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ボクのR指定:ムナクサメ認定映画たち(1万文字)


ボクのR指定:ムナクサメ認定映画たち

v5.2

【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、「忍びの国」「告白」「悪の教典」「三度目の殺人」「怪物」「冷たい熱帯魚」「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. ムナクサメ認定の定義

本稿が批評の指標として定義するムナクサメ認定という評価は、単なる後味の悪さを超え、観客の倫理観や人間性への不信感を激しく揺さぶる現象を指す、独自の指標である。本稿では、精神的なダメージの深さから、筆者個人が自らに課す一種の「ボクのR指定」としての概念を、そのルーツから丁寧に解説し、読者が前提とする批評軸を明確にする。

【ムナクサメ認定の概念の前提】

「胸糞が悪くなる」という表現は、「糞」という直接的な言葉を含むため放送業界では不快用語や下品な表現として自主規制の対象となるのが一般的である。ここで使用されている「糞(くそ)」という言葉は、現代では排泄物を意味するが、語源学的な観点では「臭い(くさし)」や「腐る(くさる)」に由来しているとする説が一説として挙げられており、古来より「不快なもの」「穢れ(けがれ)」の象徴であったことがわかる。

日本最古の歴史書である『古事記』(712年成立)や『日本書紀』(720年成立)では、神話の神であるスサノオが、聖域である天照大御神の宮殿で屎を撒き散らした暴挙が記されている。この行為は『古事記』の読み下し等では「屎まり散らしき」、『日本書紀』の一書においても「屎まりき」といったニュアンスで表現されることがあり、これは当時の社会において最も忌むべき「穢れ」の表現、すなわち「胸糞」の原型ともいえる、生理的な吐き気を伴うほどの強烈な不快感を伝えている。この「胸のあたりがムカムカするほど不快で腹立たしい」という感覚が語源であると一般に解釈されている。

しかし一方で、語感がよく似た「くさめ(くしゃみ)」の語源については、中世に成立したとされる、くしゃみをした際に魂が抜けて寿命が縮まるのを防ぐための呪文「休息万命」にあるとする説が一説として知られている。これは「死や腐敗」を防ぎ、「命(万命)の休息」を願う、非常に縁起の良い言葉に由来しているという解釈である。

そこで本稿では、この強い不快感(胸糞)と、命を長らえさせる休息の概念(くさめ)の響きを重ね合わせ、不快感をキャンセルし心の安寧を求める意図で、造語「ムナクサメ」として言い換えて論じる。本来は「胸糞映画」と呼称すべきところ、本稿では全てをムナクサメ認定作品、あるいはムナクサメ認定映画と表現する。これは「印象の悪い映画」を「鑑賞後に心の休息が必要になる映画」として読み替えるための、筆者独自の批評的試みである。また、これらの作品群は極めて過激な描写や精神的苦痛を伴うため、筆者のマインドにおけるR指定であるという前提を付言しておく。ムナクサメ認定作品は、拒絶反応と、それを乗り越えて生命を長らえさせたいという二つの感情が凝縮された表現である。

映画におけるムナクサメ認定という評価は、単なる後味の悪さを超え、観客の倫理観や人間性への不信感を激しく揺さぶる指標となっている。大野智、松たか子、伊藤英明といったトップスターから、具体的に是枝裕和、園子温、白石和彌、三池崇史といった監督まで、邦画界には観客の精神を削り取る作品が点在している。これらの作品がなぜこれほどまでに不快感を与えるのか、その構造を俳優の素行や時代背景と共に多角的に解体する。

2. ムナクサメ認定の系譜

本稿で分析する2010年代の作品群に至るまでにも、ムナクサメ認定作品の胎動は存在していた。例えば、戦争映画の古典である『地獄の黙示録』や『プラトーン』には、戦争の狂気と無慈悲さを伝えるための残虐なシーンが含まれていた。日本の時代劇においても、夥しい数の兵士が命を落とす合戦シーンは定番であり、ヤクザ映画における抗争、あるいはスプラッターやゾンビといったホラージャンルでも、暴力描写はすでに確立されていた。しかし、これらは「戦争」「時代劇」「ホラー」といった特定のジャンルの中で消費されるものであり、必ずしも映画界のメインストリームで語られる表現ではなかったという時代背景がある。

