マザーテレサ:母なることの由来(8千文字)
マザーテレサ:母なることの由来
v5.2
【注釈】本稿は筆者個人の調査と考察に基づくものであり、専門家によるものではありません。AI等を補助的に活用していますが、内容の正確性を保証するものではなく、個人的な解釈や推論も含まれます。本稿における会話再現や数値は、ドキュメンタリー映像および関係者証言に基づくものであり、逐語的な公的史料とは異なる場合があります。読者の思考材料の提供を目的としています。
1. 1987年、社会派映画との邂逅と衝撃
筆者がこの記録映画を初めて視聴したのは1987年頃のことです。そのきっかけは、ピーター・ガブリエルのソロアルバムに収録されていた楽曲「ビコ(Biko)」を通じて、南アフリカのアパルトヘイト問題を知ったことにあります。
当時、リチャード・アッテンボロー監督の映画『遠い夜明け』がそのスティーブ・ビコを扱った作品であると聞き、レンタルビデオショップで借りて視聴しました。アパルトヘイトの過酷な現実に、視聴後はしばらく立ち直れないほどの深い衝撃を受けました。世の中にはこれほどまでに強いメッセージを放つ「社会派映画」が存在することを初めて知った瞬間でした。
そこから、アッテンボロー監督の過去作である『ガンジー』へと遡り、さらなる感銘を受けることになります。それまで世界情勢や世間一般に無関心であった自分を深く反省し、南アフリカのアパルトヘイト、あるいはインドの独立といった国際情勢(フォーリン・アフェアー)へと強く関心を抱くようになりました。
また、劇中における俳優陣の熱演も記憶に深く刻まれています。スティーブ・ビコ役を演じたデンゼル・ワシントンの圧倒的な存在感や、ケヴィン・クラインとの掛け合いは非常に見応えがありました。後にケヴィン・クラインは『ワンダとダイヤと優しい奴ら』や『殺したいほど愛ラブユー』でそのイメージを見事に裏切ることになりますが、その話はまた別の機会に譲ります。
2. マザー・テレサへの関心と作品の背景
インドの歴史や社会問題への関心が深まる中で、筆者が次に手に取ったのが本作『マザー・テレサ 母なることの由来』でした。当時まだ健在であった妻がマザー・テレサを深く敬愛していたこともあり、彼女が心酔する人物についてより深く知りたいと願ったことが、このドキュメンタリーを視聴する直接の動機となりました。
本作品の概要は以下の通りです。
原題:Mother Teresa
製作年:1986年(アメリカ)
監督:アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ
主な内容:長期にわたる十カ国での活動、生い立ちからノーベル平和賞受賞までの軌跡
象徴的な活動:「死を待つ人の家」、ハンセン病患者への支援、ベイルートでの孤児救出など
核心となる教え:「最も小さくされた人々の中に神を見る」「愛の反対は憎しみではなく無関心」
本作は、マザーがカルカッタ(現コルカタ)で「死を待つ人の家」を設立し、その活動が世界へと波及していく本質的な姿を克明に捉えています。二十代という多感な時期にこれらの映像群に触れたことは、自身の価値観を根本から揺さぶる体験となりました。
3. アッテンボロー監督との意外な接点
筆者が本作を視聴した際、かつて衝撃を受けた『ガンジー』などのアッテンボロー監督作品と製作姿勢において非常に近い印象を受けましたが、最近になってその理由の一端を知り、深く腑に落ちる思いがしました。
実は、リチャード・アッテンボロー監督は本作のナレーターとして参加したとされており、マザー・テレサの活動に深く共鳴していたのです。一九八五年、国連本部で行われた本作の初期段階の上映会(ワールドプレミア)には、マザー本人が出席していたという記録があります。作品そのものは後の再編集によって彼女の逝去のエピソードまでを包括する形へと進化していきますが、アッテンボロー監督の語りを通じて、初期からマザーの活動を世界へ届けようとしたその精神的潮流は、紛れもなく存在していました。一貫して社会的な不正や偉大な魂の軌跡を描き続けた監督の信念が、このドキュメンタリーの背後にも流れていたと言えるでしょう。
4. 姉妹編『母なるひとの言葉』、伝記映画、および圧倒的リアリティ
その後、しばらく時間が経ってから、筆者は姉妹編にあたる『マザー・テレサ 母なるひとの言葉』(2007年公開)や、オリビア・ハッセー主演の伝記映画『マザー・テレサ』(2003年制作)も視聴しました。
『母なるひとの言葉』は、一九九七年のマザーの国葬を軸に、彼女が残した精神的遺産を描いた「完結編」とも言える作品です。一方、オリビア・ハッセーが主演した劇映画は、彼女自身が二十年来熱望し、マザー本人からも公認を得ていたというエピソードが知られています。その徹底した役作りと再現度は高く評価されています。
しかし、これらの関連作品を鑑賞した後でも、やはり最初に出会った『母なることの由来』が与えた衝撃は圧倒的でした。生前の活動を長期にわたり密着したあの映像が持つ真実味と迫力は、今なお他の追随を許しません。
