身は、社会党が変わろうとしているシグナルのように見えた。実際、飛鳥田は社会党・公明党・民社党による中道連合政権構想、いわゆる「社公民路線」を模索し、自民党に代わる政権交代の可能性を真剣に追求しようとした。公明党と民社党の取り込みは、社会党が現実路線へと舵を切ろうとした最初の本格的な試みでもあった。
しかし社会党はそのチャンスをつかめなかった。自衛隊違憲・安保廃棄という現実離れした主張を堅持する限り、政権担当能力への疑問は拭えなかった。また総評(日本労働組合総評議会)に強く依存した組織体質は、多様化する有権者の要求に柔軟に対応することを妨げ続けた。「社公民路線」も結局は党内左派勢力の抵抗によって腰砕けになっていく。
中曽根時代と社会党の凋落
一九八〇年代に入ると、政治の風向きは大きく変わる。 大平正芳内閣の不信任案可決と選挙中の急死、続く鈴木善幸内閣を経て、一九八二年に登場した中曽根康弘は「戦後政治の総決算」を掲げ、長期政権を築いていく。
世界ではレーガノミクスとサッチャリズムの嵐が吹き荒れていた。「小さな政府」「民営化」「規制緩和」が時代の合言葉になり、中曽根は国鉄・電電公社・専売公社の民営化を断行してその潮流を巧みに乗りこなした。
この時代、社会党の存在感はさらに薄れていった。委員長は石橋政嗣に代わっていた。石橋は「非武装中立論」を体系的に打ち出した人物でもあったが、時代の流れは彼の理念とは逆方向に進んでいた。
一方、中道野党もこの時期に変容を遂げつつあった。公明党は与党寄りの現実路線を強め、民社党は同盟系労組との関係を軸に独自の存在感を保とうとしていた。しかしいずれも社会党の凋落を補うほどの存在にはなれなかった。
野党全体として、自民党の一強体制に対抗する求心力を欠いていたのである。 ソ連のアフガニスタン侵攻(一九七九年)、ポーランドの連帯運動への弾圧、そして一九八〇年代後半のゴルバチョフ登場とペレストロイカ。世界社会主義の地殻変動は、日本の社会主義政党の足元を静かに、しかし確実に揺るがしていた。
土井たか子という彗星
一九八六年、社会党史上最も劇的な人物が登場する。土井たか子である。
石橋の後を受け、日本初の女性党首として社会党を率いた土井は、それまでの社会党のイメージを一変させた。明快な言葉、感情に訴える弁舌、「おたかさん」という親しみやすさ。一九八九年の参院選はまさに「土井旋風」と呼ぶべき現象を引き起こした。
背景にはリクルート事件があった。竹下登内閣から宇野宗佑内閣へと続く政治腐敗への国民の怒りは頂点に達し、参院選で社会党は大躍進を遂げた。「山が動いた」という土井の言葉は時代の記憶として刻まれた。
しかしこの成功は蜃気楼だった。一九九〇年の湾岸危機、一九九一年の湾岸戦争は、社会党の安保・外交路線の限界を白日の下にさらした。自衛隊の海外派遣問題、PKO参加問題。「反対」と叫ぶだけでは済まない現実が社会党の前に立ちはだかった。その後の衆院選では一転して惨敗し、土井は党首を辞任することになる。
冷戦終結と政界再編の嵐
一九八九年、ベルリンの壁が崩壊した。一九九一年、ソビエト連邦が消滅した。
この衝撃は、社会主義を旗印に掲げてきた社会党にとって、存立基盤そのものを揺るがすものであった。非武装中立・反安保という路線は、それが対峙すべき冷戦構造の消滅とともに、イデオロギー的な根拠の多くを失った。
国内では一九九三年が激動の年となる。宮澤喜一内閣への不信任案が可決され、衆院が解散。選挙の結果、自民党は単独過半数を割り、五五年体制と呼ばれた自社対立の時代が終焉を迎えた。新生党、日本新党、さきがけといった新勢力が台頭し、細川護熙を首班とする非自民連立政権が誕生した。「改革」が時代の旗印となる中で、社会党の古い看板は一層輝きを失っていた。