この潮目を変えたのが、1990年代に登場したクエンティン・タランティーノ監督である。彼の作品は、ギャング映画にカンフーや殺し屋といった異ジャンルの要素を平然と持ち込み、スタイリッシュな暴力描写をメインストリームの観客に提示した。そして、ほぼ同時期に、日本の映画界にも大きな変革者が現れた。それが北野武監督である。

『その男、凶暴につき』や『ソナチネ』といった作品で描かれる北野武の暴力は、従来の映画とは一線を画していた。静寂を切り裂くように突発的に発生し、感情の昂ぶりを排した乾いた暴力描写、いわゆるキタノブルーと称される色彩感覚の中で描かれる生と死のコントラストは、観客にカタルシスではなく、むしろ虚無感ややるせなさといった複雑な後味を残した。これは、後の作品群が持つ「救いのなさ」の源流の一つと見なすことができる。

さらに、ファンタジーやサイエンスフィクションといったジャンルがメインストリーム化したことも、間接的に影響しているかもしれない。『スター・ウォーズ』や、壮大なファンタジー叙事詩として名高い『ロード・オブ・ザ・リング』といった作品では、かつてない規模の軍勢がスクリーン上で消滅していく。こうした「大量死」のスペクタクル化が、観客の死生観に変化を与え、より過激な描写への耐性を育んだ可能性も否定できない。

3. デヴィッド・クローネンバーグ

日本の映画界だけでなく、海外、特に欧米圏においてもムナクサメ認定作品と共振する潮流は存在する。それらは、ヒーロー像の解体、過激なブラックユーモア、精神的苦痛を与えるアートフィルムなど、多様な形で現れている。「ボディホラー」の帝王と称されるカナダの鬼才、デヴィッド・クローネンバーグ監督の一連の作品群は、ムナクサメ認定の系譜を語る上で欠かすことはできない。彼の作品は、人間の肉体がテクノロジーや病、あるいは精神によって変容していく様を、グロテスクかつ哲学的に描き出す。

1981年公開の『スキャナーズ』では、超能力者(スキャナー)が人間の頭部を思考だけで破裂させる衝撃的なシーンで観客の度肝を抜いた。1991年の『裸のランチ』では、ウィリアム・バロウズの難解な小説を映像化し、主人公が殺虫剤を麻薬として吸引し、タイプライターが巨大なゴキブリに変貌する幻覚の世界を描き出した。そして、J・G・バラードの同名小説を原作とする 1996年の映画『クラッシュ』は、自動車事故に性的興奮を覚える人々を描き、テクノロジーと死、そしてエロスの融合という究極のタブーに踏み込んだ。これらが提供するものは、単なる生理的嫌悪感にとどまらず、人間存在そのものの不確かさを突きつけてくる、知的で悪夢的な体験である。

4. 告白

2010年公開の『告白』は、湊かなえのベストセラー小説を原作とし、松たか子が主演、中島哲也監督によって描かれた衝撃的なミステリー作品である。物語の中心となるのは、松たか子演じる中学校教師・森口悠子である。彼女は、まな娘を学校のプールで殺害された被害者遺族でありながら、警察や司法の手を借りず、自らの手で犯人を追い詰める復讐者となる。

森口は、少年法に守られた犯人である教え子たち(渡辺修哉・下村直樹)に対して、HIV感染者の血液を牛乳に混入させたと告げるという狂気じみた嘘を皮切りに、巧妙かつ精神的な「処罰」を冷徹に実行していく。松たか子の演技は、教師という聖職者が、まな娘を殺害した教え子たちを徹底的に破滅させるプロセスを冷徹に描き出した。少年法に守られた犯人に対し、血液を用いた巧妙かつ精神的な「処罰」を下す姿は、人間の悪意を極彩色で塗りつぶしたような衝撃を与えた。また、木村佳乃演じる過保護な母親や、岡田将生演じる空気を読めない熱血教師(通称:ウェルテル)といった周囲の人間も巻き込み、事態は最悪の方向へ転がっていく。ラストシーンの「なーんてね」という一言は、救いの余地を完全に排除した表現として語り継がれている。本作は、教育現場における闇と、復讐の連鎖がもたらす後味の悪さで、2010年代におけるムナクサメ認定映画ブームの火付け役の一つとなった。