本作がこれほどの衝撃を観る者に与え続ける最大の理由は、なによりもマザー・テレサ本人の言葉で全編が充満しているからです。それは単なる整えられたインタビューではなく、実際の活動の場で対話し、権力者と交渉し、子供たちと触れ合う生々しい姿の記録です。直接マザー・テレサと会うことが叶わない世代にとって、この作品は心の中に彼女をめぐる圧倒的なリアリティを焼き付けることになります。映像に刻まれた一挙手一投足が、彼女が単なる理想主義者ではなく、血の通った一人の人間であることを突きつけてくるのです。
5. 執着を手放す「ネゴシエーター」としてのロジック
マザーは精神的な指導者であると同時に、貧しい人々の場所を確保するための極めてタフな交渉者、いわば「ネゴシエーター」でもありました。劇中には、政府当局者から土地の返還を求められた際の、緊迫しながらも鮮やかな交渉シーンが記録されています。
マザーは語ります。「政府に土地をもらい、ホスピスや様々な施設を作りました。けれど政府は突然、土地を返して別の場所へ行けと言ってきたのです」。
交渉の場での対話は以下の通りです。
政府の女性:「この場所は人の出入りが増え、騒がしくなります。大きな市場を造る計画があるからです」
マザー:「われわれは最高の市場です。愛を売ります」
政府:「そうですね。でも人々は多くの物を必要としている。貧困から抜け出そうとしている多くの貧しい人々を手助けしたい」
マザー:「その人たちには、他にも土地があるはずです」
政府:「けれどここは中心地です。周囲には大勢の家族が住んでいます。広い土地をお貸ししたいですが、ここはだめです。使えません。他に最善の土地を」
マザー:「私たちはここにとどまりたい。動きたくありません。不可能ならば、それは神の意志なのです。受け入れます」
このやり取りに見えるマザーの思考回路は非常に興味深いものです。彼女は自らの活動を「愛を売る最高の市場」と定義して政府のロジックを逆手に取り、最後には「不可能ならば神の意志として受け入れる」と、執着を完全に手放す姿勢を見せます。しかし、この「柔和で謙虚な拒絶」こそが、相手に最も強い心理的決断を迫る一本筋の通ったロジックとなっていました。
マザーはこう結論づけます。「神は何を望むか、すぐに結果で見せます。大事なのは祈ることです。何が最大の善か知るために。多分政府は何度も話し合い、その成果として書状を書きました。私たちに土地を五十年間貸すと。さらに元の土地だけでなく、他にも追加すると」。
単なる愛に溢れた聖母という世間の評判以上に、彼女の痩身の背中には、信仰に裏打ちされた冷徹なまでの交渉力と、活動家としての不屈の魂が宿っていたのです。
6. 戦火のベイルートでの救出劇と不屈の意志
1982年夏、マザー・テレサが戦火のベイルートを訪れた際のエピソードは、彼女の行動原理を象徴する奇跡的な救出劇として語り継がれています。そこには、軍事的な不可能を信仰のロジックで突破する、マザーの首尾一貫した可能性検証と、圧倒的な聖なる諦めの悪さが刻まれています。
救出を巡る緊迫した現場での対話は以下の通りです。
神父:「西ベイルートに大勢の人が」
マザー:「教会が行くべきなのです。政府とは無関係ですから」
米国特使:「少し待ってください。現在の激しい戦闘が終わればすぐに感情も落ち着き可能性も上がります。多分今は車まで横切れません。行けても戻れるかどうか」
マザー:「軍が人々を連れて」
米国特使:「今は難しいでしょう。けれど考え方はいい」
マザー:「考え方ではなくわれわれの務めです」
米国特使:「ええ、けれど戻れなければ立ち往生だ」
マザー:「双方の軍の人に頼んだらどうでしょう」
米国特使:「ここは秩序もあり軍もいる。だがあちらは無秩序状態です」
マザー:「けれど苦しんでいる人々を迎えに行きたいのです。そして連れて戻ります。障害のある人たちを」
神父:「始めるべきです。私は賛成だ」
米国特使:「二週間、聖職者が多数殺された。故意に狙われたのです。われわれの務めなら命を懸けましょう。そう、イエスのために」
マザー:「何十年も前に最初のひとりを助けて以来、同じ気持ちなのです。そのとき始めたから四万二千人助けられた。コルカタのスラムでです。だからまた一人ずつ助けましょう」
劇中の「神父の語り」では、当時の包囲されたベイルートの絶望的な状況と、マザーの確信が回想されています。
神父は語ります。ベイルートは包囲されており、マザーは西ベイルートの人々が必要とすることをしたかったのです。戦場を横断する手助けを頼まれた米国特使ハビブ氏は言いました。爆音は聞こえますかと。彼女はええと答えました。特使は、今は絶対に無理だとお分かりですね、まず停戦させるのですと説得しました。
すると彼女は、聖母に祈りました、明日停戦にしてくださいと答えたのです。それは聖母マリアの祝日の前日でした。ハビブ氏は驚き、マザー、あなたが私の味方でよかったです。私も祈りを信じます。祈りはかなうとね。それに私は信心深い。だが聖母にベギン首相と交渉しろと。しかも期限が短すぎると思いませんか。少し延長すべきではと問いかけました。
