不思議ハンター:非非(ナルナル)ユークリッド幾何学(3千文字)


不思議ハンター:非非(ナルナル)ユークリッド幾何学
ボクの名前は、常世 藤四郎(とこしえ とうしろう)。「不思議ハンター」さ。世界は不思議であふれていて、ボクはそれを集めている。なぜ不思議を集めているのかって? だって世界の不思議には、しっかりとした理由があるように、ボクには見えるから、その理由を求めているのさ。でも、何よりも不思議なのは、みんなが不思議を不思議と思わないことかな。それが、ボクが不思議ハンターになった大きな理由かもしれない。
時は1917年のロシア。ボクはペテルブルク郊外のタチアナ私設診療センターで、「聴聞神父」として患者の語りに耳を傾けていた。今でいう傾聴ボランティアみたいなものさ。そこには、ボクの探求する「不思議」がたくさんあった。心という広大な宇宙には、まだ解明されていない領域が広がっているから。ただ静かに耳を傾けるだけで、ここにいる人たちの話、彼らの言葉の中の「不思議」の欠片がちりばめられているのが見える。
今回ボクが向き合ったのは、一人の患者さん、ヒジュン・コウマ氏。彼はロシア政府に招聘された理論物理学者で、つい最近最愛の妻を亡くしたショックから、この病院に入院している。ボクと同じ東洋人だからか、とても謙虚で物静かな人だった。ボクの本業は考古学者だけど、ロシア正教の叙階も受けているから、聴聞神父もできる。今回聞いた話は、物理学者らしい、「地平線にまで伸びている線路の謎」だった。
【1】アインシュタイン
その日の午後、ヒジュン・コウマ氏は、窓辺に腰かけながら、静かにボクに問いかけた。
「藤四郎君、君は去年アインシュタインが発表した、一般相対性理論を知っているだろうか?」
ボクは首をかしげてみせた。もちろん知っている。でも、ボクの仕事は「聞くこと」。彼の言葉を引き出すために、ボクはあえてとぼけてみせる。
「いえ、詳しくは。名前だけは、聞いたことがあります、コウマさん。」
「そうか」コウマ氏は窓の外の線路を見つめながら続けた。「アインシュタインは1905年に特殊相対性理論を発表した。光の速度は観測者の運動状態によらず一定だという、驚くべき発見だ。そこから時間の遅れや空間の収縮が導かれる。」
彼はノートを開き、数式を書き始めた。

E=mc2「有名な式だろう。質量とエネルギーが等価だという、革命的な考えだ。」
「そして去年、アインシュタインはさらに進んだ。一般相対性理論では、重力とは空間の歪みだとされている。質量があると空間が曲がり、その曲がった空間が物体の動きを決める。力ではなく、幾何学なんだ。」
彼は新たな数式を書き加えた。

Gμν+Λgμν=8πG/c4*Tμν「この式が、空間の曲率と物質の分布を結びつける。美しいだろう?」
【2】非ユークリッド幾何学
コウマ氏はページをめくり、図形を描き始めた。
「ユークリッド幾何学では、平行線は決して交わらない。三角形の内角の和は180度だ。これが二千年以上信じられてきた『当たり前』だった。」
彼は三角形を描いた。
「だが19世紀、ガウス、ロバチェフスキー、リーマンらが、ユークリッドの公理系とは異なる幾何学を発見した。非ユークリッド幾何学だ。」
「例えば球面では、三角形の内角の和は180度を超える。」