5. 冷たい熱帯魚

園子温監督による2011年(一般公開)の『冷たい熱帯魚』は、1993年に発生した「埼玉愛犬家連続殺人事件」という実在の連続猟奇殺人事件をモチーフにした作品であり、観客に生理的な嫌悪感を伴うムナクサメ認定作品の代表作である。物語は、吹越満演じる小さな熱帯魚店を営む社本信行が、家庭不和に悩みながらも平凡に暮らしていたところ、同業者である巨大熱帯魚店のオーナー・村田幸雄と出会うことから始まる。

でんでん演じるこの村田こそが、笑顔の裏に残虐性を秘めた凶悪な殺人鬼であり、社本は彼の犯罪に巻き込まれ、共犯関係を強いられていく。主人公が、でんでん演じる熱帯魚店経営者の凶悪な殺人鬼に巻き込まれていくというあらすじで、でんでんや、その妻を演じる黒沢あすかが見せる「日常の延長線上の悪意」は、生理的な嫌悪感を伴う。この種の、日常に潜む狂気を表現する作風は、後に『凶悪』でリリー・フランキーが見せる演技とも通底する部分がある。特に、死体を解体して「透明にする(証拠隠滅する)」一連の作業を陽気にこなす村田の姿は、倫理観の崩壊を象徴している。この作品は、ごく普通の人間の内に潜む狂気と、逃げ場のない地獄を描出することで、観客の精神を深くえぐり取る。

6. 悪の教典

2012年公開の『悪の教典』は、貴志祐介の小説を原作に三池崇史監督が手がけたサスペンスホラーであり、伊藤英明が主演を務めた話題作である。これまでの「海猿」シリーズなどで見せた爽やかな正義漢のイメージを一新した伊藤英明は、生徒を「駆除」するサイコパス教師・蓮実聖司(通称:ハスミン)を怪演した。物語の舞台は私立高校。ハスミンは生徒から絶大な人気を誇り、同僚教師や保護者からの信頼も厚い英語教師だが、その本性は、自らの邪魔になるものを排除するためなら殺人も厭わない反社会性人格障害者である。

あらすじは、生徒から信頼され愛されていたハスミンの裏の顔が、共感能力を欠いた異常な人格であり、自らの犯行が露見しそうになった文化祭前夜に、散弾銃を手にした教師による生徒全員の大量殺戮が展開されるという、救いようのない絶望をもたらす内容である。二階堂ふみや染谷将太らが演じる生徒たちが次々と凶弾に倒れる中、理屈抜きで命を蹂躙する本能的恐怖を呼び起こすハスミンの姿は、多くの観客にとってトラウマ級のムナクサメ認定作品としての体験となった。

7. 凶悪

白石和彌監督の『凶悪』もまた、「新潮45」編集部によるノンフィクション『凶悪 -ある死刑囚の告発-』を原作とし、実在の「上申書殺人事件」をモチーフとした作品である。山田孝之とリリー・フランキー、ピエール瀧が共演した社会派サスペンスであり、物語は、山田孝之演じる雑誌ジャーナリスト・藤井修一が、ピエール瀧演じる死刑囚・須藤純次から「まだ誰にも話していない余罪がある」という手紙を受け取ることから始まる。須藤は、自分を操っていた「先生」と呼ばれる首謀者が娑婆でのうのうと生きていることを告発したいと訴える。その「先生」こと木村孝雄を演じたのがリリー・フランキーである。

雑誌ジャーナリストが、死刑囚から告発された別の殺人事件を追うというあらすじであり、リリー・フランキーとピエール瀧が演じる極悪人たちによる「日常の延長線上の悪意」が描かれる。特に『凶悪』におけるアルコールを用いた「ぶっこむ」殺害シーンなどは、老人を無理やり酒漬けにして死に至らしめるという、命の扱いを極限まで軽く描いており、観客の倫理観を激しく揺さぶる表現となっている。本作は、人間の悪意の根源を冷徹に描き出し、社会派のムナクサメ認定作品として高い評価を得た。

8. 日本で一番悪い奴ら

綾野剛主演の2016年公開作『日本で一番悪い奴ら』は、北海道警で実際に起きた不祥事(稲葉事件)を描いた実話ベースの作品である。白石和彌監督がメガホンを取り、主演の綾野剛は、正義を信じて警察に入ったものの、点数稼ぎのために裏社会と癒着し、やがて犯罪に手を染めていく「クズ刑事」こと諸星要一を演じた。諸星は、ヤング・ダイス演じる暴力団員や植野行雄(デニス)演じるパキスタン人ら「S(スパイ)」を協力者として囲い込み、組織ぐるみで腐敗していく。

俳優の演技力以前に、プライベートに関する一部報道や現実の評判が、ムナクサメ認定作品への嫌悪感に直結する場合があるという指摘は極めて重要である。彼自身の不安定な空気感や私生活にまつわる噂と相まって、劇中の刑事が「本人の素」を反映しているのではないかという疑念を抱かせる。同期の俳優と比較した際の技術不足や、不細工でありどこがいいのかわからないといった厳しい評価、および星野源と共演した『MIU404』などでも、星野源の持つ理性的な安定感に救われているに過ぎないという批判的な見方も一部に存在する。

9. マザー!