マザーはごく真剣に答えました。いいえ、ハビブさん。明日停戦になるでしょう。特使は、もし実現したら私が自ら西ベイルート行きを手配しましょうと約束しました。
そして翌日、本当に停戦は実現し、マザーたちは約六十人の脳性麻痺の子供たちを救出しました。これは劇的なケースを切り取っただけかもしれません。しかし、マザーのこの首尾一貫した可能性検証と聖なる諦めの悪さはなんと心強い姿勢でしょうか。まさに次の聖句を体現していると言えるでしょう。
「もし神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵対できるだろうか」(ローマの信徒への手紙 八章三十一節)
新約聖書の中で最も力強い励ましの言葉の一つです。この確信があったからこそ、彼女は国家間を動かす大きな奇跡を地続きのものとして実践できたのです。
7. 三本の指に込められた祈りと実践の同居
劇中の印象的な場面に、マザーが対面する女性の指に触れながら祈りを唱えさせる象徴的なシーンがあります。マザーは女性の「親指」「人差し指」「中指」を一本ずつ丁寧に手に取り、言葉を復唱させています。
その内容は以下の通りです。
親指を握りながら:「Jesus in my heart(私の心の中のイエス)」
人差し指を握りながら:「I believe in Your tender love for me(私へのあなたの優しい愛を信じます)」
中指を握りながら:「I love You(あなたを愛しています)」
この「ジーザス・イン・マイ・ハート」の簡便な祈りは、キリスト教における「三位一体」を象徴しており、毎日清貧の生活を実践するシスターたちにとっても、それが身近に感じられる親しみやすい祈りとして最適です。この三位一体の祈りは、キリスト教の根幹である「主の祈り」の本質とも深く重なっています。
証聖者マクシモス「主の祈りについての講解」要旨(『フィロカリア』より)
救い主が教えられたこの祈りは、人間がいかなる恩寵によって神の子とされたかを示しています。「天におられるわれらの父よ」と呼ぶ者は、自らが天の故郷からの離脱者であることを自覚し、その高貴な地位にふさわしい生活を送るよう励まされます。
この祈りは「父・父の名・父の国」という三つの顕現を含み、一なる三位一体への崇敬を教えるものです。
父なる神の名:実体的に存立する「子(独り子)」を指す。
父なる神の国:実体的に存立する「聖霊」を指す。
「御名が聖められますように」とは、神の子たるわれわれがふさわしく歩み、その善い行いを通して天の父が崇められることを求めています。また「御国が来ますように」とは、われわれのうちにある罪の支配が滅ぼされ、神のロゴスが心を統治し、聖霊の働きが満ちあふれることを切望する祈りです。同一実体であり超実体である三位一体を、われわれの生成の創造的原因として拝することが、この祈りの真髄なのです。
【引用】四福音書における「主の祈り」および関連箇所
1. マタイによる福音書 6:9-13(主の祈り 全文)
天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇められますように。御国(みくに)が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。
2. ルカによる福音書 11:2-4
父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。
3. マルコによる福音書 11:25-26
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天の父も、あなたがたの過ちを赦してください。
4. ヨハネによる福音書 17:21
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
「Jesus in my heart」と唱える静かな祈りの指が、次の瞬間には貧しい人々のために土地を勝ち取る力強い手となり、さらには戦火の中へ飛び込み子供たちを救い出す勇気となる。この多面的なマザー・テレサの姿こそが、時代を超えて観る者の魂を揺さぶり続けています。
8. 劇中を彩る聖歌「まず求めよ」
本作品のエンディングタイトルで流れる曲は、世界中で愛されている聖歌「Seek Ye First(まず求めよ)」です。この曲は、マウイ島出身のKaren Laffertyによって1971年に作詞・作曲されました。
マタイによる福音書6章33節に基づいたこの曲の歌詞は以下の通りです。
神の国と神の義を(Seek Ye First)
神の国と神の義を まず求めなさい
そうすれば、みな与えられる アレル、アレルヤ
(コーラス:アレルヤ、アレル、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ)
人はパンだけで生きる ものではない