村山富市という逆説
一九九四年、歴史の逆説が起きる。
細川政権崩壊後の混乱の中で、自民党と社会党という、かつての対立軸の両巨頭が手を組み、村山富市社会党委員長を首班とする連立政権が誕生した。
村山は就任と同時に、社会党の長年の基本政策を自ら覆した。自衛隊は「合憲」、日米安保は「堅持」。この大転換は、社会党が自らのアイデンティティを放棄した瞬間として歴史に残った。護憲・非武装中立という旗を自ら降ろすことで政権を得た社会党は、その後の信任を失い、支持基盤の崩壊を加速させた。
一九九五年一月、阪神淡路大震災が起きた。村山政権の初動の遅れは厳しく批判され、政権の体力をさらに奪った。オウム真理教による地下鉄サリン事件も同年に起き、日本社会は未曾有の危機に揺れた。村山退陣後、橋本龍太郎自民党政権が続くが、社会党はもはや往年の面影すらなかった。
社会民主党という終章
一九九六年、社会党は「社会民主党」と改称した。改称は単なる名称変更ではなく、党の縮小と分裂の結果でもあった。
菅直人・鳩山由紀夫らが結成した民主党に多くの議員が流出し、旧社会党系は社民党と民主党に分かれた。民主党はその後、二〇〇九年の政権交代を実現した。しかし鳩山政権は普天間基地移設問題で迷走して短命に終わり、菅政権は東日本大震災と原発事故への対応に追われ、野田政権は消費税増税をめぐる党内対立で足をすくわれた。それぞれに固有の試練を抱えながら、三政権は三年余りで政権を手放した。
旧社会党が担っていた「権力への異議申立」という機能はその後、民主党の後継である立憲民主党へと受け継がれた。一方で維新の会のような、左右の軸とは異なる「改革」を旗印にした勢力も台頭し、野党の版図は一層複雑に分散していった。社会党が独り占めにしていた野党空間は、今や幾つもの断片に砕け散ったままである。
なぜ社会党は消えたのか
社会党が消えた理由は一言では言えない。
冷戦という二項対立の構造が社会党の存在理由を支えていたが、その構造が崩れた時、社会党は自らを再定義することができなかった。総評依存の体質、左派と右派の絶えない内部抗争、そして現実の政権運営から遠ざかり続けたことによる統治能力の欠如。政権交代の好機が訪れるたびに、社会党はその準備ができていなかった。
しかしもう一つの側面も忘れてはならない。社会党が担っていた「権力への異議申立」「弱者の代弁」「戦争への抵抗」という機能は、完全に消えたわけではない。形を変え、担い手を変えながら、それは今日の政治の中にも細い川筋として流れ続けている。その流れがどこへ向かうのかは、まだ誰にもわからない。
エピローグ
健全な与党は、健全な野党との激しい議論の中から生まれる。与野党が丁々発止と政策をぶつけ合い、国会という場が真剣勝負の舞台であった時代、自民党もまた緊張感の中で統治能力を磨いてきた。社会党という巨大な異議申立人の存在が、戦後日本の民主主義を、不完全ながらも機能させてきた一面は否定できない。
その社民党の党首選の動画をたまたま目にした。候補者同士の公開討論も行われず、新しい党首お披露目の席では、敗れ去った候補者の発言すら許されなかった。議論の熱どころか、異論の居場所すらない。怒りでも批判でもなく、ただ静かな寂しさが胸をよぎった。
あの頃、社会党はもっと大きかった。国会はもっとうるさかった。成田が吠え、土井が叫び、永田町に火花が散っていた。そんな時代の記憶を、誰かに伝えたくて、こうして書き留めてみた。
政党は歴史の流れの中に生まれ、消滅していくものだ。だが、政治を良くするための役目を終わらせてはいけない。
この記事は、社会党や現在の社民党に対する政治批判を意図したものではない。ただ、年を取った私が半世紀の記憶を振り返った、個人的な思い出話に過ぎない。