2017年に公開されたダーレン・アロノフスキー監督作『マザー!』は、観客に強烈な心理的動揺とムナクサメ認定作品としての不快感を与えるサイコスリラーである。物語は、郊外の一軒家で静かに暮らす一組の夫婦のもとに、次々と見知らぬ訪問者が現れることから始まる。ジェニファー・ローレンス演じる妻は、ハビエル・バルデム演じる詩人の夫を献身的に支え、美しく家を整えているが、夫が招き入れる訪問者たちによって、その聖域であるはずの家は土足で踏み荒らされ、やがてコントロール不能の混沌に陥る。

旧約聖書の世界観をモチーフにしているとも言われ、訪問者によって平穏な日常が崩壊していく様は、妻の主観を通して描かれるため、観客は彼女のストレスと絶望を追体験させられる。特に後半にかけて、出産シーンやカニバリズムを想起させるグロテスクな描写が立て続けに描かれ、その狂気的な展開は、多くの観客にとってトラウマ級の体験となった。

10. 是枝裕和

是枝裕和監督の作品群は、ドキュメンタリー出身の経歴が色濃く反映された徹底的な「観察」のカメラを特徴とする。しかし筆者にとって、是枝監督の作品は意外なほどに忌避すべき対象、すなわちムナクサメ認定映画なのである。社会問題を取り上げながらも、そこには自己投影や自己懺悔のにおいが一切せず、究極の「他人事目線」を感じてしまうからだ。

たとえば『そして父になる』(2013年)や『海よりもまだ深く』(2016年)において、監督は「ただ、そこに転がっている現実」を無慈悲なまでに高解像度で切り取る。特に『海よりもまだ深く』で阿部寛が演じるダメ男の散乱した部屋を見たとき、筆者は自分自身の鏡を見せられているような、筆舌に尽くしがたい嫌悪感に襲われた。監督は問題を提起するが、解決策も希望の光も提示しない。ダメ男は映画の中でもダメ男のままであり、その救いのなさを残酷なまでに描写し続ける。

このスタンスは『万引き家族』(2018年)でも顕著であり、社会の底辺で生きる人々を慈しむようでいて、実はその不幸を安全な場所から「カタログ販売」している肉屋のように見えてしまう。自らは傷つかない安全圏から、他者の地獄を静観し、切り売りするような冷徹さ。殺人や犯罪を直接扱わない家族の物語であっても、観客を突き放したまま放置するその傲慢とも取れるドライなマインドこそが、筆者には耐え難いムナクサメ認定の要因となっている。

2017年公開の『三度目の殺人』では、役所広司演じる殺人犯・三隅高司と、福山雅治演じる弁護士・重盛朋章の対峙を通じ、真実が霧の中に消えていく不透明さを描いた。広瀬すず演じる咲江という鍵を握る少女の存在を含め、法廷というシステムの空虚さを浮き彫りにする。さらに2023年公開の『怪物』では、安藤サクラ、永山瑛太、および黒川想矢と柊木陽太が演じる湊と依里の視点を交錯させ、観客自身の偏見を突きつけた。これらの作品に通底するのは、問題を解決するための装置としての映画ではなく、単に観客の倫理観を揺さぶり、不快感を残す媒介者としての冷たさである。

11. 忍びの国

2017年公開の『忍びの国』は、和田竜の同名小説を原作に中村義洋監督が手がけ、アイドルグループ嵐のリーダーである大野智が主演した時代劇アクションである。物語の舞台は戦国時代、織田信長の軍勢ですら恐れた伊賀の忍びたちを描く。大野智が演じた主人公・無門は、「伊賀一の忍び」と称される腕前を持ちながら、普段は怠け者で、妻であるお国(石原さとみ)の尻に敷かれているキャラクターだ。

