これって私の感想です(キリッ)

最近、誰かの意見を聞くたびに、この言葉が頭に浮かぶようになりました。特に、テレビやインターネットで、誰かが「客観的事実」や「論理的な分析」を語るのを目にするとき、どれほど理路整然と語られようと、その根底にあるのは、すべて個人の「感想」に見えるからです。
感想とは何か。それは、私たちが心の中で感じる、最も純粋で、最も個人的な営みです。肌で感じて(知覚・感覚)、心で感じて(感情)、想う(思考)という、人間がこの世界と向き合うための、ごくごく基本的な行為にほかなりません。
例えば、目の前に富士山があるとします。「目の前に富士山がある」という知覚は感覚であり、「美しい」と感じるのは感情であり、「高い」と想うのは思考です。そして、その高さが「3,776m」という事実として語られるとき、それは測量した人の「知覚・感覚」を基にした「思考」の結晶であり、これもまたひとつの感想です。
感想には、人や状況によって様々な種類や段階があります。
初めて世界に触れた子供の新鮮な感想。
自分の変化に気づく、成長途上の人の感想。
そして、他者の立場を慮って語る、熟練した人の感想。
快・不快、好き・嫌い、有罪・無罪、善・悪、有益・無益、幸・不幸、さらには「どちらでもない」という感想まで、実に多種多様です。
これら多種多様な感想には無駄な感想もあるでしょうか?
いやいや、私には、それらすべての感想が必要だから、この世界に存在しているように見えます。例えば、無駄を省きたいという感想は、現実世界を合理的に動かす為には有益なことが多いです。しかし、同時に「人生において『無駄を省く』という価値観が決して絶対的なものではない」という感想も、同じくらい貴重です。
あるいは、「感想が無駄」だと感じる原因は、「単なる感想」によって限られた時間が浪費されるように見えるときがあるからだと思います。その気持ちはよくわかります。でも、それって事実であろうが、ロジカルであろうが、あるいはたとえそれが有益な話であっても単に「話が長い人は話が長い」ともいえるのではないでしょうか?
知覚したファクト(事実)や展開したロジック(論理)が卓越したものであればあるほど、人はそれを「単なる感想」よりも上に置きたがります。しかし、「他者には物事の上下を押し付けない」という考え方こそが、最も崇高な感想ではないでしょうか。
ただ、この「上下を押し付けない」という感想を、誰かに押し付けてしまったら自己矛盾ですよね。いわゆる言行不一致です。まあ、「言行不一致がよろしくない」というのも、ひとつの感想にすぎませんが、そこはご愛敬と言う事でご容赦ください。
多少こじつけ的な表現をすると、「感想」とは、自分と他者を彩る人生の「間奏」であり、いつしか全人類の幸せの「観想」へと進化する胤なのかもしれません。
だから、私は自分のことを「感想文おじさん」と呼ぶことにしました。
これって私の感想ですが(笑)