∠A+∠B+∠C>180∘「地球儀を想像してほしい。赤道と二本の経線が作る三角形を考えると、赤道上で90度、90度、北極で交わる角度を加えれば、明らかに180度を超える。これがリーマン幾何学だ。」
「逆に、鞍型の曲面では内角の和は180度未満になる。これが双曲幾何学だ。アインシュタインの一般相対性理論は、まさにこのリーマン幾何学を使って、曲がった時空を記述している。」
コウマ氏の説明は明晰だった。だが、彼の表情には何か満たされないものがあった。
【3】非・非ユークリッド幾何学
コウマ氏は窓の外の線路を指差した。
「あそこを見てくれ、藤四郎君。線路が地平線の彼方へ伸びている。」
ボクは窓の外を見た。確かに、二本の線路が遠くで交わっているように見える。
「三次元空間では、あの線路は決して交わらない。平行だ。だが、僕がこうしてノートに線路を描くと」
彼はノートに二本の線を描いた。遠近法で、線は消失点で交わっている。
「交わってしまう。なぜだろう?」
ボクは少し考えた。「遠近法ですから、そう見えるだけではないですか?」
「そう、『そう見える』『そう描く』んだ。射影幾何学では、平行線は無限遠点で交わると『みなす』。一点透視図法も、遠近感を一点に収束させると『みなす』ルールだ。」
コウマ氏の声に、かすかな苛立ちが混じった。
「だがこの『みなす』とは何だ? これは球面の話ではない。あの線路が銀河系の遥か彼方まで伸びていたとしても、それは平面であって球面ではない。非ユークリッド幾何学では説明できない。」
「現実の直線も、紙に書いた直線も、直線に変わりはない。なのに、どうして紙の上でだけ交差するんだろう?」
彼の問いは純粋だった。専門家たちの「便宜上そう決めている」という答えでは、彼の疑問は解消されなかった。
「これは非ユークリッド幾何学ですらない。非・非ユークリッド幾何学とでも呼ぶべき、誰も気にしない盲点なんだ。」
【4】無限小 — 縮退する線
数日後、コウマ氏は再びボクを呼んだ。
夜明け前の病室、彼の目は深い静けさの中で何かを確信していた。
「藤四郎君、考えがまとまった。あの線路は――無限遠で交わるんじゃない。」
彼はノートを開き、一本の線を描いた。
それはただの線だった。だが、その描き方には、長い沈黙の果ての答えが宿っていた。
「ボクはね、無限遠点という考えをずっと疑っていた。
あれは“みなす”という言葉でごまかしているだけだ。
けれど、現実の世界にはそんな点は存在しない。
あるのは――“無限小に縮退する”という現象だけなんだ。」
彼は窓の外を指した。線路が地平線へと消えていく。
「実際の平行線は、宇宙の果てまで伸びても交わらない。
それでも僕らの目には、一点に収束して見える。
なぜか?
あれは交わっているのではなく、視角が無限小に縮退しているからだ。
距離が無限に大きくなるにつれ、見える角度が無限に小さくなり、ついに僕らの感覚の解像度を超える。
つまり、“ひとつに見える”んだ。」
「でも――紙の上では、それが描けない。」
彼はノートの線を見つめながら続けた。
「二次元という平面には、“縮退”という現象を表す手段がない。
だから、僕らは仕方なく“交わる”と描く。
無限小に近づいて区別がつかなくなるその極限を、“無限遠点で交わる”という形で代用したんだ。
それが、射影幾何の方便だった。」
ボクは息をのんだ。
言葉の一つひとつが、静かに落ちていくように感じた。
「つまり、藤四郎君――
二次元の交点とは、三次元の縮退の代用品なんだ。
数学は縮退を描けず、だから交差という幻を描いた。
無限遠点とは、僕らの認識の限界が投影された一点にすぎない。」
窓の外の線路は朝靄の中でかすみ、確かに平行のままだった。
その先に何があるのか、誰も見たことがない。
コウマ氏は小さく笑った。
「そう考えると、無限小は無限遠と同じだ。
外へ向かう無限と、内へ向かう無限が、そこで重なる。
無限に遠いものは、同時に無限に細い。
世界は、そうやって視界の裏側で閉じているのかもしれないな。」
【エピローグ】
翌朝、コウマ氏は突如として失踪した。彼の部屋は静まり返っていた。
机の上には、整然と積まれたノートと、最後のページだけが開かれていた。
そこには――何も描かれていなかった。
ただ、何も描かれていないはずの余白が、妙にまぶしく見えた。
ボクは窓辺に立ち、遠くの線路を見つめた。
地平線の向こうで、二本の線は今日も平行のまま、やがて霞に溶けていった。
あれは交わっているのではない。
無限小に――縮退しているのだ。
ボクの心の中にもまた、一つの「無限小」が、静かに灯った気がした。














【注記】
この物語は次の書籍へのオマージュ、リスペクト、インスパイアとして作成されました。