しかし、彼は金のためならば躊躇なく人を殺める冷酷さも併せ持っている。無門は、普段の温和で飄々としたパブリックイメージとのギャップを活かし、金のために仲間を切り捨てる「虎狼の族」としての冷酷さを露呈させた。また、鈴木亮平演じる下山平兵衛が、弟を殺されたことで伊賀の非人間的な掟に絶望し、織田軍を引き入れる裏切り者として対峙する。この作品は、忍者をヒーローではなく「欲にまみれた非情な集団」として描き、伊賀の忍たちの打算的で冷酷な反応をより際立たせている。観客は、伝統的な英雄像が否定されたことによる強い不快感と切なさを与えられる一因となった。集団の倫理観が壊れていることへの絶望がここにある。

12. アリ・アスター

現代ホラー映画の分野で、精神を直接的に蝕むようなムナクサメ認定作品を世に送り出しているのが、アリ・アスター監督である。2019年公開の『ミッドサマー』は、フローレンス・ピュー演じる主人公ダニーが、恋人や友人たちとスウェーデンの奥地にある村の夏至祭を訪れる物語である。白夜の美しい村を舞台に、明るい映像の中で狂気の儀式が繰り広げられるフォークホラーであり、ダニーの孤独と絶望が、共同体の狂気とシンクロしていく過程は、観客にじわじわとした恐怖と後味の悪い結末をもたらす。

2023年公開の『ボーは恐れている』は、ホアキン・フェニックス演じる極度の不安神経症を抱える中年男性ボーが、母の元へ帰省しようとするだけの物語を、アリ・アスター監督が、悪夢のような災難が連続する3時間の大長編として描き出した。観客はボーの主観に引きずり込まれ、現実と妄想の境目が曖昧な世界で、混乱と不快感の渦に突き落とされる。アリ・アスター監督による作品は、直接的な暴力以上に、登場人物のトラウマや心理的苦痛を執拗に描くことで、観る者の精神を深く削り取る。

13. ザ・ボーイズ

前章の論考でも触れた通り、日本の映画界だけでなく、海外、特に欧米圏においてもムナクサメ認定作品と共振する潮流は存在する。それらは、ヒーロー像の解体、過激なブラックユーモア、精神的苦痛を与えるアートフィルムなど、多様な形で現れている。スーパーヒーローというジャンルを根底から覆し、現代的なムナクサメ認定作品を提示したのが、Prime Videoで配信されているドラマシリーズ『ザ・ボーイズ』である。ガース・エニスとダリック・ロバートソンによる同名のコミックを原作とし、もしスーパーヒーローが巨大企業に所有され、名声と権力に溺れたセレブリティだったら、という世界を描く。

物語の中心は、腐敗しきったヒーローチーム「セブン」と、彼らに愛する者を奪われ、復讐を誓うビリー・ブッチャー(カール・アーバン)率いる自警団「ザ・ボーイズ」の死闘である。特にリーダーであり最強のヒーロー、ホームランダー(アントニー・スター)は、外面は完璧な愛国者だが、内面は歪んだ承認欲求と残虐性を持つサイコパスとして描かれ、彼の非道な行状が強烈なムナクサメ認定映画としての感覚を生み出す。本作は、宗教や善悪の概念を皮肉る破天荒なブラックユーモアと、容赦のないゴア描写が全編を貫いている。

さらに、そのスピンオフ作品である『Gen V』では、ヒーロー養成大学を舞台に、若者たちが巨大な陰謀に巻き込まれていく様が描かれる。それだけに、視聴者に一見他のヒーロードラマのような希望をもたせておいて最終回で絶望に落とすというテンプレートを常としていた本シリーズにおいて、第2期の最終回が、血液を操る能力をイエス・キリストの予表のように描いたように筆者には感じられ、全くの予想外の人類全体の未来の希望を賛美して終了した点は特筆に値する。最終回を迎えたときには、全く不思議なことに「自分の見た目は間違えていなかった」というような思い込みとともに、平穏にストーリーを見終わった記憶がある。

14. 時代背景

「イヤミス」や、是枝裕和監督作品に感じる救いのない突き放しが、なぜこれほどまでに日本のエンターテインメントとして定着したのか。その背景には、単なる流行を超えた社会の構造的変化と不条理の歴史がある。