神の口から出る言葉で生きる アレル、アレルヤ
(コーラス:アレルヤ、アレル、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ)
求めなさい そうすれば与えられる
たたきなさい そうすれば開かれる アレル、アレルヤ
(コーラス:アレルヤ、アレル、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ)
日本の各歌集においては以下の通り収録されています。
新聖歌:291番「神の国と神の義を」
新生讃美歌:293番「神の国と神の義」
日本聖公会聖歌集:483番「神の国と神の義を」
カトリック教会においても、公式の『典礼聖歌集』には含まれませんが、集会用歌集『ともにうたおう』などに収録され、広く親しまれています。マザー・テレサの生涯を締めくくるにふさわしい、神への信頼を歌った一曲です。
9. 実務家としてのマザーと「ミス・オロナイン」
その後、筆者はおよそ二〇〇五年前後であったと記憶していますが、芦屋で日本人の活動家である是枝律子さんの講演会(および作品展)に参加する機会があり、そこで「実務家としてのマザー・テレサ」という印象をさらに強くすることになります。
是枝さんはかつて看護師長を務めておられた方で、若い頃からインドのマザーハウス「死を待つ人の家」へ四十数回にわたり、自ら物資を携えてボランティアに赴かれた驚くべき行動力の持ち主です。是枝さんが常に持参していた日本の「オロナインH軟膏」が貧しい人々の皮膚病に非常に有効であることを知ったマザーは、それを大変喜び、親しみを込めて彼女を「ミス・オロナイン」と呼びました。
マザーの医療行為の適否については、設備の不備や衛生基準を巡り専門家から批判的な声が上がることもありますが、筆者はその是非については語りません。ただ、当時の極限状態における判断として、たとえ日本の市販薬であっても、利用可能な素材を最大限に活用して目の前の人を救おうとするその姿勢は、極めて実務的であると感銘を受けました。
マザー・テレサは、理論を優先する「専門家」というよりも、現場での実効性を重んじる「活動家」としての側面が非常に強い人物でした。是枝さんのような現場を支える人々との交流を通じ、献身的な愛の背後にある、確かな実務能力と揺るぎない現場主義こそが、彼女の活動を支えていたことが分かります。
<td>是枝さんは後に交通事故により車いす生活となられましたが、その状態でもなおネパールやインドのマザーの家へボランティアに通い続けておられます。タゴール家に嫁がれたタゴール暎子さんなど、マザーの精神に共鳴する多才な人々との繋がりの中で、今もなお和布をモダンな洋服へと変身させる技を披露されるなど、力強く活動されています。このような、マザー・テレサの精神を体現する人々との触れ合いもまた、マザーという存在をより多層的に理解する助けとなりました。
10. 到達不能な光、その先に見える新たな使命
正直なところ、この作品を初めて目にして以来、マザーとそのシスターたちの姿は、自分には到底到達できない遥か彼方の目標であるという、恐怖と畏敬が入り混じった念を抱き続けてきました。同時にその献身は、世の中のあらゆるホスピタリティに従事する人々が模範とし、仰ぎ見るべき北極星のような存在であるという確信を、私は勝手に抱いてしまいました。
かつて是枝律子さんとお会いしたときも、私のこのマインドセットに大きな変化はありませんでした。あまりに巨大な愛の光の前に、自分を小さく感じていたのです。しかし、六十歳という人生の節目を過ぎた今、いつまでも「彼方の目標」として見上げているだけでは、何も成し遂げられないまま終わってしまうという危惧、あるいは新たな想いの比重が、自分の中でかつてないほど高まってきています。
マザーは動画の最後に語りかけます。
「あなたが選んだのではない。イエス・キリストがあなたを選んだのだ」と。
それは富や名声、あるいは日々の糧といった形あるものかもしれません。もしそのすべてを奪われたとしても、自ら何かを「選ぶ(choose)」のではなく、ただ「受け入れる(accept)」こと。それが、すべてを「委ねる(surrender)」ということであり、それこそが真の意味で「自由(free)」になるということなのだと。
私は、さらに思うのです。その「受け入れる」という行為自体が、個人の意志や努力だけで到達できるものではなく、自分を超えた大いなる存在——神の恩寵によってのみ許される領域なのではないかと。
そして、そろそろ自分自身も、その恩寵を静かに受け入れたいというマインドセットへと変化し始めているのかもしれません。
聖なる諦めの悪さを持って目の前の一人と向き合い続けたマザーのように。今の私にできることは何か、その問いと改めて真摯に向き合おうと思います。














#マザーテレサ
#信仰と実践
#ドキュメンタリー考察
#宗教と行動
#社会派映画
#祈りの力
#ノンフィクション
#生き方を考える
#愛と責任
#思想エッセイ