この「タガが外れた時代」の源流を遡ると、2001年のアメリカ同時多発テロ(9_11)の影響が考えられる。ニューヨークのビルが倒壊する光景は、世界中に「絶対的な悪は身近に潜んでおり、かつ理不尽に日常を破壊する」という不信感を植え付けた。この出来事以降、勧善懲悪の物語はリアリティを失い始め、世界中で人間の暗部を暴き出すような表現が加速した。2010年代のムナクサメ認定映画における表現は、このグローバルな不条理への適応という側面も持っている。

さらに日本では、2011年の東日本大震災が決定打となったとの見方が強い。地震と津波、および原発事故という複合的な不条理は、日本のクリエイターと観客の双方に、もはや安全な場所などどこにも存在しないという絶望を刻み込んだ。日常が瞬時に崩壊する様を目の当たりにしたことで、綺麗事ではない人間の醜悪な本質を暴き出すことがリアリズムとして求められるようになった。この震災という喪失が、救いのない結末や冷酷な描写を許容し、希求する土壌を作ったといえる。

こうした背景に加え、社会学的には「液状化した(リキッド・モダニティ)社会」の影響が挙げられる。ジグムント・バウマンが提唱したように、共同体が崩壊し個人がバラバラになった結果、隣人が何を考えているか分からないという根源的な不安が生まれた。また、SNS等の普及により肥大化した承認欲求は、自分を無視する社会への復讐や他人の不幸を覗き見ることでの相対的な安心へと転じ、『告白』などの自意識の暴走が、現代的な孤独の歪んだ発露として受容されている。

さらに「失われた30年」を経た格差の固定化は、努力の無価値化を招いた。ダメ男が改心して成功する物語はもはやファンタジーとして冷笑の対象になり、是枝作品に見られる階級移動が不可能な現実のトレースがリアリティを持つに至った。ジャン=フランソワ・リオタールが提唱した「大きな物語の終焉」により、共通の理想を失った社会では、倫理的な正しさよりも「心がざわつくかどうか」という刹那的な感情の消費がコンテンツの価値基準となったのである。

15. 最終的結論

ムナクサメ認定作品とは、作り手の思想、演者の不誠実な人間性、および観客が抱く現実的な嫌悪感が複雑に絡み合った結果生まれる、拒絶反応の総体である。特に9_11や震災によって価値観のタガが外れた混沌とした時代背景の中で、現実の闇や俳優の醜い素顔が透けて見える作品ほど、その不快感は真実味を帯びて観客の心に深く刻まれることになったのである。

これまで、ムナクサメ認定作品に関して、多角的な視点からその構造を紐解いてきた。最後に、筆者自身の個人的な心境を正直に告白する必要があるだろう。実のところ、ムナクサメ認定映画として挙げた作品の多くは、筆者にとって「もう二度と見たくない」というカテゴリーに属している。本稿で取り上げてきた作品群を筆頭に、北野武監督作品、クエンティン・タランティーノ監督作品、およびデヴィッド・クローネンバーグ監督作品の一部の作品でさえも、その精神的な磨耗ゆえに、この「ボクのR指定」リストに含まれているのである。

しかし、不可解なことに『ザ・ボーイズ』と『Gen V』だけは、そのカテゴリーには含まれていない。第一に、主人公ビリー・ブッチャーの心理描写が、筆者の内面に深く重なり合ってしまう点だ。筆者のマインドの中に今なお存在する「呪怨」や「悪霊」とも形容すべき精神的形態が、劇中のブッチャーの描写と驚くほど酷似している。それゆえ、どれほど過激な描写を免責してでも、彼がどのような結末を迎えるのかを最後まで見届けたいという動機が生まれている。

第二に、本作がヒーローという偶像を、凡庸な欲望の虜として徹底的に描いている点である。特に自慰行為の描写に対する執着は、ブライアン・W・オールディスが自伝的小説『手で育てられた少年』において、その描写にこだわり抜いた姿勢と極めて近い印象を受ける。これは、是枝作品に見られる安全圏からの観察とは対極にある、制作スタッフによる血の通った「公開懺悔」なのではないだろうか。ヒーローというメタファーを用いながら、現代人特有の背徳感に関する告白を行っているという感触が、本作を単なる不快な作品以上のものに昇華させている。

ことほどさように、ムナクサメ認定作品として定義するかどうかは、個人のパーソナルな経験というグラデーションに依存する、極めて恣意的な判定である。このような個人的な制限事項があることを付言しつつも、これらの作品の取り扱いには、今後も慎重を期する必要があるという結論を改めて強調したい。

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